日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー112 ( 頼山陽・伝記ー4  ・監禁生活、「日本外史』 着手 )

2009-04-22 17:25:00 | 幕末維新
田中河内介・その111 

外史氏曰

【出島物語ー23】

頼山陽ー4

 山陽は京都の 福井新九郎 の家にいました。 新九郎は 京都の商家の出で、昨年から春水に師事して 頼家に寄食していたのを、春水の上府で、この年七月七日、頼家を去って帰京していたのです。
 居場所が分ったので、十月十日、春風( 父 春水の弟 ) が代表となって連れ戻しに出かけました。 同日、江戸の春水は、早打ちの手紙で、はじめて山陽の脱奔を知りました。 その三日ばかり前に、春水は 林述齋(じゅつさい) ( 名は衡、字は徳詮、大学頭 ) の推選で、昌平黌の講師に任ぜられたばかりでした。 昌平黌といえば、官学の総本山で、その教壇に立つ事は、学者として最高の名誉でした。 一介の平民から浮かび上がった春水は、いよいよ得意の日を迎えたのですが、それを減殺(げんさい) するような知らせが広島から届いたのです。
 しかし春水は、広島で騒いでいるほどには 驚きませんでした。 十月十三日付の、京都の知友・若槻幾齋(きさい) に、山陽探索を依頼した書簡には、山陽の出奔が 女や金の問題なら、たちは悪いが処置しやすい。 だが、「 高ゾレ 」 の意気にはやり、高遠な理想に燃えての出来事であって見れば、かえって手がつけられないと率直に嘆いています。

 とにかく春水は、息子の不始末を藩庁に届けて、何分の仕置を待つのが順序です。 当時の藩法では、藩士がほしいままに出奔した場合、直ちに追い討ちの刑にあい、見つかり次第に斬って捨てられるのが普通でした。
 江戸の春水は 広島の杏坪とも相談して、山陽の逃亡を狂気として藩に届出ました。 狂気ならば、御用捨もあり得ると見込んだからです。 広島藩では、頼家に対し寛大で、刑罰を言い渡さなかったばかりか、「 捜索などで、さぞかし費用がかかったであろう 」 と、三十両の手許金まで賜わりました。 藩主の斉賢(なりかた) が、かなりの名君で、山陽の人物を愛惜したことや、側用人の 築山棒盈(ほうえい) が、藩主の手前をいかに上手に取り繕ってくれたかが うかがえます。
 この寛大さに、春水は感激しましたが、春水もさるもので、山陽の大志を知っているだけに、これを好機に 山陽の廃嫡を意に決し、藩庁へは 山陽を 狂妄として、廃嫡の手続きを執り、代りに景譲(けいじょう)( 春風の長男 ) を 仮養子にもらいうけることに成功しました。
 また 山陽には、世間をはばかり、厳しい監禁生活を命じました。 山陽にとっては、大変に不名誉な事ですが、これにより 藩儒として窮屈な勤めをする必要もなくなり、それに妻の淳も、今度の脱奔さわぎで実家に帰ってしまい、離縁を申し出ていましたので、山陽は家庭の束縛からも解放されました。
 このように 山陽は、大きな犠牲を払いましたが、かねてからの希望の実現に一歩踏み出したことにもなります。 もともと孝心に富んでいた山陽は、両親に対して随分申訳ない事をしたと思ったことでしょう。 しかし、今回の親不孝の罪は、やがて大所へ出たならば、文名をとどろかせて充分に償うことが出来ると、じっと辛抱して機会を待ったのです。


雌伏の時

 山陽は、この監禁生活を天与の閑暇(かんか) として、いよいよ和漢の群書を研究し、文章の錬成につとめました。 そしてこれでもって、文壇の上に 旗幟(きし) を立て、天下の文運を善導し、後世に不朽の栄誉を得ようと考えていた修史の大業 ( 『 日本外史 』 の著述 ) にも取り掛かりました。
 しかし、大義名分のみだれを指摘し、これを正すには、幕府の困ることも書かねばなりません。 でも、うっかり書いては、藩主にも迷惑がかかるし、父母も無事では済まされません。 そのため 本心は深く秘して、めったに人に語りませんでしたが、享和のはじめ頃、幼少より知己の 梶山與一(よいち) ( 頼家の執事 ) にだけには、かなり詳しく打明けています。
 それは長い書簡ですが、山陽は、このなかで、

      『 もう自分は先人によって研究されつくした経書 ( 古聖賢が述作した儒学の書、
      四書、五経など ) の講義を、殿様の前で四角張ってやることは御免こうむりたい。 
      自分の志は、かねてから歴史と文章の上に目標を定めている。 自分はシナの学問を
      完全に日本風に消化して、日本の国情に当てはまるように運用してみたい。 それには
      新しい文章で、国史を書くのが一番いいように思う。
       今のように、日本人でありながら、シナの歴史ばかり勉強して、自分の国の歴史は
      一向に知ろうとせず、建国以来の歴史の本というものが殆んど無いというありさまで、
      一体いいのだろうか。 自分としては、誰にでもわかるように国史を書いて、国史を
      日本人みんなのものにするつもりだ。
       こう言うと、またもや狂志がはじまったと笑われるかもしれないが、これこそ
      処士 ―自由人 ― の大きな喜びで、聖人( 孔子・孟子など ) の遺志の万一にも副う
      ものであり、父( 春水 ) が昔、自分に命ぜられたことでもあるので、今なお耳に
      残っている 』 ( 安藤英男 訳 )

