田中河内介・その112
外史氏曰
【出島物語ー24】
頼山陽ー5
『 日本外史 』
山陽は 『 日本外史 』 の開巻のはじめの方で、まず日本固有の政治が 天皇の親政であり、当時の国威がいかに隆昌したかを、繰り返し、繰り返し、詠嘆的に回顧しています。
すなわち、山陽の所説によりますと、 わが国の上古においては、政体が簡素で手軽く、文官・武官 というような区別も無く、国民は総て 国家を守る兵士であり、天皇は 総大将で、事あるときには、天皇が 親しく征伐の労をとられた。 もちろん 特に 武門・武士 というものはなく、大権の 下へ移ることもなかった。
中世にいたって、唐制にならって、綿密な兵制がしかれたが、なお厳然たる徴兵制度であり、天皇の命令によって動く 国家の軍隊であった。
しかるに 藤原氏が抬頭するに及び、朝廷の重要な官職を 壟断 (ろうだん) し、その代りに 将帥の任を 源平二氏に委ねた。 ここに はじめて 武門なる者が生まれ、また 政治の弛廃 (しはい) の故に、 関東・奥羽 などの 辺境において、その豪民が割拠し、武装して、ややもすれば 独立するものが 現われてきた。 これが武士の始まりである。
このように 山陽は、藤原氏の専横と失政を責めました。 その責めるにあたっては、これを 国体に反する事項、日本に在ってはならない事項として指摘し、そこに武家政治全体の性格を 明らかにしようとしたのです。 このような着眼は、まさに前人未到のことで、後に 『 日本外史 』 が、 尊王賤覇 ―天子を尊び、覇者( 幕府 ) をいやしむ― の気運を盛り上げるうえに、大きな力を発揮する要因になっています。 こうして山陽は、このような所論の後に、さりげなく続けて、
「 吾れ、外史を作り、はじめに源平二氏を叙し、いまだ嘗て王家の自ら其の権を
失われたるを歎ぜずんばあらず。 しかれども国勢の推移は、人力の能く維持する
ところに非ざるなり。 世変によって、以て得失をあらわす。 後の世を憂うるもの、
まさに以て心を留むることあらんとす。」 ―もと漢文
〔 大意 〕
自分は、この 『 日本外史 』 を著わすことによって、まず最初に 源平二氏のことを
述べ、いかに王家が 自ら大権を失われたかを 思い起すごとに、痛恨の感を深くしない
ではいられない。 しかし、世の移り変りは、とうてい人力の及ぶところではない。
自分としては、ただ世の移り変りを示して、その利害、得失を明らかにして置きたい。
後世の憂国の士に、この点に深く留意してもらいたいからである。
と述べていますが、最後の 「 まさに以て心を留むること有らんとす 」 の一句に、無限のおもいを込めて、あとは読者の推量にまかせ、かつ期待したところなど、あのきびしい封建社会の言論統制のもとにおいて、まさに絶妙の運筆と言えるのではないでしょうか。 ( 安藤英男著 『 頼山陽傳 』 参考 )
つづく 次回
●● 【 ちょっと一息 】 ●●
清河八郎が立寄った井樋家 ( 茨城県・上小瀬村 ) を訪問しました
「 ものすごい先生たちー61 」 ( 2008.8.10 投稿 ) を参照してください。
『 寺田屋事件後、清河八郎は、今度は 東北有志の糾合による関東再挙を目指し、文久二年八月二十四日
に江戸に到着、居ること三日にして、八月二十七日、村上俊五郎と共に水戸へ向かいました。 最初の日は、
板橋に泊り、岩槻より結城を経て水戸領に入り、野田より二里隔たった山間の小村 上小瀬 (かみおせ) に
庄屋 井樋政之允(いといまさのじょう) を訪ねました。 井樋は 曾(かつ) て水戸藩変革の際に 幽囚三年
に及びましたが、その間、妻 昆(こん) が 能く家を守りましたので、井樋が赦免されてから、烈公斉昭から
