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夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

人生、宗教、世相、趣味などを思いつくままに記す

イエスの洗礼

2013-02-01 20:34:31 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書3章13~17節 イエスの洗礼という出来事は、イエスの生涯の一つの謎だと言うことができる。メシアであるイエスがどうして格下のヨハネから洗礼を受ける必要があったのかという問題である。ヨハネに近づいて親しい交わりをもつのはよいとしても、洗礼まで受けることはなかったのではないかという疑問が残るのだ。イエスが罪なき神の子という信仰を前提にすれば、ますますそれは謎なのである。洗礼というは罪人が受けるものだからだ。それに加えてまずいことがあった。マタイ福音書が書かれた一世紀末には、洗礼者ヨハネの弟子集団が生き残っており、自分たちの優位性を主張していたからである。だから、キリスト教会の側からすると、イエスがヨハネから洗礼を受けたという事実はあまり都合の良いことではなかったのである。ヨハネがイエスの上に立っているかのような印象があるからだ。が、それだけに、イエスの洗礼ということは初代教会が創作したエピソードではなく、史的事実としか考えられないということにもなる。とにかく謎の残る出来事だったのである。 . . . 本文を読む

東方でその方の星を見た

2013-01-10 19:50:38 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書2章1~12節。この箇所は東方の学者たちの来訪である。この箇所の冒頭はこう言っている。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(2・1~12)このように、彼らは星の動きをたよりに遠い異国からはるばるやってきて、幼な子イエスを捜し当て、イエスを礼拝し、贈り物を献上して帰っていったのである。この個所からあらためて学ぶことは、教会には必ずキリストを求めてやってくる異邦人がいるということである。 . . . 本文を読む

主の天使が夢でヨセフに現れ

2013-01-10 19:13:00 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書2章13~23節。神様はこの世の権力者の策略を見ぬき、先回りをして、いかなる危機の中でも御自分の計画を貫かれるお方である。この記事を読むと、イエスの家族は一見この世の力に翻弄され、心細い逃避行を強いられているようであるが、神の御手はいつも彼らの上にあったことが分かる。彼らは、その都度、安全なところ安全なところへと導かれている。この箇所ほど神様の導きの見事さを教えられる箇所はないと思う。人間の知恵と力の裏をかき、そのはるか上を行く神様のくすしい働きの跡をここにみる思いがする。 . . . 本文を読む

マリアの胎の子は聖霊によって宿った

2012-12-24 17:04:43 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書1章18~25節。マタイによる福音書の文脈の中で見ると、この聖霊による懐胎は、長いイスラエルの歴史の頂点として起こったことでした。マタイ1章のあの長い系図が示すように、アブラハムからダビデを経てメシアの到来に至る歴史が、この出来事によってひとつの目標に達しようとしているのであります。神様はついにこの歴史を聖霊によって完成されるのです。きょうの箇所はあの系図の最後の部分、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」という言葉の解説になっております。そして、今ここに起こった出来事は前代未聞のことと言えるのです。イスラエルの歴史の中でも、不妊の女の胎が神によって開かれるという出来事はありました。アブラハムの妻サラやヤコブの妻ラケル、サムエルの母ハンナや洗礼者ヨハネの母エリザベトの場合がそれであります。重要な人物の誕生はしばしばそういう神の奇跡的な働きによって起こされてきました。でも、夫が介在しない、聖霊のみによる懐胎というのは、聖書の中でこれが初めてであります。ですから、イエスの誕生はイサクやサムエルなどの旧約の重要人物の誕生とも質的に区別される出来事として紹介されているのです。つまり、これこそ今までにない特別の仕方で神が働いた出来事、イスラエルの歴史とつながりをもちながらもあらゆる人間の力や理解を越えた出来事、いや神御自身が私たちの人間の世界に入ってこられた出来事、そういう出来事として救い主が生まれたということを、マタイは伝えようとしているのであります。 . . . 本文を読む

洗礼者ヨハネの問い

2012-12-16 19:08:37 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書11章2~19節。洗礼者ヨハネの宣教活動は一大悔い改め覚醒運動であったと言われる。洗礼者ヨハネはメシアが来て神の国をもたらす日が近いことを知り、人々にその日に備えるように呼びかけたのである。準備なきままその日を迎えたら大変なことになる。悔い改めてへりくだった心でその日を迎えるようにしなさい。これがヨハネのメッセージであった。その悔い改めのしるしとしてヨルダン川で洗礼を授けていたのである。このヨハネの活動は大評判となる。エルサレムやユダヤ全土から続々と人々がヨハネのもとに集まり、洗礼を受けた。洗礼を受けた者の中にはヨハネの弟子となる者も現れた。また、その評判は遠くガリラヤ地方にまで及び、ナザレの村里にいたイエスの耳にも伝わり、イエスを公生涯の活動へと誘い出す誘因となったのである。イエスは洗礼者ヨハネの運動に自分が世に出て行く時のしるしを感じたにちがいない。そして、ヨハネは自分のもとに来たイエスを見て、この人こそ来るべきお方、自分が求めていたメシアだと確認するに至るのである。 . . . 本文を読む

