日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー19 ( 清河一派 薩藩蔵屋敷二十八番長屋を出る )

2008-05-08 01:12:20 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】

すごい先生たち-19

田中河内介・その18 (寺田屋事件ー7)


外史氏曰

 二つ目に起った問題は、志士団の中に、久光追随派と清河の急進派との対立反目が出来たことである。


 清河(三十三歳)は情況を把握するのに勘が鋭い。しかも行動派ときている。始めは久光公を盟主にして事を起そうとしたが、その後の薩摩藩の様子から、久光の真意を洞察して、これはおかしいぞ、久光公に期待は出来ないのではないか。早く見切りを付けて自分達のみで先に蹶起を急ぐべきだという考えを持ち始めていた。

 これに対して、田中河内介(四十八歳)、小河一敏(五十歳)は反対で、あくまで久光公の言を信じており、若い血気の士の暴発を心配し始めた。中でも八郎は最も勢力あり且つ最も急進果断であるから、内心これを危険視していた。殊に久留米藩の諸士は最も八郎に心服し、生死を共にするとまで言っている。八郎が邸内に居れば田中・小河の勢力が自然と弱くなる。それで大坂薩摩藩邸内に、久光追随派と清河の急進派との対立反目が生れ、薩邸内の一部に、薩邸から清河に出てもらおうという意見が出たらしい。



 人の運命とは分からぬもので、そのような時、大坂の長州藩邸に潜み、時々薩邸の清河らを訪ねていた越後の浪士本間精一郎が、四月十三日、薩邸に清河八郎らを訪ねてきた。本間は清河と安積・藤本を招き、慰労のため安治川で舟遊びを試みた。同じく長州藩邸に潜む土佐藩士吉村虎太郎も参加した。

 芸妓を乗せ愉快を尽したが、安治川から海に出る河口に番所(津守番所)がある。そこを通る時、本間と安積は酔いにまかせて役人に向かって暴言を吐いた。 これが問題になり、清河たちは浪士世話掛の柴山と橋口から注意を受けた。
 清河は、これは遠まわしに自分たちに退邸を求めるものと推察したので、その夜(十三日午前零時頃)、清河八郎・藤本鉄石・安積五郎・飯居簡平(いいおりかんぺい) の四人(本間精一郎は、役人に跡をつけられたので、その夜、長屋に逃げ込んできた。これを入れると五人) が決起を前にして薩邸を出る事になった。

 その夜は土佐堀の旅館をたたき起こして泊り、次の日に京都に行き、三条河原町の飯居簡平の家に潜んだ。ここは長州藩邸が近い。長州藩邸では薩摩藩が決起したら、それに応じようと挙兵の準備をしている。その時八郎たちも一緒に起とうと、大坂薩摩屋敷の快挙を待った。

 後で思えば、清河が薩邸を出た事が、清河の命を救った天運ということになる。



外史氏曰(がいししいわく)

 【一つの集団が窮地に差し掛かると、仲間割れが起きるものである。 しかも それは それまでの良好な人間関係とは無関係に起きる。おそらく これは人間の本能とやらに起因するものであろうと思う。

 新しい時代を切り開くことを目指した挙兵の場合、そのグループの中に路線の違いから、更に急進的な派が生れて行く場合が一般的だ。そして大概は急進派がそのグループから追い出される。分裂である。路線の違いは、先を読む目の違いである。
 しかし、結果的に見ると殆んどの場合、追い出された一派(見切りを付けて隊から出て行った急進派) の方が 事の本質をより正確に見つめている。 おそらく もともとの立場が身軽な故に、より正確に事の本質を掴めるからでもあろう。


 元治元年三月、水戸天狗党による筑波山挙兵があった。その天狗党の田中源蔵(たなかげんぞう) 隊の場合も しかりである。田中隊は激派である。分派して天狗党本隊を離れていった田中源蔵隊の方が時代の本質を確実に掴んでいたといえる。

 天狗党挙兵に対して、水戸藩内保守派の諸生党の巻き返しのなかで、天狗党の家族は投獄や斬罪に処せられ、或は住宅が焼き払われるなどとの不穏な噂が、天狗党の太平山(おおひらさん) の陣中に届いて来た。ついに天狗党の田丸総帥も 「一旦水戸に帰って奸党を撃滅して、しかる後に 義挙に当たる事にしようか」 と言い出す始末である。

 この去就に関して、藤田小四郎(実質的に天狗党挙兵を仕組んだ。藤田東湖の四男) と田中愿蔵はついに正面衝突して論戦となった。田丸総帥らの腑甲斐なさに対する反対のみならず、尊王敬幕という不徹底さ(おそらく親藩という立場から) をもっている水戸学思想そのものへの田中の攻撃である。小四郎には水戸学の尊王敬幕思想がすでにその歴史的役割を終えていることが理解できなかった。