「 婦女明鑑 」 と賞して 鏡面を賜わりました。 其の子 五郎兵衛 もまた 気節の士で、一家を挙げて
奉国義勇の精神に満ちていました。 村上は 昨年の五、六月には ここに潜み 大変世話になったのです。
この度 八郎が村上と共に訪ねると、心から喜んで待遇してくれました。 家の後ろには 小川が流れています。
そこで八郎は 五郎兵衛とともに 魚をとって楽しんだりしました。 二人は七日間 ここに留まりました。
そして 那珂川を 船で下って 水戸に着いたのは 閏八月九日の薄暮でした。 』
●井樋家訪問
平成二十一年三月末の 晴れた日、私は、知人の 平塚一郎氏 【 (株)林産社長 ・常陸大宮市 高部(たかぶ) 住 】 の案内で、上小瀬村 【 現 ・茨城県 常陸大宮市 上小瀬(かみおせ) 】 に 井樋家 を訪ねました。 平塚氏の 親類にあたります。 井樋(いとい) 家から望む風景は、低い丘陵が連なる 緑豊かな、美しく のどかな山村です。 河岸段丘が発達し、屋敷の裏には緒川(おがわ) が流れています。 文久二年( 一八六二 ) に 清河八郎 が 訪れた当時を連想するのに、ピッタリの地でした。
井樋家 の 現在の当主 は、洋(ひろし) 氏。 本家は、現在は仙台住とのことでした。
以下は、奥様から出された おいしいお茶を、何杯もおかわりしながら、井樋 洋氏 より お聞きした 話の内容を元にして、まとめたものです。
井樋家
文久二年、八郎が訪問の時の母屋は 現在の井樋家の母屋の東隣の場所で、現在はありません。 現在の母屋も、昭和三十年の火災により、蔵一つを残して 焼失、新しく建替えられたものです。
政之允の時、井樋家は、十六ヶ村を束ねる庄屋、横目で、 徳川の通達は、全て井樋家を通じて 各村に布達されました。
また、勝海舟も、ある時、金策の為に訪ねて来たことがあるそうです。
家の裏には 緒川(おがわ) ( かっては 小川 とも書きました ) が 流れています。 少し上流の堰から 用水が取られ、屋敷のすぐ裏には これが流れています。 緒川の本流は それから 河原( 現 ・森林 ) を 少し進んだ先になります。 八郎が 五郎兵衛とともに 魚をとって楽しんだ場所としては、この用水も 当然含まれていたでしょう。 緒川は 下流の野口村にて 那珂川に合流します。 野口には かって河港( 現 ・那珂川大橋上流 ) があり、船にて 水戸まで下れました。 また、緒川にも 舟運があり、上小瀬よりさらに上流まで遡れたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/6b/556e1780c3b2a93b557964b4359b9f9e.jpg)
現・井樋家 背後の林の先には緒川が流れる。手前左は焼け残った蔵
井樋政之允(まさのじょう) ( 朝珍 )
那珂郡上小瀬村、山横目郷士
【 「 山横目 」 とは、本来藩有林を管理する役職でしたが、時代が下るにつれ、広範囲の民政も
担当するようになった。 有力庄屋が兼ねることが多く、井桶家もその一員として 水戸藩政の
末端をになうようになった。 】
弘化以来、国事に奔走、曾(かつ) て水戸藩変革の際に 幽囚三年に及びましたが、その間、妻昆(こん) が能く家を守りましたので、政之允が赦免されてから、水戸藩の前藩主 烈公 斉昭(なりあき)侯 から 「 婦女明鑑 」 と賞して 鏡面を賜わりました。 しかし、その鏡面 ( 銅鏡 ) も 昭和三十年の火災により、焼失してしまったとのことです。
政之允は、元治元年( 一八六四 ) 八月一日、自宅で暴民に襲われました。 目が不自由であった政之允は、ピストルで懸命に応戦しましたが、弾尽き、ついに竹槍で突き殺されました。 六十三歳。 贈正五位、靖国神社に合祀されています。
