山頂広場を南側に下ります。
この辺は樹木が切り払われており、当時の山容がわかります。
斜面を掘削して平場と急斜面を連続させています。
急斜面からは敵が進入できないようにし、自軍兵は平場で待ち伏せ、
登城口を攻めあがる敵を横からも攻撃できる態勢となっています。
平山城の長谷堂城は敵が領地に進入してきたときの籠城戦を前提として造られているようで、
案内板を見ると、日頃の行政は堀で囲われた平地の武家屋敷で行われていたようですね。
出城として天守閣や登城門がないのは当然として、長期の籠城にも耐えれなかったでしょう。
それが「北の関ケ原の戦い」と言われるほどの戦果をあげた理由は、
志村伊豆の守のはじめとした武士団の機動力を生かした戦術がありました。