日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー110 ( 頼山陽・伝記ー2 ・修史の志 )

2009-04-16 15:04:33 | 幕末維新
田中河内介・その109 


外史氏曰

【出島物語ー21】

頼山陽ー2

志の醸成 ( 修史の大業 )

 満十二歳のとき 「 十有三春秋・・・・ 」 の詩を詠んだことでも明かなように、歴史に名を残せるような立派な人物になりたいという覇気を強く抱いていた山陽は、青年期に入り、諸書を博綜 (はくそう) し、また、十八歳の 寛政九年( 一七九七 ) には、江戸詰になった叔父の杏坪 (きょうへい) に従って江戸に出て、昌平坂学問所で学びました。
 山陽は、このような経験を通し、大義に根ざした国史を編むことによって、君臣の名分の乱れを正し、国歩を善導したいと思うようになりました。 つまり、その中で、自己の見識を縦横に開陳し、それにより 天下後世に、世道人心を補い輔けたいと思ったのです。

 寛政九年、東都に遊学した山陽は、遊学中に、将軍 家斉時代に端を発した幕府の頽廃堕落と 江戸という都会の退廃の様を 目の当たりに見て、失望し 深く感じるものがあったのでしょう。 また、当時の儒学は 湯島の聖堂 すなわち 昌平坂学問所 ( 昌平黌 )を最高学府としていましたが、そこには儒教に心酔する余り、支那あるを知って 皇国の尊厳を忘れている風潮があり、また 学問の内要が、経典の訓古註釈を主とするものであったので、昌平黌にも失望したのでしょう。 いったい山陽は、一生を通じて 経典には重きを置いていません。  山陽における学問の二大柱は、大局・大義に通ずることと、実用に適することでした。
 ちなみに この時から大分後のことになりますが、安政元年、二十五歳の 清河八郎も 同じく昌平黌に入学しましたが、その学風に失望して 早々と退学しています。

 山陽は 翌年には、叔父杏坪の帰国に合わせて、江戸遊学を 早々と切り上げて 帰国の途についています。 そして 西帰の途上、京都御所を拝み、また、東都遊学の途上 訪れた湊川の楠公墓を 再び訪れては、万斛(ばんこく) の涙を注ぎました。 おそらく山陽は、東都遊学によって、幕府の驕侈 (きょうし) を憎み、朝廷の式微 (しきび) を憂い、君臣の名分の乱れを嘆いて、 純粋無二の勤皇論を抱懐させたのでしょう。
 このことは、かって 晩年の山陽と交わり、また山陽の三男・頼三樹三郎と同志で、安政の大獄に連座した 三國(みくに)大学 ( 鷹司家儒士 ) が、明治になってから 中川克一に語った内容からでも想像がつきます。
 それによりますと、山陽が江戸で目撃したものは、江戸城の広大にして、その城門巍闕(ぎけつ)( 宮門の高大 )に過ぎ、上野、芝の家廟( 寛永寺、増上寺 ) は 金碧をちりばめている。 徳川氏の僭越、これに過ぎたるはなしと 憤慨して曰く、 「 江戸は穢土 (えど) である。 江都 (えと) に非ず、潔士 (けっし) の長く身を置く所ではない 」 と、慨然として 帰心を催したというのです。 ( 中川克一 『 山陽外史 』 )

 山陽の東都遊学のときからは 話は少し下りますが、頼三樹三郎 ( 一八二五 ~ 一八五九、安政の大獄で刑死 ) も、十九歳の 天保十四年( 一八四三 )、同じく東都に遊学し、昌平坂学問所に入りました。 しかし、徳川幕府に対して憤慨の念 おさまらず、上野の寛永寺にある徳川家の石灯籠を押倒したため、弘化三年( 一八四六 )三月二十日、昌平坂学問所を退校させられています。 おそらく、三樹三郎も 江戸において、かっての 父 山陽と同じような気持を抱いたのでしょう。
 この三樹三郎は、安政の大獄で、安政六年( 一八五九 )十月七日、辰ノ口の評定所で死罪を宣告され、その日に伝馬町獄で斬首されましたが、彼は評定所での取り調べにおいても、日頃の昂然たる態度を失わず、堂々と所信を表明しています。

