竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

今日は何の日 663年 白村江の戦(はくそんこうのたたかい)

2021年10月04日 | 日本の歴史
令和3年10月4日(月)
お早うございます。

<10月4日今日は何の日>
663年(天智天皇2年8月27日) - 白村江の戦いが始まる。

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。

三国時代後半の576年頃の半島

・朝鮮半島と中国大陸の情勢
6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。
倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。
その任那は562年以前に新羅に滅ぼされた。
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。
その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都した。
当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている。

・白村江の戦いに日本が参加した背景
倭国と呼ばれていた日本は、古くから朝鮮半島の南端と人材や文化の交流を持っていて、百済が高句麗に攻め入られていた時からたびたび援軍を送っていました。
両国は深い関係を築いていたのです。
しかし日本国内では646年に大化の改新があり、直後に次々と行政を変革。
また大規模な宮廷造営の土木工事をおこなったりするなど、不安定な政情が続いていました。
中国大陸には遣隋使・遣唐使を送っていましたが、唐はそんな日本の姿を見て、秘密裏に百済への侵攻計画を進め、滅ぼしてしまうのです。
当時日本には、百済の王子、扶余豊璋(ふよほうしょう)が滞在していました。
彼は自国を復興させるため、帰国することを決意。
日本の中大兄皇子もこれを支援します。
さらに日本は百済からの難民を受け入れ、唐と新羅とは対立を深めていきました。
日本が百済を支援することは、大国である唐を敵にまわすということで、大きな決断だったといえるでしょう。もし負けてしまえば、日本も滅ぼされる可能性があるのです。
その一方で、この戦いに勝った場合、属国を手に入れることができる可能性もありました。
国外に力を示したかった当時の日本は、百済を支援することを決めたのです。

・白村江の戦いの経過
百済から要請を受けた日本は、3回に分けて軍を派遣します。第1回が661年の5月、第2回が662年の3月のことでした。斉明天皇も自ら出兵しようとしましたが、661年に道半ばで崩御。
その後は同じく参戦していた中大兄皇子が執務を引き継ぎます。
当初の戦いは唐の軍が新羅に合流しておらず、日本と百済の連合軍が優位だったそうです。
そして663年の10月、日本が満を持して軍を派遣すると、白村江でたまたま唐の軍と遭遇。
開戦してしまいました。
ちょうど百済の軍も日本軍を白村江まで迎えにきていたので、ここで全面戦争になります。
人数でいえば日本軍の方が上回っていたそうですが、圧倒的な軍備と高度な指揮系統で勝る唐に大敗。百済復興の道は途絶え、日本軍は帰国しました。

第38代 天智天皇(中大兄皇子(なかのおおえのおうじ))
在位期間:668年2月20日 - 672年1月7日
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