先日ある俳優養成学校の卒業公演に行ってきました。
出演者の中に芝居つながりで幼い時から関わってきた若者がいたからです。
その若者とは三年ぶりの再会となるわけですが、「俳優学校での成長を見てください」という彼からの卒業公演の案内状を手にした時、素直にその成長を喜べない私がいました。
と、いうより彼の言うところの「成長」を危惧している私がいたのです。
と言っても私が危惧していたのは彼自身に起因していたわけではありません。私が危惧したのは彼を「成長」させたというその養成学校の指導方針にあったのです。
私と関わっていた時の彼は、演ずる事を楽しめる不器用ではあるが感受性豊かな若者でした。その彼が自分の良さを忘れ、お芝居みたいな事をしてはいないか心配でした。
なぜ私がこの様な危惧を抱くのかというと、近年我が劇団のワークショップやオーデションに応募してくる若い俳優の大多数が俳優養成所出身者なのです。
そして大多数の彼らが身に付けているものはキャラクター演技と言われるものです。
ここで使われているキャラクターという言葉は本来の「性格」「性質」「人柄」というものから離れ、例えば、やくざっぽい仕草言葉使いなどに代表される、「ぽい」や「~ような」などの曖昧な
意味に変質しています。
その変質した言葉から導き出される演技は、当然こんな感じの、曖昧なものにしかなっていかないのです。
開幕のベルが鳴った時、私は彼の将来の為に私の予想が外れることを願いました。
しかしその願いはかなわず、私の前で展開されている芝居は、指導者の独りよがりな自己満足の為の芝居でした。
私は非常に腹が立ちました。
学校で何かを手に入れたと思わしちゃいかんのです、学校は単なる手掛かりなんですから。
彼らの勝負はこれからなんです。
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