日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー111 ( 頼山陽・伝記ー3  ・脱奔 )

2009-04-17 23:48:06 | 幕末維新
田中河内介・その110 

外史氏曰

【出島物語ー22】

頼山陽ー3

 山陽は、ある時 ひそかに父・春水に志を打明け、千載(せんざい)青史に 名を残すような人となるためには、国史を編纂するよりほかにないこと、そのためには 京都に上り、ここを本拠として、畿内の古跡を探り、諸儒の間に往来して、広く異聞を求めなければならないと述べました。 春水は、その大望をひそかに 偉としたものの、山陽を京都に遊ばせることは、とうてい 藩情が許さないことでした。
 そのころ幕府は 朝廷との間に、大きな溝を作っていました。 だから、西国の諸侯が江戸へ参覲 (さんきん) するときも、伏見から大津に抜けることはあっても、京都に入ることなどは 思いもよらなかったのです。 また、京都に遊学する者も、医師とか僧侶、豪商、富農の子弟などで、藩士の子弟は まれでした。 いわんや 山陽のごときは、幼少より昌平黌の諸儒の間に、その才気が喧伝され、その挙動は 一藩の注目の的になっていましたので、これを京都に遊ばせることなどは、得策ではなかったのです。
 そもそも春水も、以前に国史を撰述し始めたのですが、幕府からの圧力で、中途で中止せざるを得ませんでした。 山陽の志は、そのような春水の志を継ぐのと同じですから、本心としては 成就させてやりたかったのですが、それはどうしても出来ないことでした。 危険な世渡りは、わが子にもさせたくなかったので、山陽をなだめるより 仕方がなかったのです。
 春水は、山陽の気分を変えるため、舟遊びに連れ出したり、花柳の巷にまで誘ったりしました。 山陽は 父の気持が分らぬでもありませんでしたが、たった一度の人生、男子として生まれた以上、どうしても この志は成し遂げたいと強く思っていました。
 そして、心の悩みをぶちまけるため、得たりと 流連しましたので、春水は困り果て、今度は山陽に妻を迎えることにしました。 こうして、山陽が江戸から帰ってきた翌年 (寛政十一年)の春、藩医・御園道英の長女・淳 (十五歳)を貰い受けましたが、これとても 山陽を抑留する決め手には なりませんでした。
 春水がいくら注意しても、山陽の外出夜遊びは、相変わらず続き、やがて藩内にも悪い噂が広まっていきました。 春水は、この翌年 (寛政十二年)の三月には、上府しなければならないので、困り果てて、ついに山陽が幼少の頃に武術の師であり、その後もいろいろ贔屓(ひいき)にしてくれる築山棒盈 (ほうえい) なら、山陽も尊敬しているし、藩の要職にもいる人なので、是に頼んで山陽を説諭してもらうことにしました。 そのようなこともあって、山陽も 春水の前で改心を誓ったりしましたので、春水もまずは一安心して 江戸勤めに出発して行きました。

 国史の撰述は、父 春水の宿願でもあったのです。 春水は広島藩儒に抱えられた壮年時代、やはり日本人に広く読まれる国史のないことを憂い、藩の一大事業として、これを成就しようと考えました。 そして再三にわたり藩に願書を出し、それが聴許されると、弟の杏坪を助手に申請して、相当な意気ごみで作業に取り掛りました。 春水の願書によると、これが完成すれば、広島藩の名を 天下に挙げ、 『 大日本史 』 の編纂を進めている水戸藩と栄誉を頒つことが出来ると、大きな抱負を抱いていたことがわかります。 そして、稿本の題名も 「 鑑古(かんこ)録 」 と名付け、天明五年 ( 一七八五 ) から寛政元年 ( 一七八九 ) までの足かけ五年にわたって精力を注ぎ、神武天皇からはじめて 開化天皇の時代まで進みましたが、そこで突然藩から中止を命ぜられました。 稿本まで棄却しているところを見ますと、幕府の弾圧が いかに大きかったかが想像されます。 国史を明かにすると、国体が明かになるため、幕府にとって都合が悪いのです。 水戸藩の 『 大日本史 』 は、家康の孫・光圀が始めたものなので、幕府も仕方なく黙認していたのですが、外様大名などがこれを手掛けることは、危険そのものだったのです。
 さすがに温厚な春水も、この廃絶だけは、残念でたまらなかったのでしょう。 その時の父の様子を、そのころ九歳の山陽は、子供心にはっきりと憶えていました。 その後、叔父の杏坪からも 当時のいきさつを聞き、父の宿願でもある修史を、是非 自分が代ってでも成就したいものと 思っていました。

 しかし、山陽がいくら強固な修史の志を持っていても、この時代は、信念どおりの史筆をふるい、存分に史識を活用することは、不可能な環境なのです。 それでも山陽は、その大志を決して捨てませんでした。 どのようなことをしても実現したいと考えたのです。
 これを成し遂げるには、捨て身となって思い切ったことをする以外に方策はありません。 つまり、藩の束縛から離れて、天下の自由人 ―草莽の処士― となって、誰に遠慮もなく、誰にも迷惑のかからない立場を 獲得しなければなりません。 それには、脱奔という非常手段しか残されていません。 山陽は脱奔してでも、藩の束縛から離れて、処士 ―自由人― にならなければならないと考えるのでした。


