【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-20
田中河内介・その19 (寺田屋事件ー8)
外史氏曰
薩摩藩精忠組激派の大坂集結
ここで、後に何かの参考にでもなると思うので、大坂に集結した薩摩藩精忠組の激派と、その計画に賛同した大坂残留組藩士の具体的な氏名( 魚太組および大坂残留組 )を挙げて整理しておく。
【 魚太(うおた) 組 】
江戸詰
江戸の薩摩藩邸を半ば公然と抜け出し、大坂に来た柴山愛次郎・橋口壮助らの後を追うように、精忠組激派の以下の七人が大坂へ参集し、蔵屋敷を避けて柴山らと共に中之島の旅館魚屋(うおや)太平方に宿していた。当初、柴山らは江戸での決起を考えていたが同志が集まらず大坂に来たのである。彼らは久光の上洛を待ち、田中河内介らと共に決起しようとしていた。なかでも柴山愛次郎と橋口壮助は勤王党諸派間の連絡係を自ら引き受け活躍していた。
橋口伝蔵兼備 ( 寺田屋事件で死亡。三十二歳。後の樺山資紀海軍大将の兄 )
弟子丸(てしまる) 竜助方行 ( 寺田屋事件で死亡。二十五歳 )
西田直五郎正基 ( 寺田屋事件で死亡。二十五歳 )
木藤市助
伊集院兼寛 ( 後に貴族院議員・子爵 )
河野四郎右衛門
永山弥一郎 ( 西南戦争の薩軍三番大隊長で戦死。四十歳 )
国元残留
久光の従兵千人の選に漏れた国元残留の精忠組からも、以下の六人が脱藩・上坂し、同じ魚屋へ宿していた。
なかでも森山は久光の行列に加えられる事を望んだが、許されず、自分の才覚と費用で 国を出て大坂に着いた情熱の士である。 【 寺田屋事件で死亡。 それを知った父森山新蔵( 四十二歳 ) は山川港の船中で絶望憤慨して自刃したことは、前述した 】
森山新五左衛門永治 ( 寺田屋事件で死亡。二十歳。森山新助の長男 )
山本四郎義徳 ( 寺田屋事件で死亡。四十歳 )
大脇忠左衛門
坂本彦左衛門
美玉三平 ( 本名・高橋祐次郎、後に生野義挙で戦死。四十二歳 )
指宿三次
これらの薩摩藩士に 日向・佐土原の脱藩者・富田孟(もう)次郎、池上隼(はや)之助を加えた合計十七人を 魚太(うおた)組 と言った。
これら魚太組の面々は、薩摩藩蔵屋敷に残留を命じられた随従藩士で、精忠組過激派の考えに同調した者や、二十八番長屋の浪士団と連絡を取り合い、挙兵の計画を練っていた。
【 大坂残留藩士 】
久光に薩摩から随従してきた藩士で、大坂残留を命ぜられた藩士の中には、以下の十五人が精忠組過激派の主張に共鳴し、即時、挙兵討幕運動に踏み切ることに賛成していた。
【 これより以前、精忠組の勢力の拡大を無視出来なくなった久光は、精忠組から抜擢をはかり、大久保を小納戸(こなんど) 役( 側用人 )に、吉井友実と有村俊斎を 徒(かち)目付 に任命すると共に、その思想が純粋で過激な者を、教職に縛り付けておくため、有馬新七を造士舘訓導( 教授 )、柴山愛次郎と橋口壮助を糾合方(きゅうごうかた)( 図書係 ) に任命していた。 一方、有馬新七を中心に柴山愛次郎、橋口壮助、田中謙助の学校関係者の四人は結盟していたので、この精忠組過激派は、造士舘党とか学校派とも呼ばれている 】
大山弥助 ( 後の巌、陸軍大将元帥・公爵 )
柴山竜五郎 ( 後の景綱、警視庁大警部 )
是枝万助 ( 竜五郎の実弟・田中河内介父子の刺殺者 )
岩元勇助
白石(有馬)休八
谷元兵右衛門
深見休蔵
三島弥兵衛 ( 後の通庸、警視総監 )
吉田清右衛門 ( 後の清基 )
林正之進
岸良三之介
橋口吉之丞
篠原冬一郎 ( 後の國幹・薩軍一番大隊長となり戦死。四十二歳 )
吉原弥二郎 ( 後の重俊・日本銀行初代総裁 )
西郷信吾 ( 西郷隆盛の三弟の従道・海軍大臣・侯爵 )
彼らは西郷隆盛への帰国命令に抗議し、小松、中山ら久光側近に詰め寄ったが、既に西郷を乗せた船は出航した後で、後の祭りであった。 その上、久光の朝廷建議の内容が、彼らの予期せぬ内容であることに驚き、積もる不満が一気に爆発し、造士舘党や河内介ら過激派の挙兵計画へ急速に接近していった。
