じいちゃんのつぶやき

生涯学習のつもりでブログを始めました

孫の夏休み宿題に追われる 

2011-08-25 23:31:55 | 日記

 
ブログ前号に続き、孫の宿題に悩まされた話。

上の写真は小学3年生が作った紙粘土細工。工作の宿題として孫が苦労して
作った。ばぁちゃんが指導して出来上がったが、ばぁちゃんの手はほとんど
入っていない。

孫が初めて挑戦する紙粘土に「ばぁちゃん」は犬の細工物を
作ってみせた。制作意欲がわいた孫は、我が家の餌場に毎日現れる雀を
モデルにしてつくりはじめた。テーマを思いついたのは本人である。
「ばぁちゃん」はインターネットで雀の写真を取り出して孫に提供していた。
ここまでに至るには何日も要した。

工作に意欲があるのはよかった。だが、羽が動くようにしたいと泣きながら
主張するのには困った。孫はとうとう大工道具箱から蝶番をみつけてきて
動く羽をつくりあげた。足台も自分でつくったもの。私に作ってくれた
コースターを利用していた。

粘土が乾くには時間がかかるが、帰宅が迫ったので、やわらかいまま
色を塗り上げた。完成したときの孫の喜びようたらなかった。

「ばぁちゃん」は粘り強く相手をしてくれた。でも、ばぁちゃんはとても
疲れた。制作にとっかかるのにとても時間がかかり、お世話が大変だった。

帰る前の日、孫が「じいもばぁも、僕がいたのできつかった?」と
此方を泣かせるような言葉をいった。孫は孫なりに苦労していたのは
わかる。今度の外泊は孫をグンと成長させたらしい。

8月23日、孫は雀を入れた箱を下げて新幹線に乗り込んでいた。

こうして、私はやっとブログを書く時間を取り戻すことが出来た。

記事更新できず御免なさい 孫3人襲来でダウン寸前でした

2011-08-23 22:02:31 | 日記
昨年夏、孫を預かり、疲労が重なり帯状疱疹になったのだが、この夏は
3人も襲来して、てんやわんやだった。

今日23日、一か月ひとり離れて滞泊していた小学3年生が引き取りに来た
父親と一緒に帰宅した。やれやれです。小学低学年と久しぶりに
接した所感を述べさせていただく。

夏休みの宿題を毎日消化させるのは親が受け持つのが一番いい。
「じいとばぁ」がなだめ、すかし、脅しても、なかなか宿題に
とりかからない。遊ぶことしか念頭にない困った孫もいる。

低学年の宿題としては、本の「読書感想文」は難しいと思った。
まず、学童の読書力が必要だし、文章を理解させるには介添え教授が要る。
長文の要点を本人に纏めさせるのが難しい。 このところは本人の考えを
尊重しなければならないし、感想をひきだすポイントとなると思う。私は
手作りの大きな桝目の原稿用紙を用意し、纏めが出来るように書き込みの
手助けした。長文の纏めを自主的にさせるのは年少者には酷であった。
泣きながら桝目をうめていった。口出しは出来ないし、時間がかかる。
およそ十日間の長文まとめであった。

感想は纏め文からひき出させた。この部分はばぁちゃんが受け持ってくれた。
あくまでも「本人の感想」を述べさせた。完成して本人は嬉しかったらしい。
纏め用下書き原稿用紙を「持って帰る」と孫は言った。

感想文を見た父親は「よくできてる」といった。
水彩画を描いたことがない孫に、こちらも競争するように絵具筆でを握った。
これは先生への要望だが、絵具塗りの基本だけでいいから、
夏休み前に指導しておいていただきたい。孫は筆を握って戸惑って
苦しんでいた。

宿題は楽しいと感じる工夫が大人側に必要だと思う。

次号ブログに孫の苦闘後編を紹介することにする。











十六歳少年 勉学の志空しく 夏雲の彼方へ旅立つ

2011-08-03 10:58:00 | 日記
親戚の少年が七月末、命はかなくなった。彼は難病で障害を抱えながら、学校での勉強に取り組んでいた。
学校の先生、学友がたくさん通夜と葬式にきてくださった。

炎天下酷暑のなか、大勢のひとに交じっている少年の学友に、私は
「暑いところを遠くから来てくださってありがとう」と心を籠めてあいさつした。
「お勉強したい」と最後まで努力を重ねていた少年に対して、学友は哀惜の
気持ちを表すためにきてくださっていた。

家族は一家挙げて少年の闘病生活を支えていた。いま、皆さんは悲しみの中で
抜けた輪のあとを見つめるように放念し呆然たる心境にあるでしょう。
こちらからは掛ける言葉もない。

それに引き替え、我が家に来ている孫のだらしのないこと。
遊ぶことしか念頭になく、夏休みの宿題はないと私たちにウソ八百をいう。
年寄はころりとだまされる。
街に遊びに出ることばかり主張し、大人を遊びに巻き込もうとする。
彼らの行動を見ていると、大人が生活をすることに関心と理解がなく、
家族で共同生活する気持ちがまったくない。だから、
家事手伝いに進んで協力することはない。

「なんで洗濯が大変なの。あしたにすればいいじゃないの。遊ぼうよ」と
こうである。
大人が仕事をして生きていることが理解できていないのである。
家事手伝いをにわかに教え込もうとしたが、この孫には自分でできる家事手伝いが
頭の中にないのである。だから家事作法を教えてもなかなか身につかない。
私には孫たちのこれまでの生活の様子がおおよそわかる。
生活することの意味をわからせなければ孫の態度はあらたまらない。

あまりにひどい姉・弟の喧嘩に私が爆発した。怒り心頭に発した私は
ふたりを抱え上げ思い切り尻をぶったたいた。
私の右手は内出血し、はれあがった。私の左目の結膜が出血、赤目になった。
近くの眼科医に診てもらったところ、さいわいにして、眼球に出血はなかった。

孫の方は相変わらず遊んでばかりで、叱った効き目も出ていない。
こうなっては、親がきちんと生活して生きていくことをみせて、家事のやり方を
教え込むしかない。子どもにはしばらく、遊びから遠ざかる毎日をすごさせる
しかない。

もう一人の孫は「ぼくがずるをしたとき、一年間お遊び禁止となってしまった」と
話をしていた。学校をズル休みしたら、ぜったいに許さないことを示さなければ
ならない。「夏休み出校日は出なくてもいいの」とうそぶく子は叩き出せ。

女流作家藤原ていが『愛は惜しみなく奪う』とタイトルで親の愛情をどこまでも
奪い取っていくも子どもの姿を記録している。親はこどもの自分中心の要求には
限度と制限が加えられることを子どもに知らしめねばならない。

にんげんの子どもは余にも恵まれた環境の中にいると、自分で悟るところは
きわめて少ない。
いや、子供だけでなく、成人になっても人間は悟るところが少ない
手のかかる生物体なのである。