夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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キリストの苦しみの欠けたところ?

2010-09-24 18:24:19 | 日曜日のメッセージ
 コロサイの信徒への手紙1章21~29節
 パウロは伝道活動の中でいろんな苦難を体験している。ユダヤ人からの迫害もあったし、伝道旅行中の遭難や飢えや渇きなど、いろいろと辛いこと危険なことに直面し、耐え忍びながら伝道活動をしたのである。伝道は光栄あるつとめだが、好いことばかりではなかった。同時に重荷でもあった。別の箇所でこんなことを言っている。「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」(Ⅱコリント11・27~28)。
 これを読むと、パウロも大変だったんだなあとつくづく思う。しかし、同時にパウロは不思議なことを言っている。それが、コロサイ1章24節にある「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」という言葉である。キリストの苦しみの欠けたところとは一体なんだろうか。これは解釈上とても難しいところで、いくつにも意見が分かれるところだ。しかし、はっきりしていることは、私たちを救うためのキリストの苦しみ、十字架の苦難、キリストの贖いの死が不十分だったとは考えられないのである。そういうことをパウロが言うはずはない。十字架を初めとするキリストの苦難は救いのために完全なものであった。
 ただ、もし何かが欠けているとしたら、それは何だろうか。それは世界中の人々にキリストの苦しみの効力を届ける労苦ではないだろうか。キリストは我々を救うために大きな苦しみを受けたが、それで事は終わったのではない。福音を伝える労苦を誰かが担うことが必要であり、今もキリストは福音宣教の戦いの中で我々と共に苦しみ続けているということであろう。福音が宣べ伝えられなければキリストの御業は完成しないのである。だから、救いの御業を果たしたキリストは、福音宣教に大きな関心を寄せておられ、福音宣教の中で共に苦しみ、共に働いているということなのではないだろうか。この苦しみをキリストと共に「身をもって」喜んで担う。これがパウロの伝道者としての心意気であった。

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