【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-22
田中河内介・その21 (寺田屋事件ー10)
外史氏曰
長州藩の薩藩対抗策
【挙兵参加を目指した藩士の上京】
久光の卒兵上洛を察知した長州藩は、その情報の中味を確かめるため八方手を尽した。来原と堀を薩摩にやったり、下関で薩摩藩士との接触を試みたり、下関に来た西郷自身からも直接に聞いたりした。
薩摩に派遣した来原と堀の帰国報告により、薩摩藩の意図を大体察知した段階で長州藩庁は、隠退した元家老の浦靫負(うらゆきえ)(六十八歳)を再起用した。浦は四月六日、藩士一〇〇余人を率いて出立し京に向かった。そして四月十七日に伏見に到着した。
また、これと相前後して、主として松蔭門下生を中心とする若い長州藩士たちも上京していった。
久坂玄瑞 (二十五歳。禁門の変で戦死。高杉と松門の双璧)
寺嶋忠三郎 (二十二歳。禁門の変で戦死。)
入江九一 (二十八歳。禁門の変で戦死。奇兵隊参謀。松門の俊才)
品川弥二郎 (松門の俊才。農商務大輔、独逸公使、内相、枢密顧問官)
山県狂介(有朋) (松門の俊傑。奇兵隊軍監、陸軍卿参議、首相)
佐世八十郎(前原一誠) (松門の俊傑。北越軍参謀、越後府判事、参議兵部大輔。
萩の乱首魁)
楢崎弥八郎
ここに寺田屋事件の全メンバーの京坂集結が完了したことになる。
江戸時代を通じて最初の討幕挙兵になる京都義挙の全ての役者は、これで出そろった!
【河内介ら志士団への軍資金の援助】
義挙といえども、金がなくては何も出来ない。浪人の身分では特に切実な問題である。田中河内介は西下するにその費用もなくて出発できなかったぐらいであった。大坂薩摩藩邸にいれば、最低寝食は保障されるであろうが、義挙ともなると軍資金がいる。武器もそろえねばならない。それに人数も多数である。金がなければ一日たりとも志士団を保持出来るものでない。この軍資金が長州藩から出たという説がある。
大坂の長州藩邸にいた久坂玄瑞を中心とする二十名ほどの長州過激派の藩士たちは、当時、同藩邸内に寄食していた土佐脱藩浪士吉村虎太郎を通じて、二十八番長屋の志士団、薩摩藩激派などと常に連絡を取り合っていた。
吉村虎太郎は、文久二年二月、土佐勤王党の首領・武市半平太の特命を受けて、萩城下で久坂玄瑞らと会談して以来、長州藩との関係が大変良好であった。
寺田屋事件から一年半後に起こる天忠組の乱の時、長州藩からの軍資金が吉村虎太郎を通して隊員に流れていた事を考えると、長州藩からの資金が志士団に流れた可能性はほぼ間違いないといえるだろう。
元来、日本では政治的行動をとるにはお金がかかりすぎる。上洛するにしてもその根回しに莫大なお金が要る。軍を動かすにも莫大なお金がかかる。それも多人数ともなると、一日駐屯させるにも維持費は大変なものである。 薩・長たりとも資金がなければ何事も出来ない。
かって両藩は全国に名だたる貧乏藩であった。破綻状態の財政を救ったのは両藩とも幕末の藩政改革である。そして、方や琉球を通じての密貿易、貨幣の密鋳、黒砂糖の専売など。 そして方や対馬を通じての密貿易も財政に寄与した。 そして得た豊富な資金をこれらの政治活動や軍備の充実に活用した。
【臨機応変に対処出来る体制づくり】
薩摩藩は藩主の実父久光が陣頭指揮している。そして久光は今や大藩を自由に動かせる立場である。京において何事も即断即決、臨機応変に対処出来る。
それに比べて長州藩は、元来、その行動が鋭敏であったのが、今回ばかりは何とも緩慢であった。それは長井雅楽の「航海遠略策」 を、藩が提案していたということも少しは影響を与えたかも知れないが、何よりも藩主父子(藩主敬親と世子定広) が、その時は二人とも江戸にいて、京都にいなかったという事が大きく原因していた。 これでは何事も即断即決、臨機応変にという訳にはいくまい。
そこで、父子のどちらかに至急上洛してもらうことを希望した。藩主は参勤交代中で難しいので、世子の帰国を強く願い、幕閣はこれを渋々許可した。世子定広は四月十三日に急ぎ江戸を出発して京都に向かった。
長州藩の薩摩対抗策は種々打たれたが、最後の極めつけというところで、世子定広の上洛ということになった。いよいよ薩・長両藩の両横綱がそろうということになり、それ以後は、薩・長 四つに組んだ凄まじい政局主導権争奪の闘いが本格的に開始されることになる!
