竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

航空特攻司令長官・大西瀧治郎海軍中将の残した遺書

2021年08月16日 | 英霊の言乃葉
令和3年8月16日(月)
お早うございます。

戦争末期第一航空隊司令長官として、神風特攻隊を指揮。
終戦直後、その責任をとり次長官舎で割腹自殺した、
大西瀧治郎海軍中将の遺書を紹介いたします。

遺書
特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い
聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と
世界人類の和平の為 最善を尽せよ

海軍中将 大西瀧治郎

大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年)6月2日 - 昭和20年(1945年)8月16日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。
神風特別攻撃隊の創始者の一人。
終戦時に自決。最終階級は海軍中将。

1945年8月16日、渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し、最も辛いとされる「介錯無し」で割腹自決した。
午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。
官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。
熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになった。
大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。
全てはその遺書に書いてある。
厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ」と話した。
児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と諫めた。
介錯と延命処置を拒み続けたまま同日夕刻死去。享年55。

1945年8月15日、自決する直前の大西

前段で、特攻で戦死させた将兵に陳謝し、死をもってその英霊と遺族への償いをすると述べている。その死にざまも、拳銃で頭を撃ち抜くような簡単なものではなく、日本刀で腹を十文字に切って、なおかつ喉を突き、なるべく苦しんで死ぬようにと介錯を断り、自らの血の海で半日以上も悶えた末に絶命するというすさまじいものだった。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大塚小学校2年生の富田 亜惺... | トップ | 第5回 自民党蒲郡市議団オン... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

英霊の言乃葉」カテゴリの最新記事