受難日礼拝(二〇一五年年四月三日 金曜日)
本当に、この人は正しい人だった
*ルカによる福音書二三章三二ー四九節
一
本日読まれたルカによる福音書の箇所は、イエスの十字架刑の場面です。これは、イエスの生涯の最後の場面であり、息を引き取る間際のエピソードでありますだけに、イエスの生涯の意味が凝縮された形で示されているところだと言えると思います。本日は、ここから、福音書記者が伝えたかった大切なメッセージを読み取りたいと思うのであります。
ルカの描く十字架場面は、マタイやマルコのそれと少し違っております。ルカではあの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びは省略されています。その代わりに、敵をゆるす言葉や、御父に魂を委ねて静かに息を引き取る場面が追加されています。多分、マタイやマルコの記事のほうは、事実をありのままに描いているのでしょう。そのために全体に十字架の場面のむごたらしいさが際立っています。それに対して、ルカの記事は、イエスの肉体的な苦痛については殆ど触れず、むしろイエスの中にある救い主の心、それがこの最後の十字架の場面でも遺憾なく表れたことを伝えるのであります。ルカはその独特の深い洞察をもって、十字架というむごたらしい事実の奥にある救い主の心を読み取り、それを我々に伝えようとしたのであります。
二
ルカに独自の部分に目を向けたいと思います。イエスの両わきに二人の犯罪人がいたことは他の福音書でも分かりますが、その二人がクローズアップされるのはルカだけの特色であります。そして、この場面にも他では見られないイエスの救い主としての心があらわされるのであります。
まず、その犯罪人の一人は、先ほども見ましたように、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしります。彼はこの時に及んでもまだ自分の罪を反省しておらず、イエスに八つ当りしているわけです。これに対してもう一人の犯罪人がその男をたしなめています。その言葉の中に、この場面で最初の信仰告白が表されるのであります。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(四〇~四一節)。信仰告白と申しましても、まだまだこれはイエスのメシアとしての本質を十分言い表したものではありません。でも、ここには自分の生き方への深い反省があると共に、「この方は何も悪いことをしていない」というイエスの無罪性が告白されている点で注目に値いたします。イエスが息を引き取ったときの百人隊長の言葉「本当に、この人は正しい人だった」(四七節)とも呼応しています。そしてイエスがなんら罪を犯していないということは、間接的にイエスの十字架が何のためであったかを指し示していると思うのであります。
イエスはなぜ十字架にかかられたのか。それは、あの二人のように自分の罪のゆえではなくて、他の人々の罪のためであり、罪人を神との交わりへと導くためであったということです。ここを読んで、我々がこのように考えることができるとするならば、ルカの意図は満たされたことになります。
そして、ルカの描く、あの悔い改めた犯罪人も、そのような理解をもってイエスを見ていたと考えて差し支えないだろうと思います。そのことは、「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という懇願の中に表されております。この犯罪人はイエスが罪をゆるしたもうメシアであるとを知り、自分のような者でさえも憐れんでくださると信じたがゆえに、このように願っているのです。
そして、彼に対するイエスの返事は、彼の予想をはるかに越えたものでした。イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(四三節)と言っております。ここに十字架におけるイエスのもっとも深い救い主としての心を見ることができるのではないでしょうか。あの犯罪人は、イエスが天の御国にお入りになる時には自分のことも覚えてくださいとお願いしたのだと思いますが、イエスの返事はあなたが自分を信じて救いを求めた「今日」、この今というときに、すでにあなたはパラダイスに入った考えてよろしいというものでした。ここに、十字架のイエスの心を見ることができます。
こういう意味で、この場面はイエスの生涯の最後にふさわしいものだと言えます。十字架はこの地上で一番低いところです。罪人が降りゆく暗いどん底です。その十字架の場面で、いままでまったく正反対の生き方をしてきた者同士が出会っています。一方は罪なき神の子であるイエスであり、もう一方は悪事を重ねて社会から抹殺されようとしている犯罪人でありました。全然別の道を歩んできて、本来なら交わることのない二種類の者が、この十字架で交わっています。光と闇が交わっていると言ってもいいかも知れません。そして、闇の中を歩み滅びに突っ走るばかりだった一人の男が、ここで光に包み込まれていくのを見るのであります。十字架上の悔い改めた犯罪人は、失われた者、放蕩息子、徴税人と同列の者であり、最悪の罪人の一例であると言うことができます。そういう人が悔い改めることによって赦され、土壇場で神の国に受け入れられている。十字架がもたらすものはこれだとルカは最後に伝えたかったのではないでしょうか。そして、ここに、すべての人の救いの希望があるということができるのです。
