日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー21 ( 長州藩尊攘派の誕生 )

2008-05-11 00:22:01 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】

すごい先生たち-21

田中河内介・その20 (寺田屋事件ー9)


外史氏曰

長州藩と志士団の連携

 今回の京都挙兵には、志士団や薩摩の尊攘激派と共に 長州藩の大勢力も参加準備を進めているのだ!

 本題に入る前に、長州藩内に松蔭門下の尊攘派が台頭してきた経過を簡単に見てみたい。

 長州藩の雄藩への仲間入りは、他の雄藩より随分と遅く、長井雅楽の航海遠略策によって、やっと雄藩へと変貌をとげていくことになる。 しかもそれは桜田門外の変以後のことである。
 長州藩は他藩とは異なり、藩主の顔よりも藩士の顔がよく目立つ藩である。 長州藩主はその折々の藩政の執行部の意見を入れた。

 桜田門外の変で井伊政権が崩壊した後、幕府の権威が急速に弱体化し始め、一種の権力の空白状態が生れた。 朝廷は政治的威信を併せ持ち始め、その権威が増大して来る。 安政の大獄で引退した有志大名たちはまだ引退したままである。 そのような状況下、天皇への忠誠を起動力として、志士たちの公然たる実力による行動が始まる。 尊王攘夷運動の誕生である。
 しかし、やがて有志大名の復権がなされ、雄藩の行動が活発化して来ると、公武合体運動と尊王攘夷運動との相克の時代が始まることになるが、それはもう少し先の事である。


長州藩尊攘派の誕生・松蔭門下の尊攘の行動が始まる

 尊王攘夷運動と幕府との対立を解消しようとして生まれたのが 公武合体論である。 朝廷の伝統的権威を受け入れ、それとむすびつくことにより弱体化してきた幕藩体制を再強化しょうという策謀は、皇女和宮の降嫁問題となってあらわれた。

 時を同じくして、長州藩から 「 航海遠略策 」 という結論的には 公武合体論を支援する提案が出された。 藩の直目付・長井雅楽(ながいうた)   が上申したものである。
 文久元年五月、長井雅楽が上京して、この建白書を朝廷に提出した。 公武合体運動の始まりである。
 朝廷はこの建白を容れた。 長井は江戸に赴いて同様の事を建議した。 安藤と久世の幕政は、長井に期待をよせた。
 この 「 航海遠略策 」 は、側面から公武合体を強力に推進する役目を持ち、同時に尊攘運動の足を引っ張ることにもなる。 これが尊攘運動の先頭に立とうとしている長州から出されたということで、水戸をはじめとする各地の志士たちから長州に対して強い非難の声が上がった。 久坂や木戸などの長州の松蔭門下の志士達は困惑した。
 
 ときに、島津久光の卒兵上京を機に京都には尊攘の志士たちが結集し始めていた。 京洛の地は、薩摩藩の声威が長州藩を圧し始めた。 それにあせりを感ずれば、それは長井への反感となった。 長井を失脚させなければと、長井の暗殺計画まで出るほどの騒ぎとなった。


藩論転換・尊攘派が藩の実権を握る

 文久二年正月十五日の坂下門外の変は、長井の公武周旋の勢いを確かに鈍らせたが、そのことも、孝明天皇の攘夷という基本線が変わらないということが確認されるにおよんで、あっさり航海遠略策は廃案となり、文久二年七月六日、長州藩の藩是は尊王攘夷論へと一大転換をみた。
 長井雅楽は失脚し、翌文久三年二月六日、命ぜられて自刃した。 四十五歳であった。
 その後 長州藩は、藩の外交指導を尊攘派に委ねた。 この時点の長州藩の志士は尊攘派の代名詞であり、長州はその拠点でもあった。 そして、この事は長州藩のその後の進む方向をも決定付けた。



ここから本題に入る

 薩摩藩とヘゲモニー( 時勢指導権 )争奪戦を演じて来た長州藩にとって、今回の薩摩の島津久光の卒兵上洛は、勤王運動で薩摩藩に対抗意識を持つ長州藩に強い衝撃を与えた。 長州藩内では上下力を合わせ猛烈なる対抗策を開始した。

                つづく 次回


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