夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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低きにくだる神

2014-11-15 20:35:37 | 日曜日のメッセージ
 出エジプト記三章一~一五節。モーセははある不思議な導きでエジプトの王宮で育てられたが、青年時代に民族意識に目覚める。そして、ヘブライ人の同胞がエジプト人に虐待されているのを見て、そのエジプト人を打ち殺すというあやまちを犯してしまうのである。そのために、追われる身となり、親類のいるミディアンの地に身を寄せていることになった。モーセはそこで羊飼の生活をして生計を立て、ツィポラという女性と結婚し、一児を設けた。長い年月が経過する。自分の過去は思い起こすことも苦痛だっただろうし、同胞のために歴史の表舞台に立つことなど夢にも考えなかったろう。今はモーセは寄留者として生きる人物であった。エジプトの王宮で身に着けた知識も教養も今は何の役にも立たない。ただ生き延びるだけの生活を余儀なくされていた。
 ところが、神様はモーセを忘れておられなかった。神様のご計画は不変である。モーセ誕生の折にモーセの命を守った神は、今またモーセを寄留の地から本来の使命へと戻されるのである。そのことが本日の個所で述べられている。
 神様は荒れ野の燃える柴のなかに現れてモーセに声をお掛けになる。不思議な光景であった。「見よ、火は燃えているのに燃え尽きない」と出エジプト記は述べている。乾燥した草木の発火は自然現象としてもあり得ることだそうだが、ここでは神顕現の出来事として独自な意味が与えられている。人間は燃え尽きても神様は燃え尽きることがないということだ。その燃え尽きない神が、モーセを新しい業に遣わされるのである。これこそ出エジプトという四〇年もかかる難事業の開始に相応しいモーセの召命の場面だった。
 ここでイスラエルの神、聖書に証しされている神がどういうお方であるかがよく示されている。燃える柴から語りかける神はこう言われる。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(五節)。神は人が近づくことも許されないような超越的な神であり、「モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った」(六節)と言われている。ここだけ見ると、神様は人間から掛け離れた遠い存在のように感じられる。
 しかし、同時にこのすべてを超えた大いなる神は、人間の傷みを知ってくださる神であり、神の民の叫びに耳を傾けてくださる神なのである。だから、今モーセに現れてくださったのである。本日の個所の少し前、二章の終わりで神はエジプトでのイスラエルの苦しみの叫びを聞いたということが明らかにされていた。二章二四節から二五節には実際には次のように「神」という言葉が四回も繰り返している。「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らを心に留められた」。神様はご自分の民に深い関心寄せる神なのである。
 我々神を信じた人でも、神様なんか自分の悩みを何も分かっていないと思うことがないだろうか。「こんなに祈り、うめきと嘆きの声をあげ、助けを求めているのに、神様は少しも分かってくださらない。自分は神様から見放されている」。イスラエルの民もそんな状態だった。しかし、実はそうではなかったのである。彼らが気付かないうちに、そしてまだ何も起こっていないときに、すでに神様はご自分の民の苦しみをすべてご存じであり、深い同情と憐れみを寄せておられたのである。
 このことは、今日の私たちについても当てはめてよいことなのではないだろうか。神様は我々の叫びを聞きとる神、我々の苦悩を知って顧みたもう神だということである。まず、そのことを知っておきたいと思うのである。
 そして、さらにここで示されていることは、神様は行動を起こしてくださる神だと言うことである。本日の三章七節以下に言われている。「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る<』/strong>」。
 神様は民の苦しみに同情するだけではない。その苦しみから解放するために、高みから地上の暗い現実に降ってくる神なのである。神様は叫びを聞いて行動してくださる神、近づいてきて助けてくれる神なのである。このことも忘れてはならないだろう。ここに、聖書が証する神の本質が描き出されている。