政之允の墓は、小瀬小学校の南西、 村から学校への上り坂の中腹にある 井樋家の墓地内に ありますので、井樋家を辞した後に 参って来ました。 五郎兵衛の墓も 並んでいました。 幕末の水戸藩の動乱に巻き込まれた父子は、こんもりとした林の中で、今静かに村の方を向いて眠っています。
ちなみに、清河八郎は 上小瀬の井樋家を訪れた翌年、 文久三年四月十三日、江戸 麻布一之橋にて、佐々木只三郎以下六名の旗本により暗殺されました。 「 ものすごい先生たちー79 」 ( 2008.9.22 投稿 ) を参照してください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/bf/e653e677a4f5dddadce48c8c64ed1496.jpg)
井樋政之允夫妻の墓
( 墓碑には )
元治元年八月朔日死
井樋政之允 旧郷士ニシテ御扶持拾六俵ヲ ○下置御山横目
居村外十五ヶ村ノ取締ヲ成ス
●政之允 受難の 時代背景
政之允が暴民たちに襲われた当時の水戸藩の情勢は、如何なものであったのでしょうか。 少し調べてみましょう。 それは、天狗党と門閥保守派との間で内訌戦が行なわれ、水戸藩内が 大混乱に陥っている時でした。
清河八郎が上小瀬の井樋家を訪れた翌々年、元治元年三月二十七日、天狗党が尊王攘夷を掲げて筑波山に挙兵しました。 それ以後、水戸藩内では天狗勢と門閥派の間に衝突が起こり、水戸藩は悲惨な内訌戦に突入することになりました。
上小瀬村を流れる緒川が 那珂川に合流する地点に、那珂郡 野口村 ( 現 ・常陸大宮市 野口 ) があり、そこに、天狗党の中でも 最過激派を率いていた 田中愿蔵(げんぞう) が館長をしていた郷校(ごうこう) ・時雍館(じようかん) ( 現 ・旧 野口小学校跡 ) がありました。 そこからは 那珂川をはさんだ対岸の、 関東の嵐山といわれる 御前山(ごぜんやま) の美しいたたずまいを 眼前に望むことが出来ます。
時雍館の館長としての田中愿蔵には 何の悪名もないどころか、むしろ、尊攘の大義に燃え、将来を夢見る 前途有為な青年館長としての 高い名声がありました。
その田中愿蔵は、天狗党の中で 尊王倒幕 を主張したために、藤田小四郎 などの天狗党主流派と意見が対立、天狗党を除名され、また 田中が提唱する「 甲・駿 攻略策 」 も 入れられずに 失意の淵に追いやられました。 其の時、愿蔵は 時雍館 を思わずにはいられませんでした。 「 野口 一帯の人々は 今でも自分を好意的に受け入れてくれるだろう。 そこに戻って出直そう 」。 と 思った田中愿蔵は、筑波山の挙兵から ほぼ二ヶ月後の 六月二十六日、再び古巣(ふるす) の時雍館に帰り、ここを本営とし、隊を四編制として それぞれ分宿しました。 再起を期して時節の到来を待つことにしたのです。 この時の田中愿蔵隊は 約三百人程であったといいます。
そして、七月下旬には、再び出撃、七月二十一日、下妻の高道祖(たかさい) 村 から敗走して来た 門閥派の中心人物 市川三左衛門 の率いる一派を 笠間に襲撃しましたが、これは失敗に終りました。 市川は、水戸に帰って、天狗一派の家族を捕え 投獄したりしましたが、田中愿蔵の家族も その例に洩れませんでした。
その頃、天狗勢が 諸所方々で 軍用金をかき集めて庶民を苦しめているという噂もたち、水戸藩の民衆は、次第に尊攘派を支持する者と 門閥派を支持する者に 二分されて行きました。 そして 七月二十三日に 水戸に入り、水戸城を不法に占拠した 市川三左衛門らの門閥派が、二十五日に水戸を攻めた天狗勢に圧勝したことは、天狗党から村を守るために結成された 農民集団に大きな影響を与えました。 かれらは、天狗勢と対戦する門閥派こそ 自分たちの側に立つ勢力と考え、門閥派に積極的に協力する姿勢をとりだしたのです。
