日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
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ものすごい先生たちー109 ( 頼山陽・伝記ー1 ・誕生、立志 )

2009-04-10 03:20:56 | 幕末維新
田中河内介・その108 


外史氏曰

【出島物語ー20】

頼山陽ー1

 〔 安永九年(一七八〇)~天保三年(一八三二) 〕
 安芸国賀茂郡竹原( 広島県竹原市 )住の享翁 (こうおう)( 山陽の祖父 ) には、成人した男子が三人いました。 長男が春水 (しゅんすい)( 山陽の父 )、次男が春風 (しゅんぷう)、三男が杏坪 (きょうへい) で、春水は春風に七歳の兄、杏坪には十歳の兄でした。 そしてこの三人は、そろって高名な学者になったので、世間では一口に 「 三頼 (さんらい) 」 といって、春水・春風・杏坪を併称し、その優生的な血統を羨ましく思っていました。

 春水は、二十一歳の 明和三年( 一七六六 )二月、上坂して片山北海 を師として刻苦勉励、儒道の奥義をきわめました。 この間、北海を盟主とする 詩社 ・混沌 (こんとん)社 に入って、多くの同人と交流していました。 この 混沌社 は、江戸時代の文明史の上からも大変に重要な存在です。 ことに、文運が大いに興隆した寛政期( 一七八九 ― 一八〇一 ) に、寛政の三助、あるいは 三博士 といわれた大立者(おおだてもの)、柴野栗山 (しばのりつざん)、尾藤二洲 (びとうにしゅう)、古賀精里 (こがせいり) などが、この 混沌社 から出ました。
 春水は、二十一歳から三十六歳まで、足かけ十六年のあいだ大坂にいました。 この間、二十八歳の 安永二年( 一七七三 )三月、学者として独立し、大坂江戸堀に私塾・青山 (せいざん)塾 を開きました。 そして、三十四歳のとき、学友の中井竹山 を仲人として 大坂の儒医・飯岡義齋 (いのおかぎさい) の娘で、当時二十一歳の 静子( 山陽の母 ) と結婚しました。 義齋には男子がなく、女子が二人ありました。 ちなみに 静子の妹 直子(なおこ) は、後に 寛政の三博士の一人、尾藤二洲 の後配となっています。


 頼山陽は、安永九年( 一七八〇 )十二月二十七日、大坂江戸堀で生れました。 この月は 小(しょう)の月 ( 陰暦では 小の月は二十九日 ) であったため、早くも 生後四日目には、数え年の二歳になっています。 なお この安永十年( 一七八一 ) は 四月に改元して、天明元年となっています。
 山陽 二歳の 天明元年十二月、父の春水は、待望の広島藩儒として 抱えられることになり、塾を閉じて、一家ともども 広島に移り住みました。

 広島藩儒としての春水は、建白して藩の学問所を設立しました。 そして藩学の再建が軌道に乗ると、前後十一年のあいだ 単身江戸に詰めて、世子 (せいし) ・斉賢 (なりかた) の輔導をつとめていましたので、幼少時の山陽は、母の静子と二人で 淋しく広島で暮すことになりました。

 静子は大変立派な婦人でした。 みさおも高く、学問もでき、不在がちの春水にかわって、山陽を一生懸命に守り育てました。 静子は、父 義齋から 梅颸 (ばいし) という号をもらっていました。 梅颸というのは、梅の花が咲き匂う春風という意味で、静子の性格に、うってつけの号です。  また、静子は 二十六歳の天明五年( 山陽六歳 ) から日記をつけはじめ、天保十四年( 一八四三 )に八十四歳で亡くなるまで、じつに五十九年もの長期間、休まず書き続けました。 このこと一つを取ってみても、静子は非凡な婦人でした。 ちなみに、山陽は この母より早い 天保三年( 一八三二 )に、五十三歳で亡くなっています。


 さて 山陽は、父のあとを継ぐべき儒士として、五歳のころより母に読み書きを教わり、七歳のときから 叔父杏坪( 春水の弟 ) の家へ通って 『 大学 』 を習いました。
 『 大学 』 というのは、学問の目的を明示した書物で、むかしの学生は、まず 『 大学 』 を暗誦して、何のために学問をするかを、しっかりと胸にたたきこんでから、知識の習得にすすんだものです。
 なお 叔父の杏坪は、兄の春水の推挙により、はじめは 兄の助手として浅野侯に仕えたのですが、やがて正式に藩儒となり、晩年には郡奉行として、民政にも大いに実力を発揮しました。


十二歳、諱(いみな) を襄(のぼる) とす。 立志

 寛政三年( 一七九一 ) の春、父の春水は 山陽に実名 ( 諱(いみな) ) をつけ、これを江戸から広島の静子に報じました。 すなわち 「 ・・・・襄 (のぼる) の一字にて候。 名乗 (なのり) にして読み候へばノボルなり。 ノボリではなし。 この通り申し付けらるべく候 」 ( 三月十三日書簡 ) と。 出典は 『 書経 』 の 「 堯典(ぎょうてん) 」 で、 「 山を懐(つつ) み、稜(おか) に襄(のぼ) る 」 であったといいます。 また 「 襄 」 という字には 「 成しとげる 」 「 たすけ成す 」 という意味もあるため、後に山陽が元服のとき、字 (あざな) を 「 子成 (しせい) 」 としたのも、これにちなんだものでありましょう。
 なお儒者は、シナの恒例にしたがって、通称のほか 諱 (いみな) ―実名― と、 字 (あざな) ―諱の副名、 成年後につける 別名― とを撰ぶことになっていました。