 昔から、出エジプト記というのは苦悩する人々や国民に慰めと勇気を与えてきた。横暴な支配者に苦しむ民は、エジプトのイスラエルに自らを重ね合わせ、その悩みを知ってくださる神、さらに解放を約束してくださる神に希望を見出してきた。現代の我々も、もっと出エジプト記に親しむべきではないだろうか。日本社会でも人々はうめいている。過酷な勤労で苦しむ人、逆に職を失って途方に暮れる人、また最近は虐待やいじめ、ハラスメントが社会問題となってきた。ひどいことが横行している。
 我々は神様に向かって叫ばなければならないと思う。キリスト教は我慢の宗教ではない。神に向かってうめくこと、嘆くこと、叫ぶことが許されている。そして、叫び声のあるところ、神様はこれを聞き、我々のために行動してくださるのである。このことに希望を抱くよう、本日の箇所は促しているのではないだろうか。祈りに対する答えは必ずあるということである。神様は叫んでいる民を助けないような方ではない。神様は必ず祈りを聞いて降っておいでになる。本日の箇所はそのことを私たちに語っているのである。
 顧みれば、イスラエルはヨセフの時代にエジプトにやってきたのである。最初は食糧不足のための一時的避難であった。ところが、ヨセフの手厚い保護もあって、エジプトでの生活は長期化し、イスラエルはエジプトに居座ってしまった。その期間は出エジプト記一二章によると四三〇年である(四〇~四一節)。イスラエルの民はそこで安逸をむさぼり、約束の地を目差すことをすっかり忘れてしまった。
 しかし何世代も経過すると、ヨセフのことを知らないファラオが国を治めるようになる。するとしだいに情勢は変わる。イスラエルはエジプトで増え広がり、しかも強いのである。だから煙たがれれるようになった。こういう異民族が増えてくると将来大変なことになるのではないか。ファラオはそんな心配をするようになった。そして、イスラエルを厳しく監督する政策に出る。それは過酷な強制労働と、生まれてくる男児をことごとく殺すというむごい政策であった。
 安住の地は一転地獄に変わった。イスラエルの人々は苦しみ、嘆き、うめきの声を出し始める。「ああ、何で我々はこんな目に遭わねばならないんだ。我々の神はどこにいるのか」。至る所で、嘆きの声が聞こえるようになった。そして、まさにそこで神様がイスラエルを決して忘れていないことが決定的に明らかにされる。それが、本日の箇所で言われていることである。どんなに長い間、民が約束を忘れても、神様は決して約束をお忘れにならない。そういうことである。神様の契約は不変であり、そこに希望をもつように出エジプトの物語は告げているのである。
 さて、いよいよ神様の解放の御業が起こされる。そのために召されたのがモーセであった。神様ご自身が手っ取り早くイスラエルを解放してくださればいいのに思うのだが、神様は地上で御業をなさるとき、いつも弱さをもつ人間を用いられるのである。
 神様は燃える柴の中から声をかけられる。そのときモーセは「はい」と答え、逃げも隠れもしなかったが、一〇節で「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われると、「(ちょっと待ってください)。わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と尻込みするのである。
 すでに述べたようにモーセは挫折した人だった。若き日の野心も情熱も今はない。枯れて果てていた。こんな時に、神様のお呼びがかかるとは皮肉なことである。モーセはミディアンで家族と共にこのまま静かな一生を送るつもりだったのではないだろうか。羊飼いの仕事をしながら、毎日毎日をたんたんと生きることしか頭になかったにちがいない。今更、イスラエルを導けなどと言われても、困惑するばかりなのである。
 しかし、ある意味では、こんなモーセだから、神様はあえて今になってお召しになったのではないだろうか。イスラエルの救済は、人間の野心や情熱で達成できるようなことではないからだ。かつてのモーセのような血気盛んで危なっかしい人物は、神様には必要でなかった。出エジプトはあくまでも神様の御業であって、ただただ神に忠実に従う砕かれた人が必要だったのである。
 そして、この尻込みするモーセに対する神様の答えは、「わたしは必ずあなたと共にいる」ということであった。イスラエルの解放は人間業ではできないことなのである。モーセはエジプトの王宮で育ち、エジプトの国力とファラオの権力の絶大さを嫌というほど理解していたはずだ。それは挫折したモーセに太刀打ちできる相手ではないのである。「わたしは何者でしょう」とはまったく当然の反応であった。モーセが解放の指導者としてファラオに立ち向かうなど、無謀としか言えない事柄であった。
