令和4年3月31日(木)
お早うございます。
今日は久しぶりに「英霊の言乃葉」を紹介いたします。
<遺 言>
海軍二等兵曹 大沢 健 命
昭和19年2月18日 南陽群島方面にて戦死
愛知県豊橋市岩田町出身 二十四歳
此の世に生れ
死すも生きるも 天の道
ご両親様の温かい御手の下に、二十余年半暮らさせて下さったことを何よりの幸福と思います。
再び戦に出る身なるを以て一、二を残すことにする。
一、妹よ、老いたる父母をあんじ、孝行を兄に代って致せ
一、健を、はじめより無き者と思へ
一、健を、思い出すな
一、貯金は家にて何かに加へて費やせ
万恩を謝し
ご両親様のご健康とご幸福を祈る。
思い残りはない。
健は、清き心で大君に身を粉にして尽くします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/9e/7b9abe86fef92f5ff993a1b96c2b2772.jpg)
第一次世界大戦での敗退によってドイツは海外植民地をすべて失い、連合国であった日本は1922年(大正11年)、ヴェルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を委任統治することとなった(赤道以南の旧ドイツ領ニューギニアの地域はオーストラリアおよびニュージーランドが委任統治)。
本国と遠いこともあり、全くインフラストラクチャーの開発や医療、教育を行ってこなかったドイツやスペインとは違い、日本は南洋諸島獲得後、開拓のため南洋庁を置き、国策会社の南洋興発株式会社を設立して島々のインフラストラクチャーの開発や開拓、産業、教育、医療などの扶植を行った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/ca/49a4837d656184f18477c55f8edc4352.jpg)
南洋庁庁舎:所在地はパラオ諸島のコロール
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/c7/b4a5d5fb57b861624208e0d6420e233d.jpg)
日本統治時代のコロール(4丁目)
第二次世界大戦においては南洋諸島も戦場となった。
1941年12月から1944年(昭和19年)初頭頃までは平穏だったが、その後日本軍とアメリカ軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍やイギリス軍ら連合国軍の間で熾烈な戦闘となり、多くの戦死者を出した。
一連の戦いの嚆矢となったのは、1944年2月に行われたクェゼリンの戦いからで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は玉砕した。さらに同月にはアメリカ軍によるトラック島空襲も行われ、トラック環礁にあった日本海軍の拠点が無力化された。
1944年(昭和19年)6月、戦略上最重要拠点の一つであったマリアナ諸島に対して連合国軍は侵攻を開始した。
サイパン島での戦闘は凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。
7月にはテニアンの戦いが行われ、テニアンでも多数の民間人が犠牲になった。
その後、サイパンおよびテニアンは日本本土を空襲する拠点となり、特にテニアン島は原子爆弾を搭載した爆撃機の発進基地となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/17/4eae5732a642909c22d78d06c4471339.jpg)
1944年6月,サイパン島で米軍海兵隊に保護された日本の婦女子:日本軍は「サイパン島玉砕」と報道したが、日本人1万4000人が捕虜となり,米軍の下で生き残った。
生き残った住民や兵士は,非国民,投降した卑怯者・裏切り者として黙殺された。
お早うございます。
今日は久しぶりに「英霊の言乃葉」を紹介いたします。
<遺 言>
海軍二等兵曹 大沢 健 命
昭和19年2月18日 南陽群島方面にて戦死
愛知県豊橋市岩田町出身 二十四歳
此の世に生れ
死すも生きるも 天の道
ご両親様の温かい御手の下に、二十余年半暮らさせて下さったことを何よりの幸福と思います。
再び戦に出る身なるを以て一、二を残すことにする。
一、妹よ、老いたる父母をあんじ、孝行を兄に代って致せ
一、健を、はじめより無き者と思へ
一、健を、思い出すな
一、貯金は家にて何かに加へて費やせ
万恩を謝し
ご両親様のご健康とご幸福を祈る。
思い残りはない。
健は、清き心で大君に身を粉にして尽くします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/9e/7b9abe86fef92f5ff993a1b96c2b2772.jpg)
第一次世界大戦での敗退によってドイツは海外植民地をすべて失い、連合国であった日本は1922年(大正11年)、ヴェルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を委任統治することとなった(赤道以南の旧ドイツ領ニューギニアの地域はオーストラリアおよびニュージーランドが委任統治)。
本国と遠いこともあり、全くインフラストラクチャーの開発や医療、教育を行ってこなかったドイツやスペインとは違い、日本は南洋諸島獲得後、開拓のため南洋庁を置き、国策会社の南洋興発株式会社を設立して島々のインフラストラクチャーの開発や開拓、産業、教育、医療などの扶植を行った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/ca/49a4837d656184f18477c55f8edc4352.jpg)
南洋庁庁舎:所在地はパラオ諸島のコロール
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日本統治時代のコロール(4丁目)
第二次世界大戦においては南洋諸島も戦場となった。
1941年12月から1944年(昭和19年)初頭頃までは平穏だったが、その後日本軍とアメリカ軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍やイギリス軍ら連合国軍の間で熾烈な戦闘となり、多くの戦死者を出した。
一連の戦いの嚆矢となったのは、1944年2月に行われたクェゼリンの戦いからで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は玉砕した。さらに同月にはアメリカ軍によるトラック島空襲も行われ、トラック環礁にあった日本海軍の拠点が無力化された。
1944年(昭和19年)6月、戦略上最重要拠点の一つであったマリアナ諸島に対して連合国軍は侵攻を開始した。
サイパン島での戦闘は凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。
7月にはテニアンの戦いが行われ、テニアンでも多数の民間人が犠牲になった。
その後、サイパンおよびテニアンは日本本土を空襲する拠点となり、特にテニアン島は原子爆弾を搭載した爆撃機の発進基地となった。
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1944年6月,サイパン島で米軍海兵隊に保護された日本の婦女子:日本軍は「サイパン島玉砕」と報道したが、日本人1万4000人が捕虜となり,米軍の下で生き残った。
生き残った住民や兵士は,非国民,投降した卑怯者・裏切り者として黙殺された。
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