時代の背景

 それに、もう一つ、国史を書くということは、当時の日本の気運でもありました。 この気運は、水戸光圀が学者を集めて 『 大日本史 』 を編んだあたりから、端を発するといってもよいと思います。 光圀の集めた学者たちも、それぞれ一家の言をもっていて、栗山潛鋒 (くりやませんぽう) は 『 保建大記 』 を、三宅觀瀾 (かんらん) は 『 中興鑑言 』 を著わしています。 ついで、新井白石のような有力者が、 『 読史餘論 』 『 藩翰譜 』 などを著わしましたので、国史への注目が、学界の新傾向となっていました。
 そして 山陽と同時代には、中井竹山の 『 逸史 (いつし) 』、 中井履軒(りけん) の 『 通語 』、 飯田黙叟(もくそう) の 『 野史 』、 武元北林(ほくりん) の 『 史鑑 』、 亀井昭陽(しょうよう) の 『 蒙史(もうし) 』、 青山延于(のぶゆき) の 『 皇朝史略 』 などが世に出ました。 これらは、いずれも国史を漢文で綴った大冊です。

 一方、国史の撰述が盛んになったのは、当時のナショナリズムとも 裏腹をなしています。 当時はロシアの軍艦が北辺に出没し、北地侵犯も始まっていましたので、日本の海防や、辺土の保全について、識者は真剣に憂慮していました。
 柴野栗山 のごときは、先取防衛の策を進言し、進んでカムチャッカに押し渡り、あるいは清国討伐の意見を吐いていたといいます ( 頼 春水 『 師友志 』 )。

 また、国防の論議も、ようやく盛んになっていきました。 林子平が 『 海国兵談 』 を著わして罰せられたのは、山陽が十三歳の時でした。 蒲生君平が 『 不恤(ふじゅつ)緯 』 を著わし、あわや厳科に処せられようとしたのは、山陽が二十八歳の頃でした。 また、近藤重藏が 蝦夷 ( 北海道・千島 ) を探検したのは、山陽が二十歳の頃であり、間宮林藏 が 北蝦夷 ( 樺太 ) ・沿海州 を探検したのは、山陽が二十二歳の頃でした。

 幕閣には 一代の賢宰相・松平定信 ( 一七五七 ― 一八二九 白河侯 ) が居り、舶来の諸書を取り集めて、海外の情状を研究していましたし、林子平を処罰した翌年には、自ら沿岸の警備を視察したり、伊能忠敬に命じて 全国の測量にあたらせ、さらに古川古松軒 (ふるかわこしょうけん) を召しては、全国の地図を正すことを命じています。 又 海防に心を砕いた定信公は、あるとき 画壇の雄・谷文晁(ぶんちょう) に 列強の黒船の絵を画かせ、自ら次のような和歌を讃して 版木を作らせ、この絵を摺って広く配布しました。

      この船の よるてふ事を ゆめのまも
                   忘れぬは世の たからなりけり

 当時の人々は、おおむね これを杞憂なりと言いましたが、しかし幾ばくもなくして辺警しきりに江戸を騒がし、ロシアの侵犯は顕現し、英船も近海に出没するようになりました。

 すなわち当時の日本は、外迫の危機感から、ナショナリズムが抬頭し、封建制度も爛熟 (らんじゅく) の域に達していましたので、内外両方面から 日本を新しく立て直す必要に迫られていました。 日本の歴史を見直し、それによって将来の方向を考えようとする気運が起こったのも、当然の帰結といえましょう。

          
          黒船の図  谷 文晁 画  松平定信 讃 ( 南湖神社蔵 )

遂に 脱奔

 山陽は、断腸の思いで、藩禁を犯して脱奔する機会をねらっていましたが、寛政十二年九月、遂にその時が来ました。
 九月三日、竹原の親戚・頼 傳五郎 が逝去しました。 これは春水の叔父ですが、春水は江戸にいて会葬は不可能、そこで、母は山陽に、代りに竹原に行くよう申し付けました。 供として、従僕の太助が付けられていましたが、山陽は 好機逸すべからずと見ました。
 途中、松小山 (まつこやま) ( 広島県賀茂郡西条町の東 ) という峠のあたりで、いきなり刀を抜くや太助を追い払い、香奠 (こうでん) を懐にしたまま走り去り、京坂に向かって脱奔したのです。 山陽二十一歳のときです。

 山陽の已むに已まれぬ気持は、遂に 山陽をして脱奔を決行させてしまったのです。 当時の藩法では、藩士がほしいままに出奔したとなれば、直ちに法規に照らして、追い討ちの刑にあい、見つかり次第に斬って捨てられるのが常でした。
                                    ( 頼 山陽傳 安藤英男著 参考 )

                  つづく 次回

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