7月27日、高橋紹運の425回忌の追悼法要が柳川の禅寺天叟寺で営まれた。高橋紹運と
いってもご存知ない方が多いとおもうが、柳川城主立花宗茂の厳父である。
高橋紹運は永禄・元亀・天正年間に、筑前宝満城・岩屋城を守り、立花城主立花道雪と
ともに大友宗麟に忠節を尽くした。 天正十四年七月、押し寄せた島津軍と
秋月ら反大友連合軍など四万の軍勢を岩屋城で引き受け、城兵670名余りで二週間ほど籠城
最後は一名残らず討ち死にした。七月二十七日に落城した。
戦国史に岩屋城主高橋紹運の名を残した。
島津軍戦死約三千、負傷一千五百ほどの犠牲を強いたことになり、宗茂が守る
立花城の攻略が遅れた。ために、秀吉が送り出した先遣隊が、筑前に到着
島津軍は肥後に後退し、秋月種実が得た岩屋城・宝満城は宗茂の手に戻った。
紹運の五十回忌に宗茂によって建立された天叟寺では、50年ごとに本供養が
営まれてきたが、今年は425回忌にあたる。
法要のあと、講談師 一龍斎貞花師匠が演目『信義の武将 高橋紹運』を講釈した。
師匠は大の紹運の支持者で、演目と同じ著書(文庫本)も書いている。
今年の紹運忌に、天叟寺に出向いて、岩屋城戦没の遺族たちに講談をして
くれたのである。
掲載している高橋紹運像は天叟寺で開帳されたもの。四百年を越えた肖像画なので
古色が浮き出ていた。
いってもご存知ない方が多いとおもうが、柳川城主立花宗茂の厳父である。
高橋紹運は永禄・元亀・天正年間に、筑前宝満城・岩屋城を守り、立花城主立花道雪と
ともに大友宗麟に忠節を尽くした。 天正十四年七月、押し寄せた島津軍と
秋月ら反大友連合軍など四万の軍勢を岩屋城で引き受け、城兵670名余りで二週間ほど籠城
最後は一名残らず討ち死にした。七月二十七日に落城した。
戦国史に岩屋城主高橋紹運の名を残した。
島津軍戦死約三千、負傷一千五百ほどの犠牲を強いたことになり、宗茂が守る
立花城の攻略が遅れた。ために、秀吉が送り出した先遣隊が、筑前に到着
島津軍は肥後に後退し、秋月種実が得た岩屋城・宝満城は宗茂の手に戻った。
紹運の五十回忌に宗茂によって建立された天叟寺では、50年ごとに本供養が
営まれてきたが、今年は425回忌にあたる。
法要のあと、講談師 一龍斎貞花師匠が演目『信義の武将 高橋紹運』を講釈した。
師匠は大の紹運の支持者で、演目と同じ著書(文庫本)も書いている。
今年の紹運忌に、天叟寺に出向いて、岩屋城戦没の遺族たちに講談をして
くれたのである。
掲載している高橋紹運像は天叟寺で開帳されたもの。四百年を越えた肖像画なので
古色が浮き出ていた。