 山陽は母の膝下に座して、父の春水から寄せられた命名を伝え聞かされました。 山陽は 「 襄 」 の名が大変気に入って、その記念に一文を綴って決意を示しました。
 それは 「 立志論 」 といわれるもので、 そこには山陽の洋々たる大志と、一生の指計とが確然と示されています。
 十二歳とはいえ、それは数え年で、当時の山陽は 正味はまだ十歳五ヵ月なのです。 それなのに漢文で論説が書けるばかりか、その筋立てのしっかりしていることは 驚嘆のほかはありません。

   立志論(抄)
       男児、学ばざれば則ちやむ。 学ばば則ち、まさに群を越ゆべし。  今日の天下は、
      なお古昔(こせき) の天下のごときなり。 今日の民は、なお古昔の民のごときなり。 
      天下と民と、古の今に異ならず。 而して、これを治(おさ) むる所以の、今の古に及ば
      ざるものは何ぞや。 国、勢いを異にするか。 人、情を異にするか。  志ある人の
      なければなり。 庸俗(ようぞく) の人は 情勢に溺れて、而して自ら知らず。   
      上下(しょうか) となく一なり。 これ深く議するに足らず。 独り吾が党(儒学の徒)、
      その古帝王( 堯・舜など聖天子 ) の天下の民を治むるの術を伝うるものに
      あらざるか。・・・・・
       吾れ東海千載(せんざい) の下(もと) に生まれたりと雖も、生まれて幸に男児たり。 
      また儒生たり。 いずくんぞ奮発して 志を立て、以て国恩に答え、以て父母の名を顕わさ
      ざるべけんや。   ・・・・・・古の賢聖・豪傑の成すところ、吾れもまた、ちかかるべきのみ。
      たれか我が言の狂を言わん。  吾れ生まれて十有二年なり、父母の教(おしえ) を以て、
      古道を聞くを得ること六年なり。 春秋に富めりと雖も、その成るやすでに近し。 
      いやしくも自ら奮(ふる) わずして、因循(いんじゅん) に日を消す。 すなわち、かの章を
      尋ね、句を摘(つ) むの徒に伍して止まらんか、恥(は) じざるべけんや。 ここに於て、
      書して以て自ら力(つと) む。 またこれを申(の) べて曰く、ああ汝、これを選び、
      同じく天下に立ち、同じく此の民の為にす。 なんじ庸俗に群(ぐん) せんか、
      そもそも古の賢聖・豪傑に群せんか。 ( もと漢文 )

 そのころ学者の多くは、文字や文法を知る事に汲々とし、詩文を読み、詩文を作れるようになれば、あとは富貴だとか、権勢だとかを求めて、あくせくとしていました。
 このようなことを最もいやしんだ山陽は、人生の目的を、民を救(すく) い、君を匡 (ただ) すことであるとして、その覚悟のほどを示したのでした。

 それからの山陽は、ますます発奮して、古今の経史をはじめ、制度、典例、兵書など、広く各方面の書籍を読みあさりました。
 こうして山陽は、十四歳( 寛政五年 ) の正月を迎えました。 満年齢では十二歳ですが、過ぎこしかた、そして行く末を思い、世に有名な 次の詩 ( 古詩 ) を作りました。

        癸丑(きちゅうの) 歳(とし) 偶作
   
      十有三春秋   十有(いう) 三春秋
      逝者已如水   逝(ゆ) くものはすでに水のごとし
      天地無始終   天地始終なく
      人生有生死   人生生死あり
      安得類古人   いずくんぞ古人に類(るい) して
      千載列青史   千載(せんざい) 青史に列するを得ん


師と書物との出会い

 この詩を江戸にいた春水に送ったところ、春水は、わが子ながらその志の大なること、そして、そのみごとな詩想に感心して、友人達に向かって、この詩を誇らしげに見せました。
 そして、この詩が 寛政の三博士の重鎮である 柴野栗山 (しばのりつざん) の目にとまったのです。 栗山は 昌平黌 (しょうへいこう) の教授で、学界の大立者でした。 その栗山も 大いにこの詩を誉めて、
 「 春水殿は 大そう立派な お子さんを持たれた。 しかし、このまま詩人になさるより、実才を身につけさせるよう指導なさるのがよい。 そのためには、まず歴史を勉強させることだ。 歴史は 『 通鑑綱目 』 から始めなさるがよかろう 」
といったといいます。 ( 『 書後 』 中巻、「 読通鑑綱目 」 )

 『 見識をみがくためには、何よりも歴史の勉強が肝要だ、歴史というのは、単なる過去の記録ではない。 さまざまの例証のなかに、現在を処理し、未来を予見するための的確な方途が含蓄されている。  大にしては 国家社会の経営を、小にしては 人生の出処進退を、いかにすれば最も適切に処置できるかを、そこに学ぶ事ができる。 この故に、古今の大政治家、大経営者は、歴史を学び、そのヒントによって現実を処理したのである。 』 ( 『 頼山陽傳 』 安藤英男著 )

 つまり、山陽は 柴野栗山から、歴史の勉強を進められ、それにはまず、「 通鑑綱目 (つがんこうもく) 」 から始めたらよかろうと 指導されたのです。 この栗山の言葉は、春水の頼みにより、薩摩の藩儒 赤崎海門(かいもん) が、藩地に帰る途中、広島に立ち寄り 山陽に引見したときに 山陽に伝えられました。
 これを聞いた山陽は、大いに発奮して 「 通鑑綱目 」 に取り組みました。 このことが、山陽一代にとって、その見識を養い、史眼を高める上に、最も重要な契機となりました。
 つまり、山陽の生涯の進路を決定したものは、実にこの柴野栗山の教えだったということになります。


                  つづく 次回

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