コリントの信徒への手紙二 9章6~15節。11年前、アメリカの教会を視察する旅行に行かせていただいたとき、そこで感じたことの一つは寄附や献げ物の習慣が非常に豊かであるということだった。篤志家の献金で建てられた老人福祉施設や聖書博物館もあった。また、ミシガン州ホーランドのサードリフォームド・チャーチの中を案内されたとき、多くの備品が信徒の献げ物として整えられたということを知ることができた。指定献金のような形で教会に必要なものが加えられているのである。(写真は、この洗礼盤が幼い息子の逝去を記念して信徒が献げたものであることを説明する引退牧師) . . . 本文を読む
ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節。パウロが神から受け取った福音というのは、一言でいって律法の行いによらない救い、純然たる信仰義認の福音であった。これは、平たくいうと、キリストのおかげでどのような罪や過ちも無償で赦されているというものだ。そして、キリスト教とはそのことを信じ、心の底から安心することだと言える。赦しや救いをいただくに当たって、人間の側の条件は何もないのである。とにかく、罪にまみれた自分の存在が神の暖かいまなざしの中で無条件に肯定されているということが、パウロの信じた福音だった。
ところが、こういう福音の理解に対して、別のものが現れてきたとガラテヤ書は伝えている。それは救いにあずかるためには律法の業も必要だという考え方である。とりわけ割礼のしるしだけは必ず受けておく必要があるという主張だった。 . . . 本文を読む
シュラッターという聖書講解者が、「私たちが愛のなさを克服しないときには、私たちは賜物において私たちの罪を深め、私たちの罪過を大きくしていく」と言っている。愛が見失われたとき、それ自体よいことが、躓きや妨げとなってしまうことがあるということだ。コリント教会ではまさにそのとおりのことが起こっていた。パウロの目に狂いはなかった。
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使徒言行録13章44~52節。選びの教えは人間の頭で考えると益をもたらさなくなる。選びの教えについて詳しく述べる17世紀英国の「ウェストミンスター信仰告白」は、この教えを「高度に神秘な教理」と呼び、「自分の永遠の選びを確信するよう特別な配慮と注意をもって扱わねばならない」と忠告している。つまり、人を賛美や感謝や慰めに導かないような憂鬱な教えにしてしまってはならないということである。
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エフェソの信徒への手紙四章17~32節。教会が混乱するとき、一番悲しむのは聖霊だとパウロは言っている。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(4章30節)。パウロによると、クリスチャンは、聖霊によって洗礼をうけ、それ以後、聖霊の宮とされ、聖霊に導かれて、救いの完成に向かうように召された人々である。それなのに教会の平和と一致を阻むようなことをしているとすれば、我々のもとに宿りたもう聖霊を苦しめることになるというわけである。
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エフェソの信徒への手紙5章21~33節。この個所の強調点は妻に対する勧告にあるというよりも、夫に対する勧告にある。22節の「妻は夫に従え」という一点にばかり目を奪われてはならない。冷静に聖書を解釈するならもっと別のことが見えてくる。エフェソ書がここで一番に言いたいことは、妻の服従ということではなくて、夫が妻をいたわるようにということなのである。この箇所の妻に対する勧告と夫に対する勧告を較べてみるとよい。夫に対する勧告の方がはるかに詳しく力がこもっている。25節で「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」と言われ、その発言はさらに詳しく29節まで展開されている。こちらの方もしっかり聞き取らないと、公平を欠いていると思うのである。しかも、それは夫に対して少し酷ではないかと思えるほどの強調の仕方なのである。
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ヘブライ人への手紙12章3~13節。人間はあるレベル以上の能力を発揮するようになるためには、つらい訓練が必要のようである。ヘブライ書は本日の段落で、運動競技の用語をよく使ってそのことを説明している。スポーツというのはとくにつらい練習を必要とするものである。12章1節の「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」はマラソン競技を念頭に置いていると思われるし、4節の「罪と戦う」というときの「戦う」は拳闘(ボクシング)の用語だそうである。こういう競技で力を伸ばすには、相当きつい練習が必要となる。近頃は無駄のない合理的なトレーニングがなされているだろうが、それでも練習はつらいはずである。ときに自分の体をいじめるような、厳しい訓練に耐えることによって、初めて一人前のアスリートに成長できるのだ。
同じことが、信仰についても言えるということではないだろうか。 . . . 本文を読む
コリントの信徒への手紙一 12章14~26節。本日のⅠコリントの箇所でパウロが言いたいことは、特別の賜物ばかりを重んじるコリント教会の姿は、一種の化け物のようだということであろう。それは頭だけの人間、目だけの人間、耳だけの人間と同じで、体として成り立たないということである。そうではなくて、多くの者から構成される有機体としての教会、すべての人が重んじられる教会、多くの賜物が活用される教会を目指すことが大切であり、それが御自分の体として教会を建てたキリストに対する義務なんだとパウロは力説したのである。(写真は先日99歳で亡くなった教会員が生前に作っていた風車)
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コリントの信徒への手紙二 6章1~10節。パウロの確信によると、神様というお方は人間の弱さの中に最も力強く働くのである。苦難、欠乏、行き詰まり、悪評、誤解、侮辱。伝道者は様々の困難に直面して、自分の無力をいやというほど味わうのであるが、実はそこでこそ、最も確実に神の助けを受けることができるということなのだ。
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マルコによる福音書8章22~26節。マルコ8章27節から10章45節までは、弟子たちの信仰を描く一つのまとまりとして理解できるが、この部分は二つの盲人の癒しの話で囲まれているのである。一つが本日の箇所にあるベトサイダでの盲人の癒し(8:22-26 マルコのみの記事)、もう一つが10章46節以下にある盲人バルティマイの癒しである。このことは、本当の信仰というものは、神様によって目を開かれたときに、はじめて花開くものだということを示しているのではないだろうか。 . . . 本文を読む