マタイによる福音書27章45~56節。イエスの死の結果として、福音書が伝えていることは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ということだった。神殿というのは神と人との出会いの場所であり、垂れ幕というのは神殿内部の仕切りの役目をするものだった。その垂れ幕の一番奥に入ることが許されるのは、ただ一人贖罪の儀式を行う大祭司だけであった。その垂れ幕が真っ二つに裂けたというのだ。これは劇的な描写だが、誰かがその時神殿の中で見て確かめたというわけではない。もしも仮に神殿の垂れ幕が今まで通りであったとしても、もうそれは無効になってしまったということが言いたいのだ。これはマルコもルカも伝えていることで、イエスの十字架の死が何をもたらすものであったかについての福音書の共通理解を表すものであった。神殿の垂れ幕が破れ落ちたということは、旧約のいけにえや祭司の制度が終ったということだ。誰でもイエス・キリストによって神のみまえに近づくことができる時代がきたということ意味している。つまり、イエス・キリストが十字架の上でご自身を捧げてくださったがゆえに、私たちは動物の犠牲という不完全で規則づくめのものによらずに神に近づくことができるということだ。また、罪の赦しを確信して心おきなく神を礼拝することができるということでもある。これは旧約が目指していたものの成就でもあった。こういうことを、イエスの十字架の死はもたらしてくれたのだと言っているのである。 . . . 本文を読む
マタイによる福音書20章20~28節。ここではゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が登場して身勝手な願いをしている。イエスが王座にお着きになるときには、自分の息子の一人を右に、一人を左に座らせてくださいというものだった。自分の息子を一番の家来にしてくださいという願いである。随分、身勝手な願いであるが、他の福音書の並行記事と比較しながら判断すると、ここに登場するゼベダイの子の母は、どうもイエスの母マリアの姉妹であるという可能性も出てくるのである。だとすると、「かれらはイエスと近親関係にあるので、当然、天国で特別な地位が与えられると考えた」という可能性も出てくる。この点の詳細に興味ある方は、W・バークレーの註解にその詳細を見ることができる。もしそうだとすると、姻戚関係のコネを利用して、こうした頼みごとをしているということになる。イエスが自分を捨て、苦難と死を覚悟してエルサレムへ向かおうとしているというのに、その途上でヤコブとヨハネの母親はそういう願いを強く抱いていたと、この箇所は伝えているのである。何という無理解無神経、いかにこれがイエスの生き方から離れていることか、福音書は私たち読者に伝えようとしているのである . . . 本文を読む
マタイによる福音書17章1~13節。レントの期間に、必ず礼拝で取りあげられる聖書の箇所に、山上の変貌の記事があります。本日はマタイにある箇所が読まれましたが、これは大変不思議な記事であります。イエスが三人の弟子を伴って高い山に登られましたとき、イエスの姿が見る見るうちに変わり、顔は太陽のように、衣は光のように白くなったというのです。しかも、そこに旧約聖書の有名な人物モーセとエリヤが現れてイエスと何やら会話をいたします。それは全く夢か幻のような光景でありました。弟子たちはただもううっとりしてしまって、いつまでもこのままの状態でおりたいという気分でありました。この場面は何を意味しているのでしょうか。
. . . 本文を読む
マタイによる福音書16章13~28節。イエスはペトロの信仰告白を聞いた後、受難予告を語られた。そして弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰った。厳しい言葉だ。でも、この順序が逆であったら、ペトロは恐ろしくなって信仰告白ができなかったかもしれない。主イエスは、弱くて理解の遅い私たちをあきらめないで、忍耐強く導いてくださるのではないだろうか。本日の厳しい言葉にたじろぐ自分を感じたとしても、それはクリスチャン失格のしるしではない。十字架を背負う歩みは少しずつ徐々に身につけていくことが許されているのである。 . . . 本文を読む
マタイによる福音書12章22~32節。本日の奇跡物語、悪霊払いの話は、神の国のしるし、救いの時代の証しとして、我々の信仰を呼び覚ます働きをしているのではないだろうか。イエスの語る福音は言葉だけのものではないということだ。イエスと共に神様が働き、神の意志に逆らうものを滅ぼそうとしつつあるということだ。悪霊というのは神に逆らうものの総称である。悪霊が追放されるということは、神様がイエスと共に最終的な救いの行動を起こしておられるということだ。イエスの神の国運動は、こういう生きたしるしによって力を得て、広まっていった。 . . . 本文を読む
