竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

経済委員会行政視察 佐賀県神埼市

2022年11月12日 | 行政視察&要望活動・研修勉強会
令和4年11月12日(土)
お早うございます。

経済委員会行政視察二日目は、佐賀県神埼市の市役所で、神埼市議会 野副芳昭 副議長の歓迎のご挨拶を受けました。



佐賀県神埼市での視察は、歴史文化遺産を活用した観光振興について
早速、吉野ヶ里遺跡へ現地視察して参りました。

 吉野ヶ里遺跡は、工業団地開発に伴う埋蔵文化財発掘調査により、小さなムラが弥生時代約700年を通して、クニの中心となる40haを超える大環壕集落へと発展する過程が分かる、極めて学術的価値の高い遺跡として、1991年には国の特別史跡に指定されています。





縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。
ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。
最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。
有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。




紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。
前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。




中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。
また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。
大きな墳丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い墳丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。






後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される。






3世紀後半頃、吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭とともにその機能が失われてしまったと考えられています。それと前後して、南内郭付近の丘陵部には4基の前方後方墳が築かれます。吉野ヶ里丘陵の南部一帯は、人々の生活する集落から、人が葬られる埋葬の地へと変化したようです。
吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか?
弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか?

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