夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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主の鍛錬を軽んじてはいけない

2014-08-16 18:22:56 | 日曜日のメッセージ
 本日、読まれた聖書、ヘブライ人への手紙に登場してくるのは、第一世紀の終わり頃のクリスチャンたちだ。彼らの生活状況はとても厳しいものであった。キリスト教は一般世間でまだ容認されず、キリスト教徒であるがために、様々の困難を経験していたのである。なにしろ、ドミティアヌス帝というキリスト教徒を迫害した皇帝が在位していた時代である。クリスチャンに対する世間に風当たりがどんなものであったかは想像に難くない。彼らはローマ帝国の役人から不当な扱いを受け、一般市民からも白眼視され、家族親類縁者との交際もなにかとしづらく、肩身の狭い思いをしながら暮らしていた。また、官憲や暴徒からひどい目にあったという人もいた。
 信仰生活に苦労が伴うことはある程度覚悟はしていたものの、これほどまで苦労があるとは思わなかったというのが実感だったかもしれない。そして、困ったことには、このヘブライ人への手紙の読者たちは、そういう厳しい事情の中で、信仰生活の意欲を失いつつあった。だから、この手紙は書かれたと言ってもいいのである。この手紙が書かれたのは、そういう弱った信徒たちを励ますのが目的であった。読者たちはある時点までは迫害や困難にもめげず、熱心な信仰生活を送っていたのだが、厳しい生活事情が長く続き、なかなか事態が変わるめどが立たないため、次第に疲れを覚えるようになってきたのである。戦線を離脱して教会から遠ざかる人たち、集会から身を引いてしまう人たちがぼつぼつ出てきていた様子がうかがえる。信仰を捨てたわけではないが、もうこのままではやっていけないと思い始めていたのであろう。そして、事態を重く見た著者は全精力を傾けてこの「ヘブライ人への手紙」を書き送ったのである。これは内容的にも文体的も相当格調高い文書である。

 ここでヘブライ人への手紙の著者はそのぐらいの苦難にへこたれるなと単純に言っているのではない。読者たちの状況を十分理解し、深い同情をもって書いている。
 そもそも試練というものは、だれにとっても喜ばしいものではない。一一節のところで、著者自身そう言っている。大きな苦難が襲ってきたら、みんな悲しみと嘆きで一杯になる。そして、苦しみがこのまま続くなら、神様を見失ってしまいそうになるかもしないと不安になる。「ああ、困った。こんな思いはまっぴらだ」。それが正直な気持ちだったであろう。そして、なんとかこの苦しみから逃れられないものかと考えるのである。だれもがそんな弱さをもつ人間であることを著者はよく知っている。

 しかし、著者は試練の中でもう一度神様の御心を考え直すことを勧めている。試練の中で神様は隠れておしまいになったように感じられるが、実はそうではないということ。試練にはちゃんとした意味があるということである。それは愛する子を鍛えようとする神の訓練なのだということである。ヘブライ人への手紙は五節以下で旧約の箴言の言葉を中心にして、そのことを強調している。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
 主から懲らしめられても、
     力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受入れる者を皆、
 鞭打たれるからである。」(箴言3章11~12節)
 なるほど、父親というものは無闇に子供を甘やかしたりしないものである。最近では厳しい父親が少なくなったと言われるが、それでも子供を訓練する父親の役割がなくなったわけではない。子供を愛すればこそ、子供のために少々きつい訓練も課すのである。そういう訓練をされていない子供はスポイルされてしまって、将来まっとうな生き方ができなくなるということになりかねない。これは旧約聖書が呈示した代表的な苦難の理解で、ヨブ記のような複雑な思想はないが、忘れてはならないものである。

 どうも、人間はあるレベル以上の能力を発揮するためには、つらい訓練が必要のようである。ヘブライ人への手紙は本日の段落で、スポーツ競技の用語をよく使っている。スポーツはとくにつらい練習を必要とするものである。一二章一節の「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」はマラソンを念頭に置いていると思われるし、四節の「罪と戦う」は拳闘(ボクシング)の用語だそうである。こういう競技で力を伸ばすには、どうしても限界ぎりぎりのきつい練習が必要となる。近頃は科学的な知識を踏まえて、無駄のないトレーニングがなされているだろうが、それでも練習はつらいはずである。自分をいじめるような、無理とも思える訓練に耐えることによって、初めて一人前の競技者に成長できるのだ。バテて試合中にへこたれたら勝負にならない。
 同じことが、信仰生活についても言えるのではないだろうか。楽ばかりしていたのでは、信仰は深まらないし、人間性も磨かれないのである。ときには、つらい体験もしなければ、成長はしないのである。よく厳しい場面に遭遇することを修羅場をくぐるというが、修羅場とは鬼が出る所という意味だそうである。そういう厳しい場面を体験して人でないと、あらゆる場面と状況に対応できる信仰者にはなれないということだ。そして、そういうつらい体験を経た人だけが、深みのある、芯の強い、それでいて思いやりに満ちた信仰者に成長することができるということである。
 要するにヘブライ人への手紙の著者が言いたいことは、すべてのつらい体験にも神様の愛から出た教育的な配慮があるということである。そして、つらい体験を味わったときに、自分が神に愛された者だから訓練を受けているという認識をもちなさいと言っているのである。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」と七節は述べている。

 この「鍛錬」と訳されている言葉が、本日のキーワードである。これはギリシャ語でパイデイアπαιδείαという言葉であるが、ギリシャの世界では非常に重要な語であった。これはいつのまにか自然に身に付いていくのではなく、意識的な努力をしないと身につかないものをめざしている。それはある理想や目標のもとになされる教育や訓練であり、子どもを成熟した大人に仕上げるという意味が根底にある。神様は信仰者をそういう正しい道に導くことを意図しておられるのだ。神は常に愛と善意の神である。試練を味わうときにそのことを決して忘れてはならない。信仰の先達は見なそう考えて生きてきたのだ。こうヘブライ人への手紙は私たちに語りかけているのである。

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