このような気運にのって、水戸藩領各地で騒動が起こり始めました。 天狗勢に対する反感が、天狗勢に同調する尊攘派の郷士や 村役人の家に対する打ちこわしとなってあらわれ出したのです。
例えば、久慈郡太田村 ( 現 ・常陸太田市 ) では、七月二十七日夜、農民の自衛集団約千名が、組頭 立川次衛門 らの家 十三軒に押しかけ、家財、畳、敷物をことごとく打ちこわしました。 これは 立川たちが、天狗勢の軍用金調達と 労役の強要に協力し、村人に多大の迷惑をかけたという理由からでした。
このような 打ちこわし騒動は 急激に数を増し、六十五の地方で起こりました。 そして これらの指導者は、門閥派を支持する郷士や 村役人たちでした。
また、幕府から派遣されている関東取締出役は、 「 天狗勢が軍用金を調達にきた時はもとより、かれらが潜伏し、または歩いているのを見かけた場合は、竹槍その他で容赦なく打ち殺すべし 」 という通達を村々に出しました。 これによって、農民達は、天狗勢を殺害する認可を公然と得たことになります。 こうして、農民集団による天狗狩りがしばしばおこなわれる様になり、農民達は 殺害するとともに その所持品を奪ったりもしました。 そして、これに類したことが各地に広がり、天狗勢と無縁の者も多く殺害されました。
このように水戸藩内では 農民の自衛組織の天狗狩りと 打ちこわしは 益々激化し、乱れに乱れて、統制不能に陥り、あたかも全領内が沸騰するような 騒然としたありさまになっていきました。 このような藩内の混乱状態の中で、八月一日、井樋政之允 が 自宅で暴民に襲われ、竹槍で殺されるという事態が発生したのです。
( 「 茨城県史・近世編 」 昭和六十年 ) によると、次のようになります。
『 八月一日、田中勢が去った時雍館付近の那珂郡の村々では、尊攘派とその同調者に対する打ち毀しが
広がっていた。 大宮村に集結した農民達は、時雍館に放火し、鷹巣村神官宅を打毀し、さらに
八田村庄屋宅、東野村庄屋宅、神官宅、塩子村 大貫新介、門井村神官 大越伊予、上小瀬 村井樋政之允、
那賀村庄屋 長山伊介、野口村庄屋 関沢源次衛門 などを打毀した。 』
なお 時雍館への放火は、( 「 天狗党始末記 」 上村健二 著 ) によると、
『 市川三左衛門は、田中愿蔵の博徒隊に対抗するかのように、鴻巣の博徒一家をもって一隊を組織し、
「 上州長脇差に勤皇面(づら) をされてたまるか 」 と 縄張り根性をむき出しにさせていました。
そして九月には、この一隊の急襲により、田中愿蔵隊のいる野口村の時雍館が 放火されたのです。 』
と なっています。 いずれにしても、このため 田中愿蔵隊は 山野を彷徨することとなり 、最後には、八溝山頂で 解散、壊滅します。 田中は 福島県塙町で捕縛され、十月十六日斬首されました。 この時 愿蔵は 二十歳でした。 また、天狗党の本隊も、大挙 西上の途上、敦賀にて 翌 慶応元年二月、三百五十三名が 幕府の手により斬首されて、その最期の時を迎えております。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/f2/dd5f539b1625a998478f0879060a0076.jpg)
時雍館の跡 ( 旧・野口小学校跡 ) 2009.5.29
( なお、野口小学校は 2009.4.30 をもって 廃校となりました )
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/39/5db1ea7179052cdc41cec55198926313.jpg)
左から 井樋 洋氏、平塚氏、井樋氏 奥様
