最近、多祁理比賣命の人生を考えています。
このお方は、須佐之男命と天照大神の間に高天原(木綿の院)で生れて、須佐之男命の追放の後、由布院(高天原)より天降りを余儀無くされ、安心院~宇佐より宗像(刺国)の上八(八上)へと渡り、成長を遂げた後、甘木にて、(豊国を治めていたと考えられます少日子名命)と一緒に、筑紫治めて居た大己貴命と結婚をします。
阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)や下照比賣命を儲けて幸せな人生を送って居ましたが、須佐之男命の取り巻き新羅人の叛乱にて、高御産巣日神(朝倉)・和邇氏(田主丸)より、『大己貴命』が『大物主』に選ばれ、須佐之男命派新羅人と戦います。この須佐之男命(崇神)派の叛乱にて大戦乱が起きたものと考えられます。
{高良山から飛んできた石礫(いしつぶて)が基山の荒穂神社(五十猛命)にあり、高良神社(高木神)の床下には基山から飛んだ石礫(いしつぶて)がある由。と荒穂神社の由緒に記入されています。}
次第に戦況が悪くなり、高天原(木綿の院)の戦いの敗北を経て杵築の大屋毘古命を頼った後、船で四国伊予へ逃げます。
大己貴命一行は途中で日出町大神に在ります愛宕神社(高倉下)にて復権祈願を行い、須佐之男命の『ムラ雲の剣』を奉納したものと考えられます。(この『ムラ雲の剣』は其の後、垂仁天皇の子である若木入日子(神武天皇)が杵築熊野にて病に臥せった時、再び登場します。)
大勢の大己貴命一行は、多祁理比賣命の父である須佐之男命を頼って出雲に渡りますが、夫である大己貴命は、須佐之男命と櫛名田比賣命との間に出来た嫉妬心の強い須勢理比賣命を娶って、地位の安泰と出雲に根付く事を図り、多祁理比賣命の元に来なくなったものと考えられ、失望した多祁理比賣命は阿遅志貴高日子根命(迦毛大神)と下照比賣命を出雲に置いて倭(九州)へ帰った。と、記されています。
倭(九州)には大己貴命や多祁理比賣命への同情者が多く、天之穂日命・天若日子命が高木神の「國譲りの交渉の使者」として出雲に遣わされますが、前者は三年・後者は八年経っても仕事をしていません。
多祁理比賣命の生涯はこの様な激動の人生で有ったものと観えて来ます。
その後の多祁理比賣命は、一生を、故郷である『宇佐安心院』にて閉じたものと考えられます。
出雲大社の本殿の『大己貴命』は、西向きに坐しておられ、『大己貴命』の北部九州(倭)への思い入れが心に痛みます。
『大己貴命』は、その後は出雲から青森 ツガルへ移動したと、ホツマ伝で述べられています。
後に、その『多祁理比賣命』の心情を察して五十猛命の末裔の辛島氏が「宇佐神宮」にて『比賣大神』として祀ったものと感じられます。 合掌。
そういえば、二拝四拍手一礼の参拝の方法は、宇佐神宮も出雲大社も同じだったですね。此れも関係が有りそうです。
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