父親的生活

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来年もやってくれるのだろうか・・・・

2009-06-19 14:31:58 | インポート

今朝の新聞には広島(だったと思う)の生協が農業参入したと言う記事。少し前には鳥取だったかの電力会社も参入を果たしたと言う記事を見た。

最近の自分のエントリを読み直しても結構批判的な文章が多く、自分で読んでいてもなかなか気持ちが前向きにならない。

別に農業参入を否定しているわけでも無いし、農業が注目を浴びる事に全く異論は無い。人間は”食べる事”無しには存在が確立されないわけで、食べる食材の確保はつまり”生きる”そのものなのだと思う。経済の仕組みもその殆どは”食”にルーツがある筈で、食は切り離せない重要なテーマである事は確かだ。

食べ物を人間が得るには捕まえるか、取ってくるか、植えて育てるか、生ませて育てるか・・・つまり”捕獲、採取、栽培、飼育”しかない。現在の技術では全く無のものから食べ物が出来る事があり得ない以上、人間はそれらが出来うる環境で、それらを行わなければ生きていけないことになるはずだ。ミクロで見れば砂漠や南極でどうやって食っていくかと言う事であり、もう少しマクロに見れば、地球と言う事になる。そこで、昨今は環境問題が話題になっていると理解している。地球が砂漠化して植物が育たなくなったら・・・・という具合だ。

動物も、その一部である人間も、勿論、水や光、酸素や窒素等からビタミンやたんぱく質は作れない。”植物”を通して得ているのだから、環境問題というのは本当に大問題で、農業後継者どころではないかもしれない。

そんな中で、色々な人が農を含む”食材”に触れる事で、理解が深まり、環境への問題に気がつけば、今の消費量と廃棄量の問題やデフレに苦しむ生産現場の問題なんて解消されるかも知れない。そういう意味での”農業参入”は大歓迎だ。でも、これってわざわざ企業が農業に参入するしてまでする事なのだろうか・・・・

農業は気の長い営みだと思う。みかんの木なんて20~30年目位が一番仕事をしてくれて良い木だし、畑だって1年放棄すれば戻るのに3年はかかると言われている。そんな農業の世界にスピードを求める現在の企業経営がマッチするのかが不安なのである。経営者の考えがしっかりしていて、且つ耐えうる体力があるならば、数年、いや数十年先を見据えた農業参入はあると思う。怖いのはブームに乗っかって始められた農業だ。

農地法が改正されて、農業法人以外の企業でも農地を借りる事が可能になった。これで益々農地は活用されるだろう・・・・が、活用する企業が単年の損益を問ううちは条件の悪い土地は受け入れられる事は無いだろう。昨今の参入企業の殆どが、近郊のそこそこまとまった行き易く条件の良い農場で企業参入を始めている。”開墾して始めました!!”なんてニュースは未だ見たことがない。

根本が直らない限りは、今叫ばれている限界集落の問題も、農業後継者の問題も解決はなされないと考えている。

では、その根本とは何なのか・・・・・

人は、戦後の農地改革による農地所有の問題が、現在のパッチワーク的土地所有を生み、更に公共工事と底地買い上げの実例が、期待となって農地の無意味所有を助長しているというだろう。又、別の人は農協組織が生産者の手取りを引き下げ、生産者の生活を阻害し、後継者に二の足を踏ませているとも言うだろう。市場を使った流通の仕組み上起こる”積み上げコスト”の問題もあるだろうし、減反政策や所得保障のような保護政策的な姿勢が生産現場の競争力を衰えさえたと言うかも知れない。でも、それぞれには反論もあるだろうし、勿論私は学者でも政治家でも無いから答えなんてわからない。

でも、農業から”ヒト”が離れている理由は”儲からないから”だと私は思う。

残念ながら日本で生活する為に必要なサラリーを農業収入で得るには相当な苦労が必要だと思う。片や消費者、国産の有無は別にして、物の価値は同一品であれば価格という物差しにゆだねられるのは当然の事だ。残念ながら、海外産の安い農産物には勝てないのも現状だと思う。