主は贖う者として来られる

2012-12-09 20:32:08 | 日曜日のメッセージ
 イザヤ書59章12~20節。イザヤ書の第三部、56章以下を読むと、バビロンから帰還したイスラエルの民は夢と現実の間の落差に失望し、ひどく落胆していたことが分かります。人々は前途に明るい希望を抱いて祖国に戻ってまいりました。彼らをバビロンから解放してくれた神も、その歩みを導いてくれるはずでありました。しかし、その歩みが困難を極めますと、期待が大きかっただけに、人々は落胆の底に沈んでいくのであります。59章9節では、「わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」というつぶやきの声が聞こえてきます。11節では「救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」と言われます。そして、その背後には、神に対する不信と疑いが渦巻いていたのです。神の祝福を引き寄せるすべが本日のイザヤ書の箇所には示されています。ここに、「主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、ヤコブの家の悔い改める者のもとに来られる」(19~20節)と書いてあります。神様に向かってつぶやいたりせず、また人の過ちを責めたりもせず、自らも共に非を認めてへりくだり、姿勢を正して夜明けを待つならば、必ず主は来てくださり、明るい将来が開けてくるということです。 . . . 本文を読む

主は盗人のように来る

2012-12-05 20:51:50 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書24章36~44節。ここには有名な盗人のたとえが出てくる。泥棒というのは必ず予告なしでやってくるものだ。これから行きますと予告をして泥棒に入るという盗人はいない。だから、私たちはいつ盗人が来ても大丈夫なように備えていなければならないのである。再臨を盗人にたとえたのはイエス独特のユーモアであろう。でも、何故そんなに主の来臨を注意して待たねばならないのだろうか。一度信じて洗礼を受けたなら、なにも今さらもういっぺん審査されることもなかろうと我々はしばしば考えるのである。キリスト者たちはその日が来れば無条件に救われるのではないだろうか。しかし、聖書の教えをよく聞かねばならない。聖書によれば、主の来臨はキリスト者にも教会にも裁きとして臨む事柄なのである。甘く見てはならないのである。 . . . 本文を読む

王なるキリスト―すべての民を裁く方

2012-11-25 18:47:20 | 日曜日のメッセージ
 マタイによる福音書25章31~46節。本日は伝統的に終末主日とか「王であるキリスト」の祝日と言われています。神の国の王であるキリストが最後の審判を行うために再び来られる日を覚える主日です。終末の日に、クリスチャンは何を基準にして裁かれるのでしょうか。結論を言えば、主がここであげておられる審きの基準は、愛のわざがなされたかどうかということです。愛の強調は紛れもなくイエス・キリストに端を発するものです。我々は主が再び来たりたもうその時に、特別な業績や名声にならないものでよいですから、愛の果実を身に付けたクリスチャンとして主のみ前に立つ者でありたいと思います。日頃の何でもない言葉と業の中に、イエス・キリストの愛の心を滲ませていきたいのです。 . . . 本文を読む

モーセのような預言者

2012-11-24 18:24:10 | 日曜日のメッセージ
 申命記18章15~22節。本日の申命記で中心聖句となっているのは、15節の次の言葉である。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」。人間の生活というのは幸福なときばかりではない。健康に恵まれ、仕事も順調にいき、もめ事や争いに悩まされることもない。そういうことばかりならいいが、実際の人生には予想のつかない悩みや困難が付きまとう。そこで、誰でも不安を抱えながらの毎日を送らねばならないのである。そして、その不安の度合いが強まってくると、人々はその土地その土地にある様々の迷信に心を寄せるようになる。これはいつの時代にも見られる現象だった。申命記がここで言っていることは、それよりもむしろ神様は御自分の方から、必要に応じて預言者を立て、その預言者を通して人々に御心を告げてくださるということだ。その言葉を待ち、その言葉を受けとって生きる道を定めるべきなのである。御言葉を道のともしびとするということだ。このことが、神の民イスラエルに許された唯一の生き方だった。このことを申命記は強くカナン入国前のイスラエルに語っている。 . . . 本文を読む

アブラハムの信仰

2012-11-17 15:45:44 | 日曜日のメッセージ
 創世記13章1~18節。アブラハムと甥のロトはついに別の道を歩まねばならなくなった。そして、ここからがよく知られる場面だ。驚くべきことに、アブラハムは年長者の権利を捨ててロトに優先権を譲っている。「右に行くか左に行くか、さあまずお前が選びなさい」と言っている。これはすぐ前の章で、身の安全のために嘘をついたあの臆病なアブラハムとは随分違っている。彼の心境を分析することが許されるならば、これはエジプトでの苦い経験を踏まえた新しい態度だと言える。自分を守るために嘘をついたかつての生き方の反省、またそういう自分の咎を罰することもなく赦してくださった神への感謝が、こういう態度をとらせているのではないだろうか。大きな恵み、豊かな赦しを受けた者は、新しい生き方によってその恩寵に応えるようになる。相変わらず自分本位であったり、他者を押しのけるような生き方ができない。アブラハムは苦い失敗の体験をとおして、今ようやく神の民にふさわしい生き方にたどり着いたのである。このようにアブラハムが損失をも覚悟で神にすべてを委ねたとき、神は彼に声をかけられる。 . . . 本文を読む