つづく 次回
すごい先生たち-20
田中河内介・その19 (寺田屋事件ー8)
外史氏曰
薩摩藩精忠組激派の大坂集結
ここで、後に何かの参考にでもなると思うので、大坂に集結した薩摩藩精忠組の激派と、その計画に賛同した大坂残留組藩士の具体的な氏名( 魚太組および大坂残留組 )を挙げて整理しておく。
【 魚太(うおた) 組 】
江戸詰
江戸の薩摩藩邸を半ば公然と抜け出し、大坂に来た柴山愛次郎・橋口壮助らの後を追うように、精忠組激派の以下の七人が大坂へ参集し、蔵屋敷を避けて柴山らと共に中之島の旅館魚屋(うおや)太平方に宿していた。当初、柴山らは江戸での決起を考えていたが同志が集まらず大坂に来たのである。彼らは久光の上洛を待ち、田中河内介らと共に決起しようとしていた。なかでも柴山愛次郎と橋口壮助は勤王党諸派間の連絡係を自ら引き受け活躍していた。
橋口伝蔵兼備 ( 寺田屋事件で死亡。三十二歳。後の樺山資紀海軍大将の兄 )
弟子丸(てしまる) 竜助方行 ( 寺田屋事件で死亡。二十五歳 )
西田直五郎正基 ( 寺田屋事件で死亡。二十五歳 )
木藤市助
伊集院兼寛 ( 後に貴族院議員・子爵 )
河野四郎右衛門
永山弥一郎 ( 西南戦争の薩軍三番大隊長で戦死。四十歳 )
国元残留
久光の従兵千人の選に漏れた国元残留の精忠組からも、以下の六人が脱藩・上坂し、同じ魚屋へ宿していた。
なかでも森山は久光の行列に加えられる事を望んだが、許されず、自分の才覚と費用で 国を出て大坂に着いた情熱の士である。 【 寺田屋事件で死亡。 それを知った父森山新蔵( 四十二歳 ) は山川港の船中で絶望憤慨して自刃したことは、前述した 】
森山新五左衛門永治 ( 寺田屋事件で死亡。二十歳。森山新助の長男 )
山本四郎義徳 ( 寺田屋事件で死亡。四十歳 )
大脇忠左衛門
坂本彦左衛門
美玉三平 ( 本名・高橋祐次郎、後に生野義挙で戦死。四十二歳 )
指宿三次
これらの薩摩藩士に 日向・佐土原の脱藩者・富田孟(もう)次郎、池上隼(はや)之助を加えた合計十七人を 魚太(うおた)組 と言った。
これら魚太組の面々は、薩摩藩蔵屋敷に残留を命じられた随従藩士で、精忠組過激派の考えに同調した者や、二十八番長屋の浪士団と連絡を取り合い、挙兵の計画を練っていた。
【 大坂残留藩士 】
久光に薩摩から随従してきた藩士で、大坂残留を命ぜられた藩士の中には、以下の十五人が精忠組過激派の主張に共鳴し、即時、挙兵討幕運動に踏み切ることに賛成していた。
【 これより以前、精忠組の勢力の拡大を無視出来なくなった久光は、精忠組から抜擢をはかり、大久保を小納戸(こなんど) 役( 側用人 )に、吉井友実と有村俊斎を 徒(かち)目付 に任命すると共に、その思想が純粋で過激な者を、教職に縛り付けておくため、有馬新七を造士舘訓導( 教授 )、柴山愛次郎と橋口壮助を糾合方(きゅうごうかた)( 図書係 ) に任命していた。 一方、有馬新七を中心に柴山愛次郎、橋口壮助、田中謙助の学校関係者の四人は結盟していたので、この精忠組過激派は、造士舘党とか学校派とも呼ばれている 】
大山弥助 ( 後の巌、陸軍大将元帥・公爵 )
柴山竜五郎 ( 後の景綱、警視庁大警部 )
是枝万助 ( 竜五郎の実弟・田中河内介父子の刺殺者 )
岩元勇助
白石(有馬)休八
谷元兵右衛門
深見休蔵
三島弥兵衛 ( 後の通庸、警視総監 )
吉田清右衛門 ( 後の清基 )
林正之進
岸良三之介
橋口吉之丞
篠原冬一郎 ( 後の國幹・薩軍一番大隊長となり戦死。四十二歳 )
吉原弥二郎 ( 後の重俊・日本銀行初代総裁 )
西郷信吾 ( 西郷隆盛の三弟の従道・海軍大臣・侯爵 )
彼らは西郷隆盛への帰国命令に抗議し、小松、中山ら久光側近に詰め寄ったが、既に西郷を乗せた船は出航した後で、後の祭りであった。 その上、久光の朝廷建議の内容が、彼らの予期せぬ内容であることに驚き、積もる不満が一気に爆発し、造士舘党や河内介ら過激派の挙兵計画へ急速に接近していった。
つづく 次回