三
この場面は大変興味深い場面だと思います。これまで何の信仰生活もしていないのに、臨終の間際に、パラダイスへの切符を手にした一人の好運な男が登場するからです。苦労して長い信仰生活を全うした人や殉教者たちが気の毒になるくらい、この男は最後のワンチャンスをものにして、救いに入れられていくのであります。こういう天国への行き方もあるのかと知らされます。もちろん、これは例外的なものでありますが、聖書の中にこういう事例があることは、大変興味深いと思います。彼にあったものは、ただ一つ、悔い改めて主イエスに救いを願い求めたという、そのことだけでありました。
ルカがあえてこういう例外者を最後に描いていることには大切な意味があるような気がするのです。それは、十字架のイエスがもつ憐れみの大きさと広さを徹底的に明らかにしようとしていると思うからです。つまり、十字架のイエスは、悔い改めて救いを求めるすべての人を受け入れることができる、そういう憐れみ深いメシアだということを、福音書は明らかにしていると思うのです。
十字架の憐れみ・慈しみにはいかなる制限もないということです。ただ必要なことは、悔い改めてイエスに救いを求める心だということです。それさえあれば、他に何もなくても、主イエスは悔い改める罪人を救う権威をもっておられるということです。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(四三節)。これが悔い改めた犯罪人へのイエスの返事でした。この楽園パラダイスとは、ユダヤ教でエデンの園がヒントになって考え出された終末の理想境でした。義人はやがてそこに住むと信じられました。それが、どんなところであるか、我々はまだ完全には知ることができません。でも、確かなことは死んでもその先があるということです。しかも十字架によって、終末を待つまでもなく「今日」、信じた者はイエスと共に天上の祝福にあずかり、永遠に生きる者となるということです。十字架のイエスによって、このことがはっきり約束されました。
このように、ルカは十字架にかけられたイエスが我々に何をもたらしたかを明確に伝えています。十字架にかかられたイエスは、苦痛を耐え忍ぶ中で、我々への深い愛を明らかにしてくださいました。十字架を通して、人々に本当の救いを与えようと心からせつに願っておられました。それは、罪の赦しと永遠の命であるということができます。そして、それはすべての人を包むものであり、しかも救い主との出会いに遅すぎるという人はいないということです。これが本日のメッセージです。
本当に、この人は正しい人だった
*ルカによる福音書二三章三二ー四九節
一
本日読まれたルカによる福音書の箇所は、イエスの十字架刑の場面です。これは、イエスの生涯の最後の場面であり、息を引き取る間際のエピソードでありますだけに、イエスの生涯の意味が凝縮された形で示されているところだと言えると思います。本日は、ここから、福音書記者が伝えたかった大切なメッセージを読み取りたいと思うのであります。
ルカの描く十字架場面は、マタイやマルコのそれと少し違っております。ルカではあの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びは省略されています。その代わりに、敵をゆるす言葉や、御父に魂を委ねて静かに息を引き取る場面が追加されています。多分、マタイやマルコの記事のほうは、事実をありのままに描いているのでしょう。そのために全体に十字架の場面のむごたらしいさが際立っています。それに対して、ルカの記事は、イエスの肉体的な苦痛については殆ど触れず、むしろイエスの中にある救い主の心、それがこの最後の十字架の場面でも遺憾なく表れたことを伝えるのであります。ルカはその独特の深い洞察をもって、十字架というむごたらしい事実の奥にある救い主の心を読み取り、それを我々に伝えようとしたのであります。
二
ルカに独自の部分に目を向けたいと思います。イエスの両わきに二人の犯罪人がいたことは他の福音書でも分かりますが、その二人がクローズアップされるのはルカだけの特色であります。そして、この場面にも他では見られないイエスの救い主としての心があらわされるのであります。
まず、その犯罪人の一人は、先ほども見ましたように、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしります。彼はこの時に及んでもまだ自分の罪を反省しておらず、イエスに八つ当りしているわけです。これに対してもう一人の犯罪人がその男をたしなめています。その言葉の中に、この場面で最初の信仰告白が表されるのであります。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(四〇~四一節)。信仰告白と申しましても、まだまだこれはイエスのメシアとしての本質を十分言い表したものではありません。でも、ここには自分の生き方への深い反省があると共に、「この方は何も悪いことをしていない」というイエスの無罪性が告白されている点で注目に値いたします。イエスが息を引き取ったときの百人隊長の言葉「本当に、この人は正しい人だった」(四七節)とも呼応しています。そしてイエスがなんら罪を犯していないということは、間接的にイエスの十字架が何のためであったかを指し示していると思うのであります。
