夕日さすまに いそしめよ(旧「今日までそして明日から」)

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エマオ途上の物語―復活のイエスと出会うとは

2016-04-06 14:37:11 | キリスト教
 ルカによる福音書24章13~35節

 きょう取り上げられます箇所は、有名なエマオ途上の復活顕現の記事であります。イエスが十字架にかけられてから三日目、二人の弟子がエルサレムからエマオに向かうおよそ十一キロほどの道を歩いております。歩きながらの二人の話題は、在りし日のイエスのことでありました。イエスの十字架という衝撃的な出来事のあと、なぜあの様な結末に終わったのかと、諦め切れぬ思いで語り合っていたでした。
 すると、そこにどこからともなく一人の見知らぬ旅人が近づいてきて、「何を語り合っているのか」とたずねてきます。そこで、二人の弟子は憮然とした顔で立ち止まります。そして、何も分かっていない人だなあと、変に思いつつも、弟子の一人がその旅人にエルサレムで起こったことの一部始終を説明してやるのであります。見知らぬ旅人は、じっと聞いております。ところが、その話が終わると、旅人は一転して口を開き、二人の弟子がイエスの十字架と復活を見聞きしながら、何も悟れないでいることを厳しく責め、その事柄の真の意味を聖書に基づいて説明し始めるのです。
 今度は二人の弟子が聞く側に回ります。そして夕暮れになり、一同が家に入って食卓を囲んだとき、パンを裂いて渡してくれる旅人の姿を見て、二人の弟子はその人がイエスであることが分かるのです。また先ほどの聖書の解きあかしによって心燃える体験をしたことを思い起こし、喜びにあふれるのです。
 そして二人はエルサレムの弟子たちのもとへすぐに引き返して行きました。これが本日学ぼうとしている、エマオ途上での復活の主と弟子たちとの出会いの記事なのです。これは、大変よく知られるルカ特有の復活記事であり、また何度読んでも感動を覚える、すばらしい物語だと思うのであります。

 さてこの記事において、まず第一に注目したいことは、この二人の弟子たちの心境です。彼らはエマオ途上でイエスの語りかけられて立ち止まりますが、その時「暗い顔をして」いたと言われています。これが弟子たちが陥っている偽らざる状態でありました。ルカはこの顔色に注目しております。「暗い顔をして」と訳された言葉は、新約聖書では他にマタイ六・一六にも出ておりまして、そこでは断食をしている人々の「沈んだ顔つき」をさして使われております。要するに、心身の不調があって冴えない顔つき、失意、落胆がはっきり顔に現れています。また辞書によりますと、この言葉の元来の意味は「怒った顔つき」ということだそうですから、むっつりとした不機嫌な表情ということでもあるわけです。私たちは、この顔つきをだいたい想像することができると思います。この「暗い顔つき」の理由は明らかに、彼らがイエスについて抱いていた希望が崩壊したことからくるものでありました。実に何事によっても癒し難い失望と落胆の中で、二人はエマオへの道をとぼとぼと歩いていたのです。

 このことから分かりますことは、イエスの生涯というものは、単に十字架の死で終わっていたならば、人に喜びや希望を与えることができないということです。今日、私たち、十字架と言えば人の罪をあがなう救いの出来事であったことを知っております。しかし、そのことは単独で復活のイエスと無関係に宣べ伝えられたことではありませんでした。きょうの箇所の中にある言葉を引用いたしますと、天使が告げた「イエスは生きておられる」(23節)ということに目が開けたときに、初めて十字架が空しい死ではなかったこと、意味あるものであり、人の救いのためのものであったことが分かって来るのです。エマオ途上の二人の弟子たちの物語は、そのことを明らかにしています。
 そして今日の私たちも、あの暗い顔をした二人の弟子たちと無縁でありません。信仰生活の中で絶えず「イエスが生きておられる」という事実に目を開かれるのでないと、生き生きと信仰を保つことはできないと思います。
 では、そのためにはどうしたらよいのか、エマオ途上の物語はそのことにヒントを与えるものであります。復活のイエスは、失意のうちにある弟子たちを見捨てず、見知らぬ旅人の姿をやつして、ご自分のほうから近づいてこられます。一五節の「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」という指摘は重要だと思います。復活のイエスは、先回りして弟子たちの側に来ておられるわけです。そして私たちと共に歩き始めておられる復活の主が、どのようなことを教えておられるか、与えられた箇所からさらにみていきたいと思います。

