「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

卑弥呼は宇那比姫命(宇奈岐日女命)で間違いない。と思われます。その2

2012-12-04 | 古代史

最近ネットにて、K―MATさまの『宇那比姫は卑弥呼ではない~』と謂う記事を見つけました。まず、桂川光和さまの根拠とされる『勘注系図』と『残欠風土記』が江戸時代に海部氏の関係者によって書かれたものと考えられ、「ずっと以前からのものでは無いのでは」とされ、「他氏族の人物が系図に含まれたり、系図の途中を記さないので、本系図帳と云えるものではない」として「朝廷に提出されるような系図では無いのでは」と、「1、『勘注系図』は最奥の秘記か?」と疑念されます。

それから、《宇那比姫命は卑弥呼か?》と論じ始められ、

その1として『天造日女命』の『天』の解釈をめぐって桂川光和さまは「天下」と解されて「天下の支配者と解すべき」と謂われますが、これは「海人(海部)」と解釈すべきで、安曇連祖神ととらえるべきである。

その2として、大倭姫は大和朝廷の女王の名か?とされ、桂川光和さまが「この女性は天皇と同格の、大倭の名前を持つ、・・・大倭姫は大和朝廷の女王の名である」との言に、「大倭」と付く女王は記録には無く、桂川光和さまの述べる、{第7代孝霊天皇の妃になった意富夜麻登玖邇阿禮比賣は正妻でもなく、ましてや「女王」ではありません。「大倭」は単に居住地(出生地)を意味しているように思われます。}と述べられ、

その3に「ヒルメ」の意味を、{「日の女神」とか「日神に奉仕する巫女的な女性」と一般的に解釈されますが、本来は「整経や製織をする際に、糸を延ばしては戻す作業繰り返す機織女」を表した。「糸を延ばす事を延る(ひる)と言った。「延る女(ひるめ)」。高天原の斎服殿にて天照大神や稚日女尊も機織作業をして布帛(ふはく)をヒレ(領巾・肩巾)と言い、巫女などが項(うなじ)から両肩に渡しかけ、それを振る事によって呪能を使っていました。(招魂の呪布など)確かに「巫女的な性格」はありますが、倭人伝に記される「鬼道」とは全く異なるものです。」}と「日女(ひるめ)の巫女的なもの」と「鬼道」は全く異なるものである。と主張されています。

その4では、日女命は単に女性神(名前不詳)を表しているだけ。

と、宇佐八幡宮の「比売大神」を例に出されています。

その5では、宇那比姫命の「ウナヰ」の意味(尾張氏は海人族)

と述べられ、{この「ウナヰ」は「畝・尾根・山稜に居る(童子)」と謂う意味です。これは女性の場合、「采女」に関係する言葉であり、采女の采も元々「畝・尾根・山稜」に居る女=仙女を意味しました。

古代の采女の特徴にも言及されており、

・    和邇氏、大倭国造家、伊勢海人、吉備海部直、小墾田氏(尾張氏族)など海人(海部)族から多く輩出した。

・    海人(海部)族は、船を作るための木を山から切り出す事から、山にも信仰を持っており、海から遠くない山辺・畝・山稜にも居住した。その女性が「ウネメ」であり、仙女であった。

其の他、建諸隅命の女、大倭姫命(天豊姫命)は台与か?では、

1、魏志倭人伝の記載を解釈すれば、卑弥呼と台与の間には男王が一人しか記入されていないので、孝安天皇と開花天皇の間の孝霊・孝元天皇の二人の問題を、中国史書をもってその根拠を示すべきである。

2、建諸隅命は丹波大県主由碁理ではない。

桂川さまは、勘注系図に記される建諸隅命の一云「丹波縣主由碁理命」という注記をもって、建諸隅命を由碁理とされます。しかし、崇神天皇の四道将軍派遣までは、丹波はヤマト王権の支配領域ではありませんでした。

として、勘注系図の信用性を問題視されています。

3、勘注系図の注記は信頼できるか?