外史氏曰
【出島物語ー24】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0006.gif)
『 日本外史 』
山陽は 『 日本外史 』 の開巻のはじめの方で、まず日本固有の政治が 天皇の親政であり、当時の国威がいかに隆昌したかを、繰り返し、繰り返し、詠嘆的に回顧しています。
すなわち、山陽の所説によりますと、 わが国の上古においては、政体が簡素で手軽く、文官・武官 というような区別も無く、国民は総て 国家を守る兵士であり、天皇は 総大将で、事あるときには、天皇が 親しく征伐の労をとられた。 もちろん 特に 武門・武士 というものはなく、大権の 下へ移ることもなかった。
中世にいたって、唐制にならって、綿密な兵制がしかれたが、なお厳然たる徴兵制度であり、天皇の命令によって動く 国家の軍隊であった。
しかるに 藤原氏が抬頭するに及び、朝廷の重要な官職を 壟断 (ろうだん) し、その代りに 将帥の任を 源平二氏に委ねた。 ここに はじめて 武門なる者が生まれ、また 政治の弛廃 (しはい) の故に、 関東・奥羽 などの 辺境において、その豪民が割拠し、武装して、ややもすれば 独立するものが 現われてきた。 これが武士の始まりである。
このように 山陽は、藤原氏の専横と失政を責めました。 その責めるにあたっては、これを 国体に反する事項、日本に在ってはならない事項として指摘し、そこに武家政治全体の性格を 明らかにしようとしたのです。 このような着眼は、まさに前人未到のことで、後に 『 日本外史 』 が、 尊王賤覇 ―天子を尊び、覇者( 幕府 ) をいやしむ― の気運を盛り上げるうえに、大きな力を発揮する要因になっています。 こうして山陽は、このような所論の後に、さりげなく続けて、
「 吾れ、外史を作り、はじめに源平二氏を叙し、いまだ嘗て王家の自ら其の権を
失われたるを歎ぜずんばあらず。 しかれども国勢の推移は、人力の能く維持する
ところに非ざるなり。 世変によって、以て得失をあらわす。 後の世を憂うるもの、
まさに以て心を留むることあらんとす。」 ―もと漢文
〔 大意 〕
自分は、この 『 日本外史 』 を著わすことによって、まず最初に 源平二氏のことを
述べ、いかに王家が 自ら大権を失われたかを 思い起すごとに、痛恨の感を深くしない
ではいられない。 しかし、世の移り変りは、とうてい人力の及ぶところではない。
自分としては、ただ世の移り変りを示して、その利害、得失を明らかにして置きたい。
後世の憂国の士に、この点に深く留意してもらいたいからである。
と述べていますが、最後の 「 まさに以て心を留むること有らんとす 」 の一句に、無限のおもいを込めて、あとは読者の推量にまかせ、かつ期待したところなど、あのきびしい封建社会の言論統制のもとにおいて、まさに絶妙の運筆と言えるのではないでしょうか。 ( 安藤英男著 『 頼山陽傳 』 参考 )
つづく 次回
●● 【 ちょっと一息 】 ●●
清河八郎が立寄った井樋家 ( 茨城県・上小瀬村 ) を訪問しました
「 ものすごい先生たちー61 」 ( 2008.8.10 投稿 ) を参照してください。
『 寺田屋事件後、清河八郎は、今度は 東北有志の糾合による関東再挙を目指し、文久二年八月二十四日
に江戸に到着、居ること三日にして、八月二十七日、村上俊五郎と共に水戸へ向かいました。 最初の日は、
板橋に泊り、岩槻より結城を経て水戸領に入り、野田より二里隔たった山間の小村 上小瀬 (かみおせ) に
庄屋 井樋政之允(いといまさのじょう) を訪ねました。 井樋は 曾(かつ) て水戸藩変革の際に 幽囚三年