しかし、価格の比較は”同一物であれば”という前提がある。松阪牛とオージービーフの価格差はこれだ。しかし、霜降りだったら海外でも作れるだろうし、鮮度の関係ない物だったら、むしろ海外品の方がレベルの高いなんて事も考えうる。

では、それらのものの価値を決めているのは何か、もう一つは情報だと思う。以前誰かに聞いた話の受け売りになるが、生活が豊かになるほどに人間は”五感”で食べる様になるのだそうだ。一番飢え乾いていいる状態なら、雨水だって、水溜りの泥水だって飲む。それが、お腹が満たされれば良くなり、満たされれば味を言う。そして見た目、匂い、触感、場の雰囲気・・・そして最後は情報となる。1杯の味噌汁を飲むにして、楽しい、リラックスした席で、出汁の産地、とり方、選び方から料理人の思いまで聴けばその味が絶対に違って感じられるのは相当高等な”食”という行為なのだと思う。

ところが、現在は”生産と消費”の距離がどんどん離れている。まさに今、口にしている食材が育つ姿を見る事が出来たなんていう消費のパターンは本当に数える程も無く、悲しい事に殆どが石油精製品に包装され、元の姿なんておおよそ想像もつかない様な完成品として提供される。”食材”と”消費”を結ぶ最後の砦であった”調理”という食への作業でさえ”簡便化”なんていう言葉に流されて最近は姿を消しつつある。

そもそも、食べ物が無ければ生きてはいけない事、食べ物は無から出来て、当たり前の様に食卓に並んでいるのでは無く、それぞれの食べ物には”食材”が存在し、食材は全て地球で作られている事、(良く考えたら、石油だって、大昔の植物ではなかったでしょうか) 殆どは”生”を断ち切る事によって人間の胃の中に入っている事という基本的な事を忘れてしまっているのでは無いだろうか。

食べ物の大切さと、現在の農業問題がどう結びつくのか、少し時間がかかるかも知れないが、今食べている物のルーツを知る事は食材の大切さを理解する事であり、大切さや流通のしくみ、世界の食糧事情を知れば、価格の意味が理解できる。安い海外産農産物は、札束で日本人が買いあさったか、他国を汚すだけ汚して得たものか、はたまた資本主義の名の下に、極貧を強いて作らせたものか、日本に食材を輸出する国が全て富める国であるかと言えばそうでは無いはずだし、安い理由は存在するはずだ。それら価格(価値)の意味が理解出来た上で、スーパーで、レストランで、コンビニでチョイスされるその選択が、今と何ら変わらないならば、それは”日本で農業を営む意味”に繋がる大きな問題になるかも知れないが、少なくとも変化はあるだろう。子どもに食べさせるおやつだって、随分様変わりするのでは無いだろうか・・・

もっとも、変化を喚起させるべく時々起こる報道や活動も、今は不景気の前に流されてしまってはいるが・・・

結局、生産と消費の距離を狭める必要はあると思う。それこそ近所のどこでも農産物が作られ、畑で遊び、野山を駆け巡り、商店にはありのままの”食材”が並んでいた時代は必要なかったかもしれないが、今はそうでは無い。能動的にそういう場面を”造る”必要がある事は確かだと思う。だから農業法人だと言われるならば、これは大賛成となる。

但し、日本で行われる農業法人では、その殆どが利益は出せないと思う。でも、利益が出ないからと撤退されるのは困るし、そもそも利益を目的にするのだったら農業には参入するべきでは無い。農と業は切り離されて考えられるべきだと思うのだ。そして、消費と生産をつなぐ役割を農業参入だけにスポットライトを当てるのももう一度考え直して欲しい。一見、経済活動に見えない事や運動でも(農だけに関わる活動)、”食”に関わる事、全ては人間の確立に関わる事なのだし、広義では経済活動に通じるものだと思えるから。

生協の農業参入も、他の企業だって、農業は1年では結果が出せないから、来年も続けて農業を行って欲しいと、そして収穫後の評価を再び新聞記事にして欲しいと思う。