竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

大塚音頭

2014年02月01日 | 音楽のまち
 三谷音頭の次は大塚音頭の歌詞が手に入りました。楽譜が無いのでどんなリズムか分かりません。
作詞・作曲者も不明でです。分かる方がいたらコント下さい、よろしくお願い致します。

<大塚音頭>
1、ハアー三州 大塚ノンホホホイ(アリセセ)
 北と西とにお山の屏風ヨ(サノヨンヤサノサ)
 南静かな三河湾(ハンレヤソソレ)三河湾

2、ハア比所は 大塚ノ オホホイ
 冬も知らねば夏さえ知らぬ
  老も若きも増産だ 増産だ

3、ハアー三州大塚ノ オホホイ
  三州大塚海辺の育ちよ
  海できたへた男伊達 男伊達

4、ハアー私しゃ大塚ノオホホイ
  色は黒いが気だてはやさしい
  お嫁とるなら大塚娘 よい娘

5、三州大塚ノオホオイ
  比所は大塚蜜柑も産地
  秋の夕に映へる 丘映へる

6、ハアー三州大塚ノ オホホイ
  三州大塚平和な村よ
  平和音頭で暮らそうよ 暮らそうよ

大塚音頭を歌える方是非コメント下さい、よろしくお願い致します。

<歴史>

中島城(大塚城)跡:愛知県蒲郡市大塚町上中島
●お城の歴史●
 今川氏の家臣・岩瀬治部左衛門尉忠家の居城と伝わります。別名【岩瀬城】、【大塚城】。宝飯郡誌には岩瀬式部少輔の名で出てきます。
忠家は奥州(福島県)須賀川城の生まれで今川氏親に仕え、大塚村へやってきました。嘉吉二年(1442)に、丹野・山神・灰野・金割、四ヶ村が加増となりました。しかし孫・氏安の時、桶狭間合戦後の上ノ郷合戦(1562)に松平元康(徳川家康)に攻められ落城してし
まいます。
その後は松平元康(徳川家康)に仕え、天正十八年(1590)の関東移封に従い、幕府設立後は江戸に住み、代々小姓役頭などを務めました。
幕末時代、一族の岩瀬忠震は、幕府海防係目付けに登用され、ハリスとの日米通商条約締結や諸外交
との交渉という重責を担い、功績を残しました。
あと、子孫はこの地にも残り、代々住み続け、現在に至ります。

江戸時代末期、この地域は三河吉田藩領、旗本領、であった。
1876年(明治9年) - 丹野村と山神村が合併し、相楽村となる。
1889年(明治22年)10月1日 - 大塚村、相楽村、赤根村、大草村が合併し、大塚村となる。
1955年(昭和30年)10月1日 - 分割され、蒲郡市、宝飯郡御津町に編入される。
大塚村(おおつかむら)は、愛知県宝飯郡にかつて存在した村。分割により蒲郡市と宝飯郡御津町に編入された。
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