つづく 次回
すごい先生たち-22
田中河内介・その21 (寺田屋事件ー10)
外史氏曰
長州藩の薩藩対抗策
【挙兵参加を目指した藩士の上京】
久光の卒兵上洛を察知した長州藩は、その情報の中味を確かめるため八方手を尽した。来原と堀を薩摩にやったり、下関で薩摩藩士との接触を試みたり、下関に来た西郷自身からも直接に聞いたりした。
薩摩に派遣した来原と堀の帰国報告により、薩摩藩の意図を大体察知した段階で長州藩庁は、隠退した元家老の浦靫負(うらゆきえ)(六十八歳)を再起用した。浦は四月六日、藩士一〇〇余人を率いて出立し京に向かった。そして四月十七日に伏見に到着した。
また、これと相前後して、主として松蔭門下生を中心とする若い長州藩士たちも上京していった。
久坂玄瑞 (二十五歳。禁門の変で戦死。高杉と松門の双璧)
寺嶋忠三郎 (二十二歳。禁門の変で戦死。)
入江九一 (二十八歳。禁門の変で戦死。奇兵隊参謀。松門の俊才)
品川弥二郎 (松門の俊才。農商務大輔、独逸公使、内相、枢密顧問官)
山県狂介(有朋) (松門の俊傑。奇兵隊軍監、陸軍卿参議、首相)
佐世八十郎(前原一誠) (松門の俊傑。北越軍参謀、越後府判事、参議兵部大輔。
萩の乱首魁)
楢崎弥八郎
ここに寺田屋事件の全メンバーの京坂集結が完了したことになる。
江戸時代を通じて最初の討幕挙兵になる京都義挙の全ての役者は、これで出そろった!
【河内介ら志士団への軍資金の援助】
義挙といえども、金がなくては何も出来ない。浪人の身分では特に切実な問題である。田中河内介は西下するにその費用もなくて出発できなかったぐらいであった。大坂薩摩藩邸にいれば、最低寝食は保障されるであろうが、義挙ともなると軍資金がいる。武器もそろえねばならない。それに人数も多数である。金がなければ一日たりとも志士団を保持出来るものでない。この軍資金が長州藩から出たという説がある。
大坂の長州藩邸にいた久坂玄瑞を中心とする二十名ほどの長州過激派の藩士たちは、当時、同藩邸内に寄食していた土佐脱藩浪士吉村虎太郎を通じて、二十八番長屋の志士団、薩摩藩激派などと常に連絡を取り合っていた。
吉村虎太郎は、文久二年二月、土佐勤王党の首領・武市半平太の特命を受けて、萩城下で久坂玄瑞らと会談して以来、長州藩との関係が大変良好であった。
寺田屋事件から一年半後に起こる天忠組の乱の時、長州藩からの軍資金が吉村虎太郎を通して隊員に流れていた事を考えると、長州藩からの資金が志士団に流れた可能性はほぼ間違いないといえるだろう。
元来、日本では政治的行動をとるにはお金がかかりすぎる。上洛するにしてもその根回しに莫大なお金が要る。軍を動かすにも莫大なお金がかかる。それも多人数ともなると、一日駐屯させるにも維持費は大変なものである。 薩・長たりとも資金がなければ何事も出来ない。
かって両藩は全国に名だたる貧乏藩であった。破綻状態の財政を救ったのは両藩とも幕末の藩政改革である。そして、方や琉球を通じての密貿易、貨幣の密鋳、黒砂糖の専売など。 そして方や対馬を通じての密貿易も財政に寄与した。 そして得た豊富な資金をこれらの政治活動や軍備の充実に活用した。
【臨機応変に対処出来る体制づくり】
薩摩藩は藩主の実父久光が陣頭指揮している。そして久光は今や大藩を自由に動かせる立場である。京において何事も即断即決、臨機応変に対処出来る。
それに比べて長州藩は、元来、その行動が鋭敏であったのが、今回ばかりは何とも緩慢であった。それは長井雅楽の「航海遠略策」 を、藩が提案していたということも少しは影響を与えたかも知れないが、何よりも藩主父子(藩主敬親と世子定広) が、その時は二人とも江戸にいて、京都にいなかったという事が大きく原因していた。 これでは何事も即断即決、臨機応変にという訳にはいくまい。
そこで、父子のどちらかに至急上洛してもらうことを希望した。藩主は参勤交代中で難しいので、世子の帰国を強く願い、幕閣はこれを渋々許可した。世子定広は四月十三日に急ぎ江戸を出発して京都に向かった。
長州藩の薩摩対抗策は種々打たれたが、最後の極めつけというところで、世子定広の上洛ということになった。いよいよ薩・長両藩の両横綱がそろうということになり、それ以後は、薩・長 四つに組んだ凄まじい政局主導権争奪の闘いが本格的に開始されることになる!
つづく 次回