 という趣意を述べています。


『 日本外史 』 の 意図

 山陽は、修史の大業に取り掛かるに当って、その大著を貫く根本精神を、孔子 『 春秋 』 の精神に置きました。 つまり、王道を在るべき本来の姿とし、王道を尊び覇道をいやしむ という意見です。
 山陽は政治や軍事の実権が朝廷でなく、幕府の手にある現状が、決して正しいとは思わなかったが、この時代、それをあからさまに述べることは出来ません。 それでは、どういう具合に人々に訴えればよいのか、そのためには 日本の建国以来の歴史を知らせ、本来の姿は、このようであったと、国体の基くところを、強調するよりほかに仕方がないと考えました。 そして その修史の大著を、はじめ 『 隠史(いんし) 』 と名付け、神武天皇より書き始めようと考えましたが、それではあまりにも厖大(ぼうだい) に過ぎて、生涯を賭けても 目的を達成できないかもしれないと考え、再考の結果、政権が王家から武門の手に移っていった過程を明かにさえすれば、国体の淵源とするところも、大義の在るところも分るので、先ずは目標が達成されるのではないかと思い、それなら幕府政治の成立、すなわち 鎌倉幕府の開設されるところに 焦点をおけばよいと考えました。 しかし、鎌倉幕府の生まれた事情は、源平二氏の抬頭したあたりから説きおこさなくてはならない。 このように 考えが次第に成熟して、文化四年( 一八〇七 ) 頃には、ほぼ草稿は出来上がりました。 
 山陽がメモした外史の成立過程によれば、

      享和元年( 一八〇一 ) 修史の志を始む
      享和二年( 一八〇二 ) 緒(しょ)に就く
      文化元年( 一八〇四 ) 起草
      文化四年( 一八〇七 ) 草創、ほぼ定まる

 とあり、「 緒に就く 」 から 「 草創、ほぼ定まる 」 まで足かけ六ヵ年、毎月一巻ずつの予定で書き進め、できあがると何回も書き改め、推敲(すいこう) をこらしました。
 そしてその後、努力を重ね、入京後は論賛といって、論評の部分を追加したりして、文政九年( 一八二六 )、四十七歳のとき、『 日本外史 』 が完成することになるのです。
 『 日本外史 』 という題名も、いろいろ模索してから決定したもので、叔父の 春風の示唆によったものでした。 「 外史 」 というのは、外の歴史、つまり官撰でない歴史、体制外の人が、自己の責任と史識をもって、自由に書いた歴史という意味です。 この書名一つ取ってみても、山陽の志のほどを、推察することができます。


構成の苦心

 『 日本外史 』  は武家政治の歴史、すなわち 将門 (しょうもん) ―武門 ― の歴史です。 したがって征夷大将軍(たいしょうぐん) の職を奉じた家を 「 正記 」 とし、その前後に 重要な世家(せいか) を 「 前記 」 あるいは 「 後記 」 として配列しています。

     『 日本外史 』 の目次 ( 大項目 )

              前記 平氏
       源 氏   正記 源氏
              後記 北條氏

               前記 楠氏
       新田氏   正記 新田氏

               正記 足利氏
               後記 後北條氏
       足利氏   後記 武田・上杉氏
               後記 毛利氏

               前記 織田氏
       徳川氏   前記 豊臣氏
               正記 徳川氏

 しかし、ここで 少し変だなあと、感じることはありませんか。 そうです、新田氏は征夷大将軍になったこともないし、天下の政柄 (せいへい) をとったこともありません。 それなのに 新田氏を重視して 「 正記 」 とし、 源氏 ・足利氏 ・徳川氏 など、一時代を制したものと 肩をならべさせている点です。 これはどういうことでしょうか。
 それは、徳川氏の先祖が 新田氏から出たと いわれているからです。 山陽は 外史の論賛で、新田義貞が陰徳を積んだため、その二百年の後、足利氏に代って家を興したものが、新田氏の末裔 ― 徳川氏 ― であったと述べています。 山陽は、義貞の忠志を称えて、善因は善果を生む、因果応報のことわりを 示したのです。
 そして、このことは、全盛の徳川体制のもとにあることを顧慮して、一見 幕府に阿諛(あゆ) したように見せかけていますが、じつは 新田氏の一家一門ことごとくが 挙げて王命に従い、王室に尽瘁(じんすい) したことを強調して、読者をして おのずから 現在の徳川氏の在りかたを 想起させ、その末裔の徳川氏が 王室に対する態度は、果してこれでいいのかと、自問自答させる意図が見られます。
 およそ 山陽の苦心は、直接に現体制を批判することを避けながら、往古の政体を嘆称することによって、連想的に 現体制の非を訴えることにありました。
 そして 山陽の見識を端的に示すものは、各章の最初と終りに附載した   「 外史氏曰く・・・・・ 」  に始まる 論賛 です。 それは自己の意見を堂々と述べた部分であり、この部分に 外史が 討幕の檄文 といわれる理由があります。

                  つづく 次回


最新の画像もっと見る