に及びましたが、その間、妻 昆(こん) が 能く家を守りましたので、井樋が赦免されてから、烈公斉昭から
「 婦女明鑑 」 と賞して 鏡面を賜わりました。 其の子 五郎兵衛 もまた 気節の士で、一家を挙げて
奉国義勇の精神に満ちていました。 村上は 昨年の五、六月には ここに潜み 大変世話になったのです。
この度 八郎が村上と共に訪ねると、心から喜んで待遇してくれました。 家の後ろには 小川が流れています。
そこで八郎は 五郎兵衛とともに 魚をとって楽しんだりしました。 二人は七日間 ここに留まりました。
そして 那珂川を 船で下って 水戸に着いたのは 閏八月九日の薄暮でした。 』
●井樋家訪問
平成二十一年三月末の 晴れた日、私は、知人の 平塚一郎氏 【 (株)林産社長 ・常陸大宮市 高部(たかぶ) 住 】 の案内で、上小瀬村 【 現 ・茨城県 常陸大宮市 上小瀬(かみおせ) 】 に 井樋家 を訪ねました。 平塚氏の 親類にあたります。 井樋(いとい) 家から望む風景は、低い丘陵が連なる 緑豊かな、美しく のどかな山村です。 河岸段丘が発達し、屋敷の裏には緒川(おがわ) が流れています。 文久二年( 一八六二 ) に 清河八郎 が 訪れた当時を連想するのに、ピッタリの地でした。
井樋家 の 現在の当主 は、洋(ひろし) 氏。 本家は、現在は仙台住とのことでした。
以下は、奥様から出された おいしいお茶を、何杯もおかわりしながら、井樋 洋氏 より お聞きした 話の内容を元にして、まとめたものです。
井樋家
文久二年、八郎が訪問の時の母屋は 現在の井樋家の母屋の東隣の場所で、現在はありません。 現在の母屋も、昭和三十年の火災により、蔵一つを残して 焼失、新しく建替えられたものです。
政之允の時、井樋家は、十六ヶ村を束ねる庄屋、横目で、 徳川の通達は、全て井樋家を通じて 各村に布達されました。
また、勝海舟も、ある時、金策の為に訪ねて来たことがあるそうです。
家の裏には 緒川(おがわ) ( かっては 小川 とも書きました ) が 流れています。 少し上流の堰から 用水が取られ、屋敷のすぐ裏には これが流れています。 緒川の本流は それから 河原( 現 ・森林 ) を 少し進んだ先になります。 八郎が 五郎兵衛とともに 魚をとって楽しんだ場所としては、この用水も 当然含まれていたでしょう。 緒川は 下流の野口村にて 那珂川に合流します。 野口には かって河港( 現 ・那珂川大橋上流 ) があり、船にて 水戸まで下れました。 また、緒川にも 舟運があり、上小瀬よりさらに上流まで遡れたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/6b/556e1780c3b2a93b557964b4359b9f9e.jpg)
現・井樋家 背後の林の先には緒川が流れる。手前左は焼け残った蔵
井樋政之允(まさのじょう) ( 朝珍 )
那珂郡上小瀬村、山横目郷士
【 「 山横目 」 とは、本来藩有林を管理する役職でしたが、時代が下るにつれ、広範囲の民政も
担当するようになった。 有力庄屋が兼ねることが多く、井桶家もその一員として 水戸藩政の
末端をになうようになった。 】
弘化以来、国事に奔走、曾(かつ) て水戸藩変革の際に 幽囚三年に及びましたが、その間、妻昆(こん) が能く家を守りましたので、政之允が赦免されてから、水戸藩の前藩主 烈公 斉昭(なりあき)侯 から 「 婦女明鑑 」 と賞して 鏡面を賜わりました。 しかし、その鏡面 ( 銅鏡 ) も 昭和三十年の火災により、焼失してしまったとのことです。
政之允は、元治元年( 一八六四 ) 八月一日、自宅で暴民に襲われました。 目が不自由であった政之允は、ピストルで懸命に応戦しましたが、弾尽き、ついに竹槍で突き殺されました。 六十三歳。 贈正五位、靖国神社に合祀されています。
