じいちゃんのつぶやき

生涯学習のつもりでブログを始めました

四国高野「雲辺寺」おたのみなす

2016-06-21 15:04:33 | 日記

弘法大師開基の第六十六番札所「雲辺寺」は香川県観音寺市からロープウエーでのぼります。

鎌倉時代から四国の学僧が集まる学問道場でありました。千手観世音菩薩を

本尊とするお助け寺院です。

広い境内の一隅に私たちの「おたのみ」を聞きとどけくださるという石の大ナスが

あります。私はナスに抱かれて真摯なお頼みをいたしました。

雲辺寺は高山にあり、香川県を見下ろす絶景が開けています。土佐の長宗我部元親は

この山に登り、香川国を見下ろして四国統合を決心したといいます。そのときは

「おたのみなす」はなかったと思いますが・・・・

 


弘法大師と衛門三郎

2016-06-09 01:28:20 | 日記

写真は弘法大師と衛門三郎の銅像である。徳島市から50キロメートル以上離れた名西郡神山町の山の中にある神山温泉に近い杖杉庵(じょうしんあん)で、私が撮影した。

 四国八十八ケ所の遍路に出かけて、一年半ほどになるが、今年の六月上旬、十八番札所「焼山寺」に参礼した。

松山地方の豪農で庄屋を務めていた「衛門三郎」が弘法大師を二十年あまり追い求めて、ようやく会えたのが杉林の高山にある焼山寺の傍であった。病にたおれ、死に瀕していた三郎の前に現れた師は、師に無礼を働き、八人の子女を失った哀れな三郎を許した。銅像はその場面だ。

「生まれ変わって、人のために尽くしたい」と言葉を吐いた三郎の左手に衛門三郎の名を書いた石を握らせて「願いを聞き届けよう」といい師は許した。弔いの後に杉の木を植えたといわれるが、その杉の木は大木ながら、2代目だそうである。大杉と銅像は杖杉庵の敷地のうちに在る。私が観た「杖杉庵」は神社として、きれいに整備され、庵の後ろがわに「鮎喰川」がひろがっていた。三郎の終焉は天長八年十月であった。

遍路ころがし」と異名を持つ焼山寺(しようざんじ)は四国有数の高峰に役行者小角が開いた修験場であるが、弘法大師が火炎吹く火山を二度目に征服し奥の院を開設できたのは三面大黒天の支援を受けたからだといわれている。

私が観察したところ、焼山は近世まで火山活動が続いた山だったようで、火成岩の大石が参道にごろごろという状態だ。参道にそって巨石像が山側を背に十三体以上が並んでいる。私は砂利に靴の先を突っ込んで転んだ。昔の人は健脚だ。

時代は下って寛平五年、伊予国領主河野息利の嫡男が誕生。生まれた赤ん坊は左手を握ったままで手をひらかなかった。領主は松山の第五十一番札所「安養寺」の和尚を招き、祈祷して赤ん坊の手を開いてもらった。手の中に小さな石があった。その石は安養寺に寄贈された。則利の子は成長して領主となった。衛門三郎の生まれ変わりの新領主は善政を布いたといわれる。安養寺はこれを機に寺号を「石手寺」と改めた。石手寺は国宝三重塔ほか本堂・多宝塔など重要文化財が一杯だ。

ところで、三郎の屋敷跡は「徳盛寺」となったが、三郎の子息たちの供養遺跡が沢山あるらしい。

お遍路に出るたびに、私は足腰の衰えを感じる。日常は出来るだけ歩くことにつとめて、筋力の衰えを防ぎたい。大欲を抱かず、心身安定の生活を続けて、血行サラサラの体質を造り出したい。「歳月人を待たず」といわれるが、出来るだけ待ってもらいましょう。

読者の皆様、永らくご無沙汰しました。四国お遍路でパソコンから離れていました。