 大勢は小四郎の意見に追随することになり、尊王討幕思想を持った愿蔵は自ずと同勢から離脱せざるを得なかった。 以後、田中愿蔵は別隊を組織し、別行動をとることになる。天狗党の分裂である。 愿蔵の別隊組織には、上州組、野州組からもかなりの人数が参加してきた。それからの田中隊は足利、桐生、小山の各地を廻って同志の獲得につとめ、同勢は三百名を超えるにいたった。

 田中源蔵隊は多くの戦闘後 やがて壊滅することになるが、 天狗党本体はその後、武田耕雲斎(たけだこううんさい) を主将にして大挙(約千人) 西上して京都を目指した。 有名な天狗党西上である。 途中幾度か前途が開けるかも知れない機会が訪れたにもかかわらず、主将武田耕雲斎がその都度、尊王敬幕思想(水戸学思想) を判断の基準に置いたがために、思考の範囲が狭まり それらの機会をみすみす失い、道半ばにして降伏するはめになった。 そしてとどのつまりは敦賀の地で三百五十三人が幕府の手により処刑斬首され壊滅することになる。 時代遅れの敬幕思想の成せる悲劇的な結末である。

 処刑されるに当って、小四郎は、「田中の方が正しかったかも知れない」 と言った。 しかし、後の祭りである。

 それから三年後の慶応四年、薩長を中心とする討幕派の武力行使により幕府は完全に崩壊する。 田中源蔵の考えの方が正しかったことが実証された。

 藤田小四郎が、幕府の親藩としての水戸の藩士という枠のなかで思考し、しかも水戸学の理念を認識していたのに対して、源蔵の思想は自由であった。 源蔵は藩医猿田玄碩の次男で田中家の養子となった。 出身は武士ではない。従って体制武士の思考に拘束されない、 それにもともと水戸の藩士ではない。従って、親藩意識にも、水戸の藩内抗争にも、しばられることはなかった。


 此の場合の田中愿蔵隊と清河一派の場合は非常に似ている。先見の明(事の起こらぬ前に見抜く見識) は まず少数の人間の自由な思考の中から生れる。 その時点では大勢には受け入れられない。 正しいが、まだ早すぎただけである。】



外史氏更に曰く

 【一方、田中河内介は土佐勤王党の領袖 武市半平太の場合と、ある面では非常によく似ているところがある。


 どちらも公武合体派の薩摩の島津久光、土佐の山内容堂を信じたために(見限りが遅かったために)、最後にはその本人に命を奪われることになる。

 武市半平太の場合、多くの勤王党員が容堂に見切りを付けて土佐藩を脱藩して行ったのに、自分は闔藩(こうはん) 勤王を目指して、あくまでも藩内に留まり藩主を説得しようと努力した。
 田中河内介の場合、大坂薩摩藩邸から、清河一派が久光に見切りを付けて、藩邸から出たのに、その時点ではまだ久光の本質を見抜けなかった。

 久光や容堂は公武合体派であり、藩内の下級武士たちを主体とした尊攘の志士たちの行動を常日頃から にがにがしく思っていた。 まして、他藩の尊攘派浪人ならなおさらのこと。 所詮尊攘派とは本質的には相容れないのである。 久光や容堂が尊攘派・下級武士の意見を容れることは、封建の身分制の上にこそ成り立つ主君の立場からして、身分制の崩壊につながることで到底容れられるものではない。

 この点、早く久光に見切りを付けた清河八郎や、容堂に見切りを付けた坂本竜馬や中岡慎太郎、吉村虎太郎の考え方や行動の方が正しかったと言えるだろう。 但しその後、彼らは道半ばにして命を落とした。 しかし、歴史の大きな役割を確実に果たし得た人生であったろう。】




 大坂の薩摩藩邸に残された志士たちは、四月十五日頃には久光より蹶起の指令が出るものと期待をしていたので、 各々 知り合いや家族に手紙や遺書などを書いて、必死の覚悟をしてその日を待っていた。

 清河八郎もこの頃、郷里の父母、江戸の山岡、仙台の桜田・戸津諸友に宛てて長短の書簡を送り、また藩主酒井侯にも書を上ってその志を述べている。
 四月七日及び八日付けの父母に出した長文の両書簡には、鎮西遊説の顛末、京都義挙の計画を巨細に述べ、「天下大義のさきがけとなることになりました。男子の志望これに過ぎるものはありません」 と書いている。 そして、江戸の山岡鉄舟には、「成功はもう間違いのないところまでこぎつけた」 と書いている。



 しかし、十五日になってもそれらしい兆は全くない。洩れ来る情報は否定的なものばかりである。
 伊牟田も平野も薩邸を去った。清河一派も出た。長屋は淋しくなる。しかも、首を長くして待つ久留米党首領・真木和泉守の到着は未だない。薩邸二十八番長屋の志士たちのあせりは 日々に募っていく。


                 つづく 次回


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