勘注系図に記されています別名「亦名・一云・亦云」をそれほど信頼出来るものなのでしょうか。として数多くの例を挙げ、恐らく注記の90数%までが出鱈目でしょう。と述べられています。

4、台与とその次の男王は同時に中国の爵命を受けていない。の項では、

桂川さまは、中国史料『通典』から、台与と次の男王が倭国王として存在し、中国の爵命を受けたとされます。(そしてこれが、竹野姫と開花天皇に当たるとする)

1)        2人の王が同時に存在していたと日本・中国の史料に書かれていない。

2)        「宗女臺輿為王(注略)其後復立男王」の「其後」を無視していますね。

3)        この通典は『梁書』と『晋書』から中途半端に文章を引用し、前後関係を無視して繋げています。

と、桂川さまの根拠である『勘注系図』への疑念が根底にあり、史書の解釈の問題でも疑念を生じられていますようです。

 

 

宇那比姫は卑弥呼である。』と最初に論じられたのは、桂川光和さまで、京都府宮津市にある籠(こ・この)神社の宮司家に伝わる『勘注系図』と謂われる海部氏の系図に出ている宇那比姫が、亦名天造日女命(あまつくるひめみこと)、(別命として)六世孫大倭姫(おおやまとひめ)、一云竹野姫(たかのひめ)、亦云大海靈姫命(おおあまのひるめのみこと)、亦云日女命(ひめみこと)と記述されている事を根拠に他氏の系図を含めた系図研究の考察と時代考証を重ねられ、魏志倭人伝に記述されています卑弥呼は第6代孝安天皇の兄の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)の嫁であった宇那比姫であるとの結論を出されています。

魏志倭人伝の中の登場人物の比定もなされ、可なりの説得力があり、わたくしの邪馬台国九州説とも合致し、わたくしもこの卑弥呼=宇那比姫説を正解と支持する一人であります。

桂川光和さまは基本を邪馬台国近畿説で考えを進められ、考証を重ねられ、論証を得る為の物証を探されています様ですが、・・・。

 

さて、K―MATさまの疑問の指摘に対して、桂川さまは、最初の「本系帳」の点には『日本書紀』推古天皇28年(620年)の「是歳、皇太子(厩戸皇子)、嶋大臣(蘇我馬子)、共に議りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び國記(くにつふみ)、臣連伴造國造(おみむらじとものみやつこくにのみやつこ)、百八十部併せて公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録す。」という記述を引用して、

最初に止羅宿禰が譜系(勘注系図)を纏めたのも推古朝(592~628)である。おそらく厩戸皇子等の史書編纂に際し、それぞれの氏族に対し系譜の提出を求めたのである。これに応じて止羅宿禰が作成したと推測できる。この「本記(もとつふみ)」と称される系譜は本系帳とは称されてはいなかったであろう。

「本系図」は縦系図の中では最も古い部類に属すということで国宝に指定されたのである。

「本系図」には印影らしきものが認められた。そこで後にエックス線検査により「丹後国印」と認められた。28個の方印が人名の上に押されていた。丹後の役所が認めた印であろう。現存する本系図は役所を通じて朝廷に提出された系図の控えであろう。

 

と答えられ、残欠風土記については、

鎌倉末期に成立した『繹日本紀』には「丹後の國の風土記に曰はく」として丹後国風土記逸文の文が引用されており、間違いなく『丹後の風土記』は鎌倉末期に現存したし、現在その一部と思われる物が現存する。何も江戸時代の「残欠風土記」を参照したわけではない。

と反論されます。

 

天造日女命の「天」の解釈の件では、

天造日女命が安曇連の系譜に登場する事を以って「天造」を「天下」と言う意味が無いと否定できるのか?と述べられ、この場合は、「天造」は「国造」と同じ意味が含まれると考え、「天」は「海人」ではなかろう。と解釈の相違と捉え、尾張氏が海人族か否かについては議論が別れる。議論しても共通の認識に至る事はなかろう。と述べられています。

「大倭」は単に居住地(出生地)を意味しているだけのように思われます。の件では、

単に居住地(出生地)を意味するだけなら「やまと」で事足りる。あえて「大」の字がつくのは「おおやまと」という国号を負っているのである。と述べられ、第4代大日本彦鋤友尊(おおやまとひこすきともみこと)第6代大倭帯日子国押人(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)第7代大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)第8代大日本根子彦牽尊(おおやまとねこひこくるのみこと)を挙げられ、

