夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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多くの人の罪を負うために

2010-09-17 19:20:17 | 日曜日のメッセージ
 ヘブライ人への手紙9章23~28節。キリストの犠牲というのは、無頓着にならず、常に心を込めて黙想すべき重大な事柄である。ヘブライ書の研究で知られる川村輝典先生が、弦巻教会伝道開始四〇周年の記念でこの手紙の連続講解説教集を出しておられるが、この個所の説教のなかでキリストの犠牲の意味に触れて述べた言葉は注目に値する。「神にとってこれほど大きな屈辱はありません。神の愛は、その屈辱を乗り越えてあまりあるものです」(「見えないかたを見ているように」―へブル人への手紙 下―)と言っておられるのである。
 私はこれを読んでハッとさせられた。確かにそうである。神様は御自分の栄光をあらわすことを望んで人類を造られたが、その期待を裏切られたのである。人類は罪に堕ちて、思い思いの道に逸れていった。しかし、神様はそんな人類の罪を贖うために独り子を十字架に架けて救いの道をひらいてくださったのである。自分の子を犠牲に捧げるほどつらいことはないはずである。そうだとすれば、川村先生が言うように、「神の愛は、その屈辱を乗り越えてあまりあるもの」なのである。大変なことをしてくださったのである。
 何故そんなことまでなさったであろうか。それは神様ご自身が人類との交わりをこよなく望んでおられるからではないだろうか。罪に堕ちたからといって手放すことも、滅ぼすこともできないのである。彼らを清めて御自分との交わりの中におきたいのである。だから、ついにその独り子まで犠牲にして救いの道を備えてくださったのである。また、彼らを真に清めるためにはその方法しかなかったのである。
 そして、ここまでして、自分を救おうとしてくださった神の愛を知るときに、私たちの生き方、信仰生活の態度も違ってくるのではないだろうか。おそらく、ヘブライ人への手紙は、キリストの犠牲の尊さを伝えることによって、この手紙の読者たちの信仰を奮い立たせようとしたものと思われる。(写真はミシガン州ホーランドで見たキリスト者の墓地)

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