 『 補修 殉難録稿 』  には、その時のことが 次のように記されています。

      ・・・江戸なる評定所にて 有司ども、 「 汝、処士の身にして、国政を謗議する事、 
      いかなる子細にか 」 など、さまざま鞫問 (きくもん) せしに、答へて言うよう、
      「 某 (それがし) 尊皇攘夷の議を唱へ、朝廷の旨を奉戴し、同志の士を語らいしは、
      父祖相伝の家訓なり。 抑事の利害はさて置き、朝旨に背(そむ) くものは これを賊臣と
      いふ。 某 (それがし)、 不肖なりと雖も、家訓を忘れ 賊臣となるものにはさむらはず 」
      と いふ。 「 されば 一橋刑部卿 (きょうぶきょう) ( 慶喜 ) をもて、幕府の世継に
      しまいらせんとの企ては、いかに 」 と 問ふに、 「 某 (それがし) は 朝旨を奉ずるの外、
      他事を辧 (わきま) へず。 幕府の世継なんぞ、いかであづかり知り候べき 」 と
      申しゝかば、「 猶 (なお) 又 尋ね問うべき事 あるべし 」 とて、 高橋、伊丹、山田の
      ともがらと、福山藩邸に預けらる。

 これこそ 父 頼山陽の尊王思想を 最も純粋な形で引き継ぎ、時代の魁 (さきがけ) となったことを端的に示した 三樹三郎の言葉ではありませんか。

 時代・時勢は 人をつくるとも申します。 時代の魁たる気概あるの人物の子孫は、その時の時勢を捉まえ、身を挺して時代に棹差すものです。 確固たる家訓、あるいは 思想の その子孫へ伝播したるものは、混乱を深め急変する時代の変革期、国難至る時には、その思想は行動へと変容し、身を挺して時代の魁を果たすことが多いのです。 その意味で 時代が人をつくると 申してもよいと思います。 春水 ―山陽 ―三樹三郎 と続く頼家の場合も、幽谷 ―東湖 ―小四郎 と続く 水戸に於ける 藤田家の場合も しかりです。

 京と江戸の双方を 見るという経験から、勤皇論を抱懐した人物は、山陽の外にも多くいます。 中でも 幕末の志士、梅田雲浜 (うめだうんぴん) や平野國臣 (ひらのくにおみ) などはその最たる例です。 そこで、この両者については、後に 少し触れたく思っています。


修史は不遇の産物

 修史 ( 歴史を撰述すること ) は、不遇の産物 と言われています。 
 安藤英男 ( 一九二七 ~ 一九九二 ) は、 その著書   『 頼 山陽傳 』 の中で、この事に関して次のように述べています。