政之允の墓は、小瀬小学校の南西、 村から学校への上り坂の中腹にある 井樋家の墓地内に ありますので、井樋家を辞した後に 参って来ました。 五郎兵衛の墓も 並んでいました。 幕末の水戸藩の動乱に巻き込まれた父子は、こんもりとした林の中で、今静かに村の方を向いて眠っています。
ちなみに、清河八郎は 上小瀬の井樋家を訪れた翌年、 文久三年四月十三日、江戸 麻布一之橋にて、佐々木只三郎以下六名の旗本により暗殺されました。 「 ものすごい先生たちー79 」 ( 2008.9.22 投稿 ) を参照してください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/bf/e653e677a4f5dddadce48c8c64ed1496.jpg)
井樋政之允夫妻の墓
( 墓碑には )
元治元年八月朔日死
井樋政之允 旧郷士ニシテ御扶持拾六俵ヲ ○下置御山横目
居村外十五ヶ村ノ取締ヲ成ス
●政之允 受難の 時代背景
政之允が暴民たちに襲われた当時の水戸藩の情勢は、如何なものであったのでしょうか。 少し調べてみましょう。 それは、天狗党と門閥保守派との間で内訌戦が行なわれ、水戸藩内が 大混乱に陥っている時でした。
清河八郎が上小瀬の井樋家を訪れた翌々年、元治元年三月二十七日、天狗党が尊王攘夷を掲げて筑波山に挙兵しました。 それ以後、水戸藩内では天狗勢と門閥派の間に衝突が起こり、水戸藩は悲惨な内訌戦に突入することになりました。
上小瀬村を流れる緒川が 那珂川に合流する地点に、那珂郡 野口村 ( 現 ・常陸大宮市 野口 ) があり、そこに、天狗党の中でも 最過激派を率いていた 田中愿蔵(げんぞう) が館長をしていた郷校(ごうこう) ・時雍館(じようかん) ( 現 ・旧 野口小学校跡 ) がありました。 そこからは 那珂川をはさんだ対岸の、 関東の嵐山といわれる 御前山(ごぜんやま) の美しいたたずまいを 眼前に望むことが出来ます。
時雍館の館長としての田中愿蔵には 何の悪名もないどころか、むしろ、尊攘の大義に燃え、将来を夢見る 前途有為な青年館長としての 高い名声がありました。
その田中愿蔵は、天狗党の中で 尊王倒幕 を主張したために、藤田小四郎 などの天狗党主流派と意見が対立、天狗党を除名され、また 田中が提唱する「 甲・駿 攻略策 」 も 入れられずに 失意の淵に追いやられました。 其の時、愿蔵は 時雍館 を思わずにはいられませんでした。 「 野口 一帯の人々は 今でも自分を好意的に受け入れてくれるだろう。 そこに戻って出直そう 」。 と 思った田中愿蔵は、筑波山の挙兵から ほぼ二ヶ月後の 六月二十六日、再び古巣(ふるす) の時雍館に帰り、ここを本営とし、隊を四編制として それぞれ分宿しました。 再起を期して時節の到来を待つことにしたのです。 この時の田中愿蔵隊は 約三百人程であったといいます。
そして、七月下旬には、再び出撃、七月二十一日、下妻の高道祖(たかさい) 村 から敗走して来た 門閥派の中心人物 市川三左衛門 の率いる一派を 笠間に襲撃しましたが、これは失敗に終りました。 市川は、水戸に帰って、天狗一派の家族を捕え 投獄したりしましたが、田中愿蔵の家族も その例に洩れませんでした。
その頃、天狗勢が 諸所方々で 軍用金をかき集めて庶民を苦しめているという噂もたち、水戸藩の民衆は、次第に尊攘派を支持する者と 門閥派を支持する者に 二分されて行きました。 そして 七月二十三日に 水戸に入り、水戸城を不法に占拠した 市川三左衛門らの門閥派が、二十五日に水戸を攻めた天狗勢に圧勝したことは、天狗党から村を守るために結成された 農民集団に大きな影響を与えました。 かれらは、天狗勢と対戦する門閥派こそ 自分たちの側に立つ勢力と考え、門閥派に積極的に協力する姿勢をとりだしたのです。
