じいちゃんのつぶやき

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「あまり恰好つけないで」 唐津城天守閣で叱られる

2011-06-03 00:44:14 | 日記


6月1日、梅雨の晴れ間に唐津城の観光に出かけた。唐津湾に面した美しい城である。

唐津城は豊臣秀吉の近臣<寺沢広孝>が秀吉の命により築城した。
秀吉の朝鮮侵攻の時、広孝は水軍奉行として大活躍。名護屋城築城の
功労もあって、この上松浦に領地をもらった。慶長8年に天守閣が完成したと
されるが、名護屋城の廃城の時、石垣や構築物の一部がここに移設されたという。
2009年に金箔付きの瓦が出土している。紋所は秀吉の桐であった。

私が見た天主台は江戸時代のもので、その上の天守閣はその後の模作という。
斜めに走るエレベータが石垣下部から天守台地上部に、私たちを運んくれる。
嬉しいことに、天守閣に入って念願の<安田国継>の長槍を見ることが出来た。

織田信長を本能寺に襲った明智光秀軍の中に、槍の名手安田国継がいた。
国継は織田信長に槍で初の一刺しを与えたことで有名であった。信長の小姓
<森蘭丸>から縁側下に叩き下ろされ、男の一番大事なところを傷つけられた
という。負傷にひるまず、蘭丸を討ちっとったので槍の名手の名前が
天下に響いた。

国継は風評ばかり喧伝されるのを嫌い、<天野源右衛門>と改名したが
槍名人を雇いたがる武将が引きも切らずであった。
安田國継は秀吉の甥<羽柴秀勝>、<羽柴秀長>、蘭丸の兄<森長可>そして
<蒲生氏郷>に仕えた。

ついで、名護屋城築城のために働く立花宗茂への督励の意味を込めてか
奉行<浅野長吉>が、この天野源右衛門を宗茂に推薦してきた。

槍名人は文禄の役の碧蹄館の戦いで立花軍の槍武将として大活躍する。
引き揚げてきて、何故か関白秀次に仕える。
色好みの秀次が光秀の娘貞子(織田信澄夫人)を源右衛門に要求して来た。
源右衛門は旧主明智光秀に対する恩を忘れずに、貞子を庇護していたらしい。
尻の暖まらぬ人物にもいいところがあった。秀次はこのことを秀吉に
知られて、身を滅ぼすことになったといわれる。

ところで、源右衛門の槍は槍首が細く、漆塗りの槍身も細かった。しかし長い
槍であった。名人が使う槍は実用兵器らしく地味な落ち着きを持っていた。

秀次を見限った源右衛門は、秀次が可愛がりいたぶる寵童を犯して
秀次の怒りを待った。
怒る極道のいる城中に登城して「俺を討つものはおらんのか」とほざいた。
悠々と下城した源右衛門を拾ったのは唐津城主寺沢広孝だった。
広孝は「ほざきの源右衛門」を旧友のよしみで2万石を与えて家臣とした。
慶長2年6月2日、織田信長の命日に、源右衛門は病気を苦にして自裁した。

ほざきの源右衛門の槍を鑑賞した私はすっかり嬉しくなり、天守閣の下り
階段を気分よく降りていた。
後のほうから「あまり恰好つけないで」と叱る声がした。老人会で
同じバスに乗ってきた先輩だった。私の足元は弾むような調子だったらしい。

昼ごはんは城下町の魚料理店でとったが、食卓に見たこともない大きな槍イカが
据えてあった。身に包丁の切り傷があり、大きな目の球がこちらをぎょろっと
見ていた。
隣に座った老婦人と「怖いね」と言葉をかわした。

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