じいちゃんのつぶやき

生涯学習のつもりでブログを始めました

鰥夫(やもめ)になった先生の後生(ごしょう)

2012-09-05 00:14:16 | 日記


前稿に続いて、鰥夫になった人の話をします。

昨年、傘寿を迎えた私の恩師は今年の春に、奥様に先立たれる不幸に見舞われました。
先生は奥様よりも先に「お隠れるになる」心つもりにしておられましたから、当惑なさって
無残なしおれ方でした。

「先生、奥様と後先になってしまいましたね」と、私は残酷な言葉を先生に申し上げました。
でも、お二人が助け合って生きていこうという誓いをする場面に
出くわした私ですので、この言葉はわたしは許されると思っています。

あの時、先生は奥様に向って「面倒かけるがよろしく」と頭を下げられたのです。
奥様は余裕ある態度ともほっとする気持ちともとれる表情で「ハイ、わかりました」と
お仰せでした。奥様は、先生を最後まで面倒看るお気持ちであったと、私は推測しています。

予定どおりにならないことに戸惑いながら、先生はひっそりと奥様を見送られたのですが
日頃から奥様と関わりがあった人が大勢集まり、法事が大掛かりになってしまいました。

先生の身なりのお世話をする人がいないまま、多くの人との応接に追われながら、
茫然とした様子を私たちに見せていたのが目に残りました。

「世界一不器用な人」と奥様に酷評されていた先生は奥様に頼り切りのことが多かった
のでしょう。先生の身の回りは見事にとり散らかっていました。
先生は「身も心も茫然」という状況でした。

「新聞を読む気力がわかない、購読をやめたい」というほど落ち込んでいた先生の食事を
お世話していたのは、近くに住む高齢となったご子息です。毎日、お弁当を抱えてきて夕食を
共にしてくださるとのこと。水分はパックや缶詰で採るようにしています。
男やもめが老人砂漠地帯で二人よりそって生活している状態です。
台所を使うことが少ないので、食物の落ちこぼれがなくて、餓死したごきぶりが廊下に
ひっくり返っていたり、水分が取れないムカデが力尽きて、干からびて部屋の片隅で
死んでいたりしていました。孤独老人の最も困るところは食事問題です。

妻を偲ぶ歌を詠み、色紙を書いたりしているうちに、気力が戻ってきた先生は
「妻の代わりに5年生きてみよう」といわれました。妻を恋うる歌を詠み、新聞歌壇に
出た妻を思う歌を編纂しようと考えているとのこと。「新妻恋集」ができるといいですね。
先生の後生が見えてきたので、私は少しばかり、気持ちが落ち着いています。

お願いですから、鰥夫の不安について、前の原稿も読んでください。


 


鰥夫(やもめ)が周りに急増

2012-09-04 21:45:00 | 日記


 
今年の春から、私の周囲に鰥夫が4人も現れました。わたしの学友、近所の囲碁友達そして
傘寿を迎えた私の先生。いずれも、後期高齢者ですから、夫人を亡くした人は、それぞれに後生を
どう過ごすのか悩んでいます。

病弱である友人は病気と闘う気力を失って、入院生活に入ってしまいました。
もう一人の友人は夫人を失って、同時に年老いた家政婦さんの退職という不運が重なり、見る間に
体力を失っていきました。身体が小ぶりになり、生活が順調に回転していないのが、目に見えるのです。
こんなこともあろうかと、この友人には、パソコン通信で映像交換ができるテレビ電話の準備を
していたのですが、「パソコンを扱う気力が湧かない」といい、電話連絡に頼る状態です。
食事もいい加減な取り方だったので、食工房の給食を取るようにしたのですが
「続けて食べることが苦になる」というのです。おいしい配達料理であっても、工場でできた弁当では
飽きるというのです。
料理を作る経験がなかった友人は炊飯器でごはんを炊くことから始めましたが、惣菜を調理することが
できず、レトルト食品を御飯の上に載せるぐらいの食生活です。彼れも努力して、味噌汁ができる
ぐらいにはなったようですが、欠食老人になりかねないので、夕食時には近くの小料理店を覗くことを
しているようです。でも、日暮れに、雨の中を晩御飯を食べに出かけるのは努力を要します。

同情心から、私は昼ごはんを一緒に食べようと、90分ぐらいかけて、鉄道とバスを乗り継ぎ
惣菜を買って友人の家に数回出かけました。作ったこともない料理を友人に食べさせたい思い
で挑戦しました。お世辞が大半だと思いますが「おいしい」といってくれました。きっと
いっしょに食卓を囲むのが、うれしかったのだとおもいます。

家では、家内が造る料理を食べるばかりの私ですが、「よくもまあ、作る気になるのね」と
家内は妙に感心しています。友人は喜んで「泊まっていけ」といいますが、「夕飯は内で食べたいから」と
断わって帰ります。