「やまと」という言葉には二つの意味がある。一つは現在の奈良県地方を意味する地域名。もう一つは、古い時代の日本の国号である。大和魂・大和言葉などはこちらの意味で用いられる。「おおやまと」は後者の意味を明示した使い方である。と説明された後、大倭姫というのは単なる倭の姫というわけではない。国号を負った名前である。

 

亦、記紀や中国史書がどこまで正確に事実を伝えているか保証は無い。とされ、卑弥呼の後に王位に就いた男王が一人であったとは記していないし、倭国の歴代王位を完全に掌握していたかは疑わしい。孝霊・孝元という二代の天皇を認識出来たかである。中国の史書に無いからといって、二代の王位を否定する根拠にはならない。また、日本書紀の欠史八代あたりの系譜伝承には疑問が多く、後に天皇系譜の潤色があるように思われる。と反論されています。

 

わたくしの気に留まったのは、

K―MATさまの指摘である『建諸隅命は丹波大県主由碁理ではない

(桂川さまは、勘注系図に記される建諸隅命の一云「丹波縣主由碁理命」という注記をもって、建諸隅命を由碁理とされます。しかし、崇神天皇の四道将軍派遣までは、丹波はヤマト王権の支配領域ではありませんでした。)の条項です。

 

桂川さまは、次のように述べられています。

(九代開花の妃は丹波大縣主由碁理の娘です。由碁理と言う人物がヤマト王権の支配下の人物であれば、大和王権の支配地が丹波に及ぶのは当然。それとも由碁理はヤマト王権の支配地以外の人物?)

次に、(止羅宿禰が系譜に登場しない理由は不明。系譜編纂者の一人が系譜上で確認できないからと言って偽系図の論証なるのか?)

亦次に、(丹波の大縣主が丹波の系図に登場するのは当然。古事記の由碁理が自分の系譜のどの時代の人かなどと言う事は解らない事である。勝手に創作して適当に由碁理と建諸隅命を結び付けたのでは、系譜の他の部分で破綻をきたす。伝承があったから可能な注記である。次に示すのは氏族同士の婚姻関係である。

「物部氏・葛木氏・尾張氏・紀伊氏・大伴氏・倭氏・三輪氏等婚姻の系図」を掲げられ、

由碁理が建諸隅命という関係を創作したのでは、このような整合性を得ることは不可能である。)

と述べられ、亦々次に、{六世の孫の建田背命(たけだせのみこと)海部直(あまべのあたい)・丹波国造(たんばのくにのみやつこ)・但馬国造(たじまのくにのみやつこ)等の先祖。この人の妹が宇那比姫で押媛の母親。したがって孝安時代の人。押媛は孝安の妃になる。建田勢命が府を置いたとする伝承地がある。京丹後市久美浜海士である。}

 

と、伝承を持ち出し反論をされています。

 

わたくしには、この問題は崇神天皇が奈良県纏向の師木(しき)の瑞垣宮でなくて、九州久留米市城島(しき)大善寺玉垂宮に棲んで居て(天皇屋敷の名が付いた古墳が認められる)、四道将軍派遣をして丹波を平定したもの。と考える事ができる事柄に思えます。

もし、崇神天皇が奈良県纏向の師木の瑞垣宮に居て、大和王朝の王として四道将軍派遣をして、すぐ傍の丹波の支配をしたのであれば、可なり可笑しな、狭い範囲の大和王権であったことになり、多くの研究者の疑問が生じ、共感は得られるものではありません。

崇神天皇は九州に居て、四道将軍派遣と捉えるのが常識でありましょう。もちろん建田背や建諸隅命(由碁理)も九州(豊後)から丹波へ遣ってきたと考えられます。

 

欠史八代の天皇譜の潤色の問題では、

桂川さまは、「倭」と「大倭」の違いを、「倭」は現在の奈良県地方を意味する地域名。「大倭」は、古い時代の日本の国号である。と述べられていますが、

 