 それにもかかわらず、神様はモーセをファラオのもとに遣わす。これから起こる出来事は人間主導の出来事ではなく、神様主導の出来事だからにほかならない。神様が中心に立っていてくださるのである。神様が必ずすべての戦いの中で共にいまして、イスラエルに勝利をもたらしてくださる。だから、モーセは出て行くのであり、それ以外には成功する見込などあり得なかったのである。
 神様は必ず共にいます。この見えない事実だけがモーセに与えられるしるしだと言われている。そんな見えない事実がしるしだと言われても心細いのではないだろうか。でも、この一点にイスラエルの望みはかかっていたのである。神様はその見えない事実を心の支えにしなさいと言っておられる。これからの歩みがまさにその見えないものに頼る信仰の歩みだったからであろう。
 信頼して歩めば悪いようにはしないと、神様は言っておられるような気がする。私たちも、神が共にいましたもうならば必ずよい結果になるだろうという明るい見通しを胸に抱いて、いつも前に進むべきではないだろうか。神様は共にいてくださらないという悲観的前提でものを考えやすいのが人間の常である。しかし、その前提を捨てて、神様は共にいてくださるという約束を仰ぐ。ここに、人の主を超えた明日が開けてくる。これがイスラエルの歩んだ道であり、我々の歩んでいる道でもあるのではないだろうか。
 ただ、モーセには一つの懸念があった。それはまずイスラエルの人々が果たして自分のような者を信じてくれるだろうかということだった。お前を遣わした神とは誰か。その名を教えてほしいと聞いてくるにちがいない、そのとき何と答えたらよいかということであった。
 神様の名前を聞いてどうするんだと思うかもしれないが、名前というのはその存在者の特色を示す重要なシンボルなのである。名前がなければ、相手を呼ぶことも、交わりをもつことも、責任を追及することもできなくなる。相手の名前が分からないということは、十分な関係を持てないということを意味している。だから、我々も必ずお付き合いするときには、名前を教え合う。深い信頼関係を築くには、「おたく」と呼び合うような浅い関係では十分でない。だから、仕事でも名刺を交換したり、名札をつけたりする。
 神様の名が知りたいというのも、その意味では当然の要求である。そして、本日の個所のクライマックスは、モーセに新しい神の名が告げられるという場面になっている。一四節以下でこう言われている。  
 「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。《わたしはある》という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』神は、更に続けてモーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名』」。
 この箇所によると、モーセを使わした神の名は「わたしはある」というものだった。そこに根本的特色が映し出されている。これは旧約聖書の有名な神の名、エホバ、最近の学者の読み方ではヤーウェの由来を解説するものである。「わたしはある」と言っても、哲学的なことを言っているのではない。静かに世界の外側にたたずんでいる永遠不変の絶対者といったことではない。この「わたしはある」は、一二節の「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉によって解釈されなくてはならないと、私は考える。
 それは苦難のうちにある民と共にいる神ということであり、イスラエルがエジプトから脱出するその歩みの中で共にいます神ということである。また、これからも御自分の民を導き続ける神ということである。「わたしはある」というのは、そういう生きて働く行動的な神の臨在を意味している。
 我々の神は高みにいて下界のことに無関心な神ではない。御自分の民、そして全人類に深く関心を寄せる神である。そして、そのうめき、叫び、嘆き、祈りを天で聞いて、地上の現実にくだってくる神である。そして救いの行動を起こしてくださる神である。まさに「低きにくだる神」(左近淑)なのである。本日はこういう神様の特色を、モーセの召命記事を通して見つめ直したいのである。

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