「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

考古学者の協力をお願い致します。

2012-12-24 | 古代史

2012年10月1日のブログ『綏靖天皇の墓地探し。』にて、わたくしが見つけたと思われる大分市明野台葛木にある綏靖天皇らしき墓に最近『』マークが感じられ始められました。

 

実は、2011年12月6日のブログ『九州王朝を紐解く、垂仁・崇神天皇と欠史八代の王。9』の中で、下記のように述べています。

 

神武天皇は日向(ひむか)の吾田邑(あたむら)吾平津媛(あひらつひめ)と結婚して、手研耳命(たぎしみみのみこと)を生んだとされています。

この吾田邑(あたむら)は前原町の有田(あた・ありた)か室見川傍にある有田(あた・ありた)の事かも知れません。

これは、検討の余地が残ります。

 

と、書いています。

 

この手研耳命(たぎしみみのみこと)は、腹違いの{媛踏鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめ)が産んだ}兄弟二人(神八井命神渟名川耳命)を殺そうとして、逆に殺されます。

この神渟名川耳命が第2代綏靖天皇になった訳ですが、

 

江戸時代以前から先祖代々大分市明野台葛木にて墓を守っておられた方のお名前は、

なんと!!!『有田』様と申されるでは有りませんか。

わたくしには、偶然とは考えられません。

と謂う事になりますと、手研耳命(たぎしみみのみこと)も大いに可能性が考えられる事になり、墓の主が神渟名川耳命(第2代綏靖天皇)手研耳命かの判断が出来なくなってしまいました。

 

仮に、この墓が手研耳命のものであれば、近くに神渟名川耳命(第2代綏靖天皇)の墓が在る事になり、再捜索が必要になります。

どちらにせよ、この墓は発掘を必要と感じられ、『有田』さまには、協力依頼を申し込み、同意を得ました。

発掘には専門の知識と経験・人手、手続き等の問題に、全くの素人のわたくしには無理のようです。地元の考古学科を持つ大学や大分市埋蔵文化財課にも声を掛けていますが、今のところ善い返事を戴けていません。

全国にて活躍されておられる考古学者のみなさまのお力を戴けたら幸いです。一緒に古代史の扉を開ける夢を見ましょう。

 

 

 

 


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