マタイによる福音書4章1~11節。荒れ野の誘惑はこのイエスのメシアの使命に関わる誘惑である。悪魔はそこで二度に渡って「あなたが神の子なら」ということばで誘惑を語っている。「神の子なら、石をパンに変えてみなさい」。「神の子なら、神殿の屋根の上から飛び降りてみなさい」。明らかに、神の子という身分と権能を、本来の使命のためにでなく、別の目的で使わせようとしている。「苦難の僕」の道から逸らせてしまおうという誘惑であった。イエスの心の中にある神の声をかき消してやりたい。神の御心よりももっと大事なことがあると思わせてやりたい。神様に従っていたのでは埒が開かない、それでは駄目だという気持ちにさせてやりたい。これが、サタンのねらいであった。そして、これはいつも私たちの心にささやきかけるサタンの声なのである。 . . . 本文を読む
マタイによる福音書14章22~33節。私たちは信仰においてもしばしば弱さを感じるものである。もう一つ力が及ばないという限界にぶつかる。しかし、行き詰まったそのところで、「主よ、助けてください」と叫ぶ。そのとき、主は憐れみ深く、私たちに手を差し伸べて、溺れかかる足を引き揚げてくださるということではないだろうか。「このことを信じていいぞ」とマタイ福音書は語りかけているのだと思う。「信仰が薄い」というのは情けないことだが、我々の信仰の現実としてありのままに認めたほうがよいことである。そのことを認めて、自分の無力を告白するとき、主は助けのみ手を伸ばしてくださる。そうなさらないほど厳しいお方ではないのである。そして、主に助けられて、我々は次のステップに進むことが許されるのである。 . . . 本文を読む
マタイによる福音書15章21~31節。まず、ここに出てくるイエスはなぜか非常に冷淡なイエスとして描かれている。イエスは憐れみを乞う母親の願いに何も答えようとしないのである。他の個所ではあんなに情け深い、愛に満ちたイエスが、ここでは恵みを拒むイエスに変わっている。8章にある百卒長の僕のいやしでは、イエスは異邦人に対しても親切に振る舞っておられた。しかし、ここでは母親が何度叫び続けても、イエスから帰ってくるのは無視と拒絶の返事でしかないのである。でも女はあきらめなかった。そしてイエスも女の信仰を受け入れる。私たちは本日の奇跡物語をとおして、ねばり強い祈りの姿勢、へりくだった信仰を学ぶと同時に、神の恵みがいかに豊かで無尽蔵なものであるかを、学び取ることができると思う。ここにはイエスの時にはまだ展開されることのなかった異邦人伝道の前触れが示されている。 . . . 本文を読む
マタイによる福音書5章1~12節。本日は山上の説教冒頭の幸いの教えが取り上げられている。幸いな人とはどのような人かということが列挙され、一つ一つにこういうわけだからという根拠が与えられているのである。最初のものを例にとれば、「幸いなるかな、心の貧しい人々。天の国はその人たちのものだから」となっている。信仰と生活のガイダンスである山上の説教がこういう幸いの教えで始まっていることは興味深いと思う。幸いなるかなと語ることで、イエスは御自分に従う歩みに私たちを引き寄せようとしているのである。注意したいことは、「お金持ちは幸いである」とか、「健康と才能に恵まれた人は幸いである」とは言われていないということである。ここには誰もが当たり前のこととして望んでいることは出てこないのである。むしろ、「心の貧しい人」とか「悲しんでいる人」とか「義に飢え渇いている人」など、通常では幸福とは思われていないもの、不幸だと思われているものが、かえって幸いなんだと言われている。ここでは当たり前のことが言われているのではなくて、イエス・キリストにおける価値観の逆転が問題になっていることが分かるのである。
. . . 本文を読む
マタイによる福音書4章18~25節。最初の弟子たちはガリラヤ湖で働く漁師でありました。毎日毎日魚を捕るために海に出る。そんな生活をしている人々でした。そういう人々が今度は魚ではなく、人間をとる漁師となると言うのです。「あなたがたを人間を相手にする漁師にしよう」「きっとそうしてみせる。ついてきなさい」。これはイエスさまの約束であり、また願いでもあったということことができます。最初の弟子たちが漁師であったということは、象徴的なことであります。伝道活動を人間をとる漁として語るというのは、いささか乱暴なような印象もあります。求道者や一般大衆は獲物のようなものであって、伝道する教会の手によって無理矢理釣り上げられるといった感じがしないでもありません。もちろん、それは殺すための捕獲ではなくて、生かすための捕獲、命の恵みへと救いあげることなのですけれども、それにしても穏やかでない言い方だと思います。 . . . 本文を読む