以前読んだ「知的複眼思考法」の苅谷剛彦氏の関わっている著作ということで手にとりました。
この本を読むまでは大村はま氏については全く存じ上げなかったのですが、(本書を読んで)自らの信ずる教育方針の実践者としてすばらしい方だと思いました。もちろん私は教育関係の専門家ではありませんので、その教育方法等についての是非を判断する資格はありませんが、少なくとも私にとって共感できる点が数多くありました。
大村氏の人柄については、この本のあとがきに全て表れているようです。素直に感動できる「あとがき」でした。
この本に書かれている中で「読書」に関する部分を御紹介します。
大村氏は中学校の国語教師としてご活躍されたのですが、その大村流「読書生活の指導」の一部です。
(p100より引用) 自分から能動的に読んでいく。ただ受身になって読んで理解するのではなくて、自分の思考をフルに関わらせながら読んでいく、そのための訓練でもあったわけです。
てびきには、1から20ぐらいの番号をふって、発想を誘う短いことばが書いてあります。
そして、以下が大村氏作成の「てびきプリント」の例です。
- これは問題だ。考えてみなければならない。
- これはおもしろいことだ、もっと調べてみたい。
- ほんとうに? それでは考えてみなければならない。
- そうだったのか、それでは、これはどうなのだろう。
- これはおどろいた、どうしてだろう。
- そうだとすると、こういうことを考えなければならない。
- 前から聞いていたことだけど、やっぱりそうか。考えてみなければいけないことだ。
- ほんとにこのとおりだ、どう考えたらいいか。
- これは、真剣に考えてみなければならない重大なことだ。
- ほんとうに、これはおかしい、へんだ。考え直さないといけないことだ。
- これは信じられないことだ。もっと調べてみたい。
- そうだ、これはやめなければいけない。では、どうすればいいか。それが問題だ。
- こんな一面があるのか、うれしいような気がするが、考えてみなければならない。
- この点は、ひとつ、みんなで話し合いたい。
- これは、自分への宿題です。これからおおいに調べたり、考えたりしてみます。
- こういう本があったら読みたい。
こういった「てびきプリント」を横において、それを時折確認しながら、生徒は本を読むのです。
(p103より引用) 子どもに向かって、丁寧に読みなさい、詳しく書きなさい、深く話し合いなさいなどといって命令するだけでは、専門家としての教師の仕事ではない。それがちゃんと実現するようなてびきを教師はすべきだと私は思っていますが、てびきというのはそういうことです。それをしないで命令や解説をするだけでは、教えたことにならない。
安易な「こどもの自主性重視」とは明らかに一線を画す指導法です。
しかし、これはものすごくエネルギーを要します。生半可な気持ちではできることではありません。大村氏はそれを生涯実践し続けたのですから。
(p145より引用) たとえば、自由題の作文を書かせるといったときに、そこにいる全部の子どものために、それぞれ、これをやったらどうかという腹案を持っていない教師がいたとしたら、怠慢だと思いますよ。腹案を持っている人が、相手をしっかり見ながらヒントを出していくと、詰め込むといった行きすぎは起こらない。
昨今のビジネス書で言われている「コーチング手法」が表層的に思えてくるコメントです。
もうひとつ、この本から、私にとって「目から鱗」の気づきをいただきました。
(p104より引用) てびきには、ほとんど同じような内容が違うことばづかいで書いてあったりもしました。それで一度、先生にこれとこれはどう違うんですかって聞いたことがある。そうしたら先生は笑いながら、違わないのよって。でもあなたにはこっちでピンとくるかもしれないけど、こっちのほうがピンとくる人もいるのだから、自分にとって合っているほうでいいのだとおっしゃった。
「ロジカルシンキング」ではよくMECE(Mutually Exclusive collectively Exhaustive:お互いに重複がなく、全体として漏れがない)ということが呪文のように言われるのですが、(もちろん、その重要性を否定するものではありませんが、)「妄信」は禁物だということです。
大村はま氏・苅谷剛彦氏・夏子氏、各著者間の「共振」が感じられる本でした。
そこから生まれてくる学習環境。
これはコーチングです。
表面的にとらえられている“コーチング”ではなく。
「教えること」=非コーチング
というのも世に広がりつつある誤解です。
いま相手が何を求めているのか、
自己の可能性の扉を開くために
どのように接すればよいのか。
それを見極め、相手との関係を
築き上げることが、真のコーチ
役の仕事です。
それをティーチャーと呼ぶか、
インストラクターと呼ぶか、あるいは監督と呼ぶか・・・は、さして重要な問題ではないのですが。