イエスはなぜ十字架にかかられたのか。それは、あの二人のように自分の罪のゆえではなくて、他の人々の罪のためであり、罪人を神との交わりへと導くためであったということです。ここを読んで、我々がこのように考えることができるとするならば、ルカの意図は満たされたことになります。
そして、ルカの描く、あの悔い改めた犯罪人も、そのような理解をもってイエスを見ていたと考えて差し支えないだろうと思います。そのことは、「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という懇願の中に表されております。この犯罪人はイエスが罪をゆるしたもうメシアであるとを知り、自分のような者でさえも憐れんでくださると信じたがゆえに、このように願っているのです。
そして、彼に対するイエスの返事は、彼の予想をはるかに越えたものでした。イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(四三節)と言っております。ここに十字架におけるイエスのもっとも深い救い主としての心を見ることができるのではないでしょうか。あの犯罪人は、イエスが天の御国にお入りになる時には自分のことも覚えてくださいとお願いしたのだと思いますが、イエスの返事はあなたが自分を信じて救いを求めた「今日」、この今というときに、すでにあなたはパラダイスに入った考えてよろしいというものでした。ここに、十字架のイエスの心を見ることができます。
こういう意味で、この場面はイエスの生涯の最後にふさわしいものだと言えます。十字架はこの地上で一番低いところです。罪人が降りゆく暗いどん底です。その十字架の場面で、いままでまったく正反対の生き方をしてきた者同士が出会っています。一方は罪なき神の子であるイエスであり、もう一方は悪事を重ねて社会から抹殺されようとしている犯罪人でありました。全然別の道を歩んできて、本来なら交わることのない二種類の者が、この十字架で交わっています。光と闇が交わっていると言ってもいいかも知れません。そして、闇の中を歩み滅びに突っ走るばかりだった一人の男が、ここで光に包み込まれていくのを見るのであります。十字架上の悔い改めた犯罪人は、失われた者、放蕩息子、徴税人と同列の者であり、最悪の罪人の一例であると言うことができます。そういう人が悔い改めることによって赦され、土壇場で神の国に受け入れられている。十字架がもたらすものはこれだとルカは最後に伝えたかったのではないでしょうか。そして、ここに、すべての人の救いの希望があるということができるのです。
三
この場面は大変興味深い場面だと思います。これまで何の信仰生活もしていないのに、臨終の間際に、パラダイスへの切符を手にした一人の好運な男が登場するからです。苦労して長い信仰生活を全うした人や殉教者たちが気の毒になるくらい、この男は最後のワンチャンスをものにして、救いに入れられていくのであります。こういう天国への行き方もあるのかと知らされます。もちろん、これは例外的なものでありますが、聖書の中にこういう事例があることは、大変興味深いと思います。彼にあったものは、ただ一つ、悔い改めて主イエスに救いを願い求めたという、そのことだけでありました。
ルカがあえてこういう例外者を最後に描いていることには大切な意味があるような気がするのです。それは、十字架のイエスがもつ憐れみの大きさと広さを徹底的に明らかにしようとしていると思うからです。つまり、十字架のイエスは、悔い改めて救いを求めるすべての人を受け入れることができる、そういう憐れみ深いメシアだということを、福音書は明らかにしていると思うのです。
十字架の憐れみ・慈しみにはいかなる制限もないということです。ただ必要なことは、悔い改めてイエスに救いを求める心だということです。それさえあれば、他に何もなくても、主イエスは悔い改める罪人を救う権威をもっておられるということです。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(四三節)。これが悔い改めた犯罪人へのイエスの返事でした。この楽園パラダイスとは、ユダヤ教でエデンの園がヒントになって考え出された終末の理想境でした。義人はやがてそこに住むと信じられました。それが、どんなところであるか、我々はまだ完全には知ることができません。でも、確かなことは死んでもその先があるということです。しかも十字架によって、終末を待つまでもなく「今日」、信じた者はイエスと共に天上の祝福にあずかり、永遠に生きる者となるということです。十字架のイエスによって、このことがはっきり約束されました。
このように、ルカは十字架にかけられたイエスが我々に何をもたらしたかを明確に伝えています。十字架にかかられたイエスは、苦痛を耐え忍ぶ中で、我々への深い愛を明らかにしてくださいました。十字架を通して、人々に本当の救いを与えようと心からせつに願っておられました。それは、罪の赦しと永遠の命であるということができます。そして、それはすべての人を包むものであり、しかも救い主との出会いに遅すぎるという人はいないということです。これが本日のメッセージです。
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