このような気運にのって、水戸藩領各地で騒動が起こり始めました。 天狗勢に対する反感が、天狗勢に同調する尊攘派の郷士や 村役人の家に対する打ちこわしとなってあらわれ出したのです。
例えば、久慈郡太田村 ( 現 ・常陸太田市 ) では、七月二十七日夜、農民の自衛集団約千名が、組頭 立川次衛門 らの家 十三軒に押しかけ、家財、畳、敷物をことごとく打ちこわしました。 これは 立川たちが、天狗勢の軍用金調達と 労役の強要に協力し、村人に多大の迷惑をかけたという理由からでした。
このような 打ちこわし騒動は 急激に数を増し、六十五の地方で起こりました。 そして これらの指導者は、門閥派を支持する郷士や 村役人たちでした。
また、幕府から派遣されている関東取締出役は、 「 天狗勢が軍用金を調達にきた時はもとより、かれらが潜伏し、または歩いているのを見かけた場合は、竹槍その他で容赦なく打ち殺すべし 」 という通達を村々に出しました。 これによって、農民達は、天狗勢を殺害する認可を公然と得たことになります。 こうして、農民集団による天狗狩りがしばしばおこなわれる様になり、農民達は 殺害するとともに その所持品を奪ったりもしました。 そして、これに類したことが各地に広がり、天狗勢と無縁の者も多く殺害されました。
このように水戸藩内では 農民の自衛組織の天狗狩りと 打ちこわしは 益々激化し、乱れに乱れて、統制不能に陥り、あたかも全領内が沸騰するような 騒然としたありさまになっていきました。 このような藩内の混乱状態の中で、八月一日、井樋政之允 が 自宅で暴民に襲われ、竹槍で殺されるという事態が発生したのです。
( 「 茨城県史・近世編 」 昭和六十年 ) によると、次のようになります。
『 八月一日、田中勢が去った時雍館付近の那珂郡の村々では、尊攘派とその同調者に対する打ち毀しが
広がっていた。 大宮村に集結した農民達は、時雍館に放火し、鷹巣村神官宅を打毀し、さらに
八田村庄屋宅、東野村庄屋宅、神官宅、塩子村 大貫新介、門井村神官 大越伊予、上小瀬 村井樋政之允、
那賀村庄屋 長山伊介、野口村庄屋 関沢源次衛門 などを打毀した。 』
なお 時雍館への放火は、( 「 天狗党始末記 」 上村健二 著 ) によると、
『 市川三左衛門は、田中愿蔵の博徒隊に対抗するかのように、鴻巣の博徒一家をもって一隊を組織し、
「 上州長脇差に勤皇面(づら) をされてたまるか 」 と 縄張り根性をむき出しにさせていました。
そして九月には、この一隊の急襲により、田中愿蔵隊のいる野口村の時雍館が 放火されたのです。 』
と なっています。 いずれにしても、このため 田中愿蔵隊は 山野を彷徨することとなり 、最後には、八溝山頂で 解散、壊滅します。 田中は 福島県塙町で捕縛され、十月十六日斬首されました。 この時 愿蔵は 二十歳でした。 また、天狗党の本隊も、大挙 西上の途上、敦賀にて 翌 慶応元年二月、三百五十三名が 幕府の手により斬首されて、その最期の時を迎えております。
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時雍館の跡 ( 旧・野口小学校跡 ) 2009.5.29
( なお、野口小学校は 2009.4.30 をもって 廃校となりました )
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/39/5db1ea7179052cdc41cec55198926313.jpg)
左から 井樋 洋氏、平塚氏、井樋氏 奥様