      『 およそ人生にとって 最も欣快 (きんかい) とするところは、志を得て国政の要路にあたり、
      国歩を善導することであろう。 これこそ万民の踏むべき方向を、その最大幸福につなげる
      もので、人生これに勝る喜びはない。 しかし、天下太平の時代、封建秩序が厳然と
      備わっているとき、いかに勝れた見識をもち、決断も勇気も万人に勝れていたとしても、
      門地、門閥に生まれ合わせなければ、その資質を用いるすべはあるまい。
       この故に、古今の英雄が、志を政治に得られない場合、その精力を一途に歴史の撰述に
      打ち込んで、精神世界に金字塔を打ち立てようとしたケースは、決して少なくないので
      ある。 遠くは孔子の 「 春秋 」 にしても、また、司馬遷の 「 史記 」 、司馬光の 「 資治
      通鑑 」、 朱子の 「 通鑑綱目 」、 また近くは、水戸光圀の 「 大日本史 」 など、いずれも
      不遇の産物であった。 親藩の当主であった光圀を、不遇の人といったのは、もともと
      光圀は 英雄の資質をもって生まれてきたものである。 しかも猛烈な功名心にもえながら、
      幕府からは疎遠にされ、将軍との仲は気まずく、中央の政治に参画する機会は皆無で
      あった。 そこで胸中の不平を発散し、その猛烈な功名心を満足させるためには、
      修史の事業こそ絶好のはけぐちなのであった。 
       すなわち直接に政治に関わることができなければ、これとならぶ大きな事業は、いわば
      人の心に訴え、その思想を善導し、これによって 思うがままに輿論を形成することである。
      しかしながら、直ちに現体制に向かって批判をあびせ、これを指弾するような言議は、
      統制のきびしい封建社会において、とうてい行なわれるものではない。 ここにおいて
      最も妥当な方法は、過去の歴史を語ると見せながら、そこに自己の主張をおりこみ、
      自然のうちに社会思潮を、自己の主張にしたがって展開し、激成することである。 
      ちなみに古今の大史筆といわれるものは、実は歴史の撰述に名をかりて、自己の主張を
      述べているのである。 それでこそ国家社会の前進のために、有意義な事業といえる
      のである。 』
 と。


志実現への煩悶

 修史に対しての山陽の志望は、次第に高まり胸中に充実してきたのですが、江戸遊学から広島に帰った山陽は、気分が晴れず、日々悶々としていたのです。

 その原因は何であったのでしょうか。 山陽は れっきとした藩儒の嫡男で、藩の統制のもとにあり、しかも藩儒という地位は、父 春水が勤勉力行の末、ようやく手に入れたものでした。 このような環境のもとでは、どのように工夫しても、信念どおりの史筆をふるい、存分に史識を活用する事は、とうてい望めません。 いな、それよりも歴史の撰述そのものが、いわゆる体制側から許されるかどうかも疑問だったのです。 もし許されたとしても、厳しい検閲のもとに、御用史家となりさがるよりほかに道はなかったのです。
 現に水戸藩の 『 大日本史 』 にしても、享保五年( 一七二〇 ) には、本記 (ほんぎ) ・列伝が一応できたので、幕府へは献上したものの、朝廷への献上は幕府に気兼ねして 未だになされていませんでした。 しかも 幕府はその出版を許可していませんでしたので、山陽在世の当時は 写本でしか見ることができませんでした。 水戸藩ですらこうなのですから、広島藩という体制のもとにいて歴史を撰述することなどは、およそ不可能なことだったのです。

 山陽は、江戸遊学を終えて広島に帰った年の秋、親友の 大窪商山 (おおくぼしょうざん) の別荘に諸友と会したとき、次のような文章を綴っています。 もと漢文ですが、その大意のみを示します。

     〔大意〕

       友達の楽しみというものは大きい。 古来、すぐれた人物が、怏々(おうおう) として
      煩悶(はんもん) するのは、自分の才能が用いられないからである。 用いられるならば、
      たちまち颯爽(さっそう) となり活発になる。 せっかく国のため 世のために、大いに
      為すべきの大才を抱きながら、なぜ用いられないのであろうか。 それは時と ところに
      合わないからであり、めぐりあわせが わるいからである。 大才を抱く者は、世間の
      習慣に かかずらわってはいられない。 国を救い世を直そうとすれば、凡俗のおもわくを
      無視しなければならない。 この気持を話したところで、彼らには理解してもらえない。
      理解してくれるのは、同じ志を持っている友達だけである。 友達に胸中のわだかまりを
      話せば、しばらくは心を慰めることができる。 だから昔から、大志や大才を抱く人は、
      友達を重んじた。 およそ、千百年の後をおもい、身後の名を大切にする友達が、
      もし一堂のもとに会するならば、その楽しみたるや、まことに大きいものではないか。・・・・・・

 このような文章などを作って、一時の気晴らしが できたとしても、山陽の憂悶は深くなるばかりでした。

                つづく 次回

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