わたくしの地由布院の名称は、「栲」(こうぞ)の木の繊維から木綿(ゆふ)を作って居た事から名付けられていると伝わり、機織女(ヒルメ)とは関係を感じられます。

由布院盆地に宇奈岐日女命神社があり、近くの金鱗湖の天祖神社の由緒書には、景行天皇が速見邑の速津媛女首長に天御中主命を祀らせたとあり、(以前の由布院は速見郡に属していましたので、速見邑とは由布院から塚原を通って左は天間・安心院方面へ、右の道を選ぶと、速見・山香・日出方面へ向かう事に成り、そう遠くありません。)

安心院への道には塚原(高天原)があり、傍には天香具山と考えられる鶴見岳があります。

塚原の先にはニニギ命の天孫降臨の時に出てくる『天の八街(あまのやちまた)』と考えられる天間(あまま)地区があり、

安心院には猿田比古神が居たと考えられる佐田京石(さたきょういし)の弥生時代の支石墓群が認められ、

安心院は神武天皇が宇沙津比古命と宇沙津姫命の饗宴を受けた(親であり、大靈命であったと考えられる安曇族の玉依媛を祀る妻垣神社足一騰宮・一柱騰宮があり、

亦、ニギハヤヒ命と一緒に天降った天三降命は豊国宇佐国造の先祖とされ、田心姫命・湍津姫命・市来島姫命の三女神の事であると考えられ、安心院町大字下毛字三柱には之を祀る三女神社(さんみょうじんしゃ)もあります。

後に宗像へ行ったと考えられます。この三女神は宇佐神宮の比咩大神の解釈の根拠とされ、安心院は安曇氏の本貫地であります

 

そして、歴代の天皇が明治以前までは何度も宇佐神宮に参詣されている事実を考えますと(伊勢神宮の参詣は一度もない由)、

 

邪馬台国は、日田・由布院~安心院~院内を含む大分県(福岡県うきは市を含む)で在った事は明白であり、由布院に卑弥呼(宇奈岐日女命)が居たと謂うわたくしの解釈が成り立つのであります。

 

越後の弥彦神社に祀られています天火明命の子である天香語山命(高倉下命)は、此処由布院(邪馬台国)から父、天火明命(ニギハヤヒ命=瓊瓊杵尊=アマテル)と伴に出雲へ天降りされたものと考えるべきであります。

其の後、出雲勢力により近畿~北陸へ移動させられたものと考えられます。日出町に愛宕神社(天香語山命=高倉下)や藤原の地名があり、頭初はこの辺に棲んで居たものと考えられます。

宇佐神宮の社伝では、最初は一之御殿と二之御殿があって、823年(弘仁14年)に三之御殿が出来た。とされ、最初に並んで奉斎されておられた神が研究家の注目を集め、想像では、一人は玉依姫、もう一人は八幡さまの現れる前の古い神様、地主神であったのではなかろうか。とされております。わたくしも、同意で、その後田川・香春に居た辛島氏が息長大姫大目命を宇佐に持ち込み「比咩大神」として、曖昧な神にしたものとも考えられます。

 

もちろん、京都府宮津市の籠(こ・この)神社を造ったとされる宇那比姫命(宇奈岐日女命)の兄である建田背も生まれは由布院(邪馬台国=豊後紀氏)であったと想われます。

 

『紀氏』の源元は、熊本玉名(白日別氏)の阿蘇氏(BC.473年呉の太白)で、阿蘇氏(白日別氏)から、豊後紀氏が派生したのもと考えられます。

 

《その後の考察に拠る追補

わたくしのブログを順に読んで頂ければ解りますが、考えに変化があっております。

K-MATさまの疑義である1、魏志倭人伝の記載を解釈すれば、卑弥呼と台与の間には男王が一人しか記入されていないので、孝安天皇と開花天皇の間の孝霊・孝元天皇の二人の問題を、中国史書をもってその根拠を示すべきである。

は『記紀』の捏造があると考えられ、『再び、彦狭島王を考える。』のブログ考察にて孝霊天皇は彦坐王の事で在ったと考えられ、孝安天皇と開花天皇の間の天皇は孝元天皇のみ。と考えられますので、中国史書が述べています通り一人であると思っています。亦、神武と綵靖も捏造と思われ、存在していないものと考えられます。