 さて弟子の一人クレオパという人が一通り語り終えたとき、イエスが口を開いて語り始められます。二五節のところです。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられないものたち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光にはいるはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」。このように、エマオ途上で二人の弟子たちに現れたイエスは、聖書の解き明かしをしてくださるイエスでありました。そして、聖書が正しく理解できているならば、弟子たちはイエスの十字架に直面しても失意落胆するようなことはなかったと言っているのです。また聖書が伝える真のメシア像が分かって居れば、「イエスは生きておられる」という天使の告知は信じられたはずだというのです。復活のイエスとの出会いは、聖書の手引きによって準備されるものだというのが、ルカが描くイエスの主張だと言ってよいと思います。
 そのようにしてみますと、一六節のところで、二人の弟子がイエスに出会っているのに、「目が遮られて、イエスだとは分からなかった」と言われている理由も分かるような気がいたします。多くの弟子たちは、イエスの中にイスラエルをローマの支配から解放するような現世的・政治的メシアを思い描いておりました。そのために、まさかイエスが苦難を味わうことになるとは思っていなかったのであります。彼らは復活のイエスに出会う準備が何もできておりませんでした。
 復活のイエスがいますことに気付くということは、ルカによると生前のイエスの肉体的特徴を知っているというようなことではなくて、聖書によってまことのメシアがどのような方であるのかを学び知るということだというのです。これができていないと、いくら復活のイエスを見るという体験をしても、イエスの生涯の一部始終を見聞きしても駄目なんだと、ルカは言っているのです。これは、今日の私たちの信仰にとって大事なことだと思います。私たちは復活のイエスを直接体験することはできませんので、なおのこと聖書に導かれることが大事なのだと思います。。
 しかしまた、単に聖書をよく知っておれば、復活の主と出会う準備が整うのかというと、そう単純なことではないと思うのです。ここでルカは、復活のイエスが「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」と伝えておりますが、具体的に旧約聖書のどの箇所を解き明かされたのかは明らかにしておりません。旧約聖書にはメシア預言と言われる箇所もありますが、それを引用しているのでもありません。ルカがここで言いたいことは、個々の箇所が直接イエスの十字架と復活を預言しているということではなくて、旧約聖書の希望が全体としてイエス・キリストにおいて成就しているということであります。これと無関係に聖書を読んでも見当違いのことになるということなのです。聖書全体をキリスト証言の書物として学ばなければ正しい理解にならない(ヨハネ五・三九)、ここにルカの主張があると見るべきなのだと思います(ルカ二四・四五~四六,使徒三・一八、一七・三、二六・二三)。
 つまり聖書を曲解して、ファリサイ派のように律法主義の宗教を作ってしまったり、一部の弟子たちのように現世的・政治的メシアの希望を抱いてしまったりということでは、復活の主の真の姿は見えて来ないということです。聖霊に導かれた聖書の学び、今日の私たちにもこれが求められているのではないでしょうか。後に弟子たちは「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(三二節)と述べております。「心が燃える」というのは、真理を発見して黙ってはいられなくなるような状態のことです(詩三九・三)。こういう御言葉の体験こそ、復活のイエスとの出会いに備える道だとルカは言っているのだと思います。

 ところで、きょうの箇所で面白い点は御言葉の解き明かしを聞いただけでは、まだ弟子たちはイエスに気付くことができないということです。いつになったら気が付くんだろうかという私たち読者の緊張はしばらく続くことになります。そして夕暮れになり、一行が目指す村について食卓を囲み、旅人がパンを割いて渡してくれたとき、弟子たちはようやくそれがイエスであることに気付いたというのです。なぜ弟子たちは御言葉の解き明かしではまだイエスに気が付かないでパン割きの中で気が付いたのか。エマオの物語の神秘性がここにあります。興味深い点だと思います。
 ルカは御言葉を真剣に学ぶことの大切さを強調しておりますが、どうもそれだけではない、それがキリスト教のすべてではないということを示唆しようとしているのではないかと思うのです。では御言葉と並んで大切なことは何でしょうか。三〇節の「一緒に食事の席についたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という仕草は、最後の晩餐のときと同じで(二二・一九)、教会の聖餐式の原型となったものです。ですから、ルカは御言葉と並んで聖餐式を重んじたのであり、聖餐式の意義を強調するために、弟子たちの開眼を食卓の場面にもってきたと見ることができるわけです。そしてイエスは弟子たちを開眼させたと同時に姿を消してしまわれたわけです。カトリックの聖書学者の雨宮慧さんが福音書の黙想で「弟子たちに現れたイエスが姿を消した先はパンである」と書いておられます。たしかに、この場面は教会の聖餐式を暗示しています。
 しかし、ルカが言いたいことを聖餐式だけに限定することはできないと思います。ここでルカが言いたいことは、主イエス・キリストがその中心に立ちたもう教会の交わりなのではないでしょうか。それをルカは、聖餐式を示唆する言い方で代表させているのではないかと思うのです。礼拝であれ、伝道であれ、奉仕であれ、すべて教会の営みというものは、主イエスがその真ん中に立って導いてくださらないと成り立たないものであります。また、キリスト者はそうした教会の活動に参加することによって、初めて主が生きておられるということを体験的に知るようになるのだと思うのです。聖餐式というのは、そういうすべての教会の営みの原点として与えられたものだと思います。
 いずれにしても、この箇所から聞かなければならない中心点は、二三節で言われております天使たちの告知「イエスは生きておられる」というものです。あの十字架につけられたナザレのイエスが本当に生きている。すべては無駄ではなかった、すべてが神の救いのご計画の中で起こったということです。弟子たちは最初のうちこの告知を聞いてもたわごととしか思いませんでした。この心の鈍い弟子たちが復活の主を認めて、心弾ませてエルサレムへ戻っていくまでには、ルカによると二つのことが必要だったのです。それは聖書全体の正しい理解と、聖餐式に代表される教会の交わりへの参加でありました。
 ルカは復活の主を信じて生きるために、私たちが何をしたらよいかを示しているのではないでしょうか。この二つのことに心がけて、本当に主は復活して生きておられるという信仰に導かれたいと思います。そして「暗い顔をして」歩むのではなくて、明るい顔を取り戻して信仰生活を続けていきたい思います。三三節で「時を移さず出発してエルサレムへ戻って」行ったという弟子たちの顔付きは、ルカは述べてはおりませんけれども、復活信仰の明るさに輝いていたのではないかと思います。「イエスは生きておられる」ことを知った者は、もはや暗い顔で歩くことはできなくなると思います。

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