比咩大神の解釈は、天之児屋根命=景行天皇=猿田彦=日子坐王の妃に為った豊玉姫=猿女=天宇受賣命=辛國息長大姫大目ウズメ命=阿蘇津姫=龍神姫で有ったと考えられます。

 

《その後の考察による追補2》

百嶋神社考古学研究との整合を図りますと、如何も魏志倭人伝東夷伝の倭国条での卑弥呼は宇奈岐日女(宇那比姫)=天造日女命=伊弉冉尊イサコ=イサハミ姫命=高躬結び神の娘)であったと考えられます。二代目卑弥呼のトヨ壹与がアマテル(瓊瓊杵尊=饒速日命=ホアカリ)の后、13歳の瀬織津姫と、考えられます。

 

アカル姫は博多の大幡主(刺國)=雲南省海南島周辺から遣って来た白族が朝鮮半島の新羅(白)に鉄を求めて進出を図って、嫁に遣られ、逃げ帰ったことに伝承されていますが、

アカルヒメとは、スサノオ(崇神=秋永氏=息長氏)を産んだ玉依姫の事で、アカルヒメの実体は豊玉姫(玉依姫の伯母になります。秋永氏の先祖。)を指します。

アカルヒメは豊後国東半島の姫島に匿われたものと考えられます。この母アカル姫を追って遣って来たのが、天日鉾=スサノオ=崇神=金山(耶馬)彦と謂われています。

スサノオは全国の鉱山を歩き回ったものと考えられます。砂鉄の豊富な出雲杵築に居付き、『天之叢雲剣』を造り、天照=向津姫に献上しています。

この剣は、ホツマ伝では筑紫を治めたカンタチ=神産巣日神=大幡主が、鹿児島県曾於郡の太耳(『弥五郎どん』の先祖と想われます。)=耳族=海南島・雲南省から渡来の娘を娶り、大己貴命=天冬衣神を儲けます。(朝倉市林田余名持で誕生したものと考えられます。余名持地区に数多くある徳永氏と花田氏は大己貴命の末裔か親族と想われます。)

大己貴命と、三女神の長女タケコが儲けた大國主命が刺國若姫(高姫=下照姫=ミホツ姫、このお方が御井神社の祭神=木俣神と、考えられます。)と結婚して、『天之叢雲剣』を持って筑紫を治めて居た。とされ、

豊玉姫(=水波能女命=天鈿女命=猿女)の最初の結婚は山幸彦=彦穂穂出見尊=孝元天皇=崇神が勝手に名乗った神武天皇(彦穂穂出見尊)で、次の結婚が海幸彦(猿田彦=景行天皇=天之児屋根命=長髄彦)であったものと思えます。(百嶋系図では大國主命の父は、大幡主の兄弟の大山祇=月読=兎とされています。)

大己貴命は、朝倉林田余名持→豊後杵築→出雲杵築から青森ツガルへ移動鎮座した。島津氏は大己貴命から派生したと、ホツマツタエは、述べています。

大己貴命の母親は鹿児島曾於郡の太耳の子ですから、島津氏が鹿児島を治めたのは、当然のことでしょう。

徳永家は鹿児島が最も多く在ります。

縄文時代から続いた『三内丸山遺跡』の堀立柱建物跡は、杵築出雲大社で発掘された平安時代~鎌倉時代の巨大建築柱跡は、関係があるのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2 コメント

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あなた様のご意見は (mano)
2019-11-03 07:48:47
何かこじつけばかりで、無理がありすぎるように感じますね。 
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儺の国の星をご存知ですか? (實門原)
2019-11-29 19:18:08
福岡県那珂川市図書館でのみ読める書物で、星の古名を記している貴重な本です。
考察の補完をする発見が多いと思います。
是非ご覧いただきたい。
また、日田の剣根命=葛城直についても考察をお聞きしたいです。
大分県は全国で大阪府についで葛城姓の多い土地です。
筑後、佐賀には一言主を祭った葛城神社がいまだ残されます。
大宰府の長官は奈良以前「葛城の帥」と呼ばれていた事実もあります。
葛城とは何なのでしょうか?
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