【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-18
田中河内介・その17 (寺田屋事件ー6)
外史氏曰
その後の二十八番長屋
薩摩藩・小納戸役の大久保一蔵から、島津久光公の申し付けとして 「 指示するまで大坂で静かに待つように 」 と諭された志士団は、久光への随従上洛が出来ないことに不満を持ちながらも、その時まで二十八番長屋で待機せざるを得なかった。
此の時点で、大坂薩摩藩蔵屋敷二十八番長屋には、その数およそ五十名の志士たちが集結していた。 具体的には、
【 京都派 】 では田中河内介と左馬介父子、千葉、中村、青水ら五人。
【 豊後竹田藩 】 では当初の脱藩組十六人と、先発の加藤、渡辺に後発組の
広瀬友之丞( 健吉 )、高野直右衛門、高崎善右衛門、矢野勘三郎、野溝甚四 郎に下僕らを加えた小河派の合計三十人。
【 久留米党 】 では首領・真木和泉守ら四人が薩摩藩の妨害で遅れて未着のた め、別途脱藩した酒井、鶴田、原、荒巻、中垣、古賀簡二( 寺田屋騒動の 後、藩内禁錮中に病死 ) の六人。
【 諸国の志士 】 では、福岡・黒田藩の平野次郎、秋月・黒田分藩の海賀宮 門、庄内の清河八郎、岡山の藤本鉄石、京都の飯居簡平、武州産の安積五郎 に、肥後の松村大成が派遣した内田弥三郎、竹志田熊雄、緒方栄八( 寺田屋 騒動直前に麻疹(はしか) を患い参加できず、失意の内に三人とも空しく帰 国 )
たちである。
二つの事件が発生
挙兵の機会を首を長くして待つ間に、志士団に二つの事件が発生した。
一つは、久光の大叔父にあたる福岡藩主黒田斉溥(なりひろ) が、久光の卒兵上洛を無謀な事として、止めさせる為、参勤の期日を早めて国元を出発。 久光一行を追って山陽道を東上、すでに播州路まで来ているという噂が入った事である。
【 福岡藩主斉清(なりきよ) には後嗣がなく、文政五年( 一八二二 )鹿児島藩第二十五代藩主 島津重豪(しげひで) の九男 長溥(ながひろ) 十二歳が養嗣子として迎えられ、天保五年( 一八三四 )、斉清の隠居によって二十三歳で襲封、十一代藩主となり、明治二年( 一八六九 )、致仕するまで、幕末激動の三十五年間の藩政を担当した。 福岡藩の幕末維新は藩主長溥を中心に展開したのである。
実父 島津重豪は天保四年八十九歳で亡くなるまで、八十年もの長い期間、薩摩藩の政治を思うまま陰で動かした人物であった。 長溥は重豪七十一歳の時の子供である。 藩主長溥は聡明のきこえのある人物であったが、その政治的立場は常に幕府中心で、公武合体的傾向が強かった。 それに福岡藩は外様大名でありながら、むかしから准親藩として扱われていた 】
志士たちはこの噂を聞いて動揺した。 ここで久光が大叔父長溥に説得され、今回の目的を中止でもすれば、志士たちは何のために命を捨てる決心までして故郷を出たか分らなくなる。
その時、平野國臣は、「 私が行って 斉溥公の行列を止めて見せましょう 」 といった。 平野は黒田藩の脱藩浪士である。 すると、伊牟田尚平が私も一緒に行くと言い出した。 伊牟田は薩摩藩の脱藩浪士である。 清河八郎は二人とも脱藩士であるので拘束される恐れがあり大変に危険だ、止めた方が良いと言ったが、それでも行くと、二人は四月十一日急ぎ出発した。 此の二人は、前述のように薩摩潜入の時も一緒であった。 危険なことでもあえて挑戦する名コンビである。
二人は十三日大蔵谷(おおくらだに) に藩主長溥公の東觀を要して書を奉った。前もって用意していた建白書を伊牟田に持参させ、薩摩藩の機密文書と偽り、まんまと斉溥公の手元まで届けた。 勿論、文章は平野が書いたものである。 そこには、当今の情勢を説明した上で、多少脅迫気味に、京坂には多くの志士たちが集合しています。 もし殿が行かれれば桜田門の二の舞になるでしょうというような文言が連ねられてあった。
斉溥は驚いて、急病と称してただちに国元に引き返した。 これは 大蔵谷回駕事件 と呼ばれている。 この時 平野は 扈従(こじゅう) 帰国を命じられ、行列に加わって下関に到り、下関を離れた博多までの船内で、脱藩の罪で逮捕され、福岡の郊外・荒津の海浜にあった桝木屋(ますきや) の獄に投獄された。 その勤皇運動が忌諱に触れたのである。 別途、伊牟田の方は薩摩藩の捕吏に捉えられて、国元送還後に喜界ガ島( 三島村の硫黄島 ) に流された。
平野は 桝木屋の獄中では 捻紙(こより)を以って筆の代わりとし、「 神武必勝論 」、など多くの書を著した。 その根気と情熱にはただ驚かされるばかりである。
しかも彼は獄中では、退屈しのぎに弁当箱の底に自分の髪の毛を張り、これを絲として須磨琴をつくり、即興の歌とともに弾唱していた。
ひとやのうちの日長さは 千とせの秋の心地せり
ここはことなる神の世か さらに命も延びぬべし
もとより獄屋に住まふ身の 侘しといふもおろかなり
悲しといふもあまりあり 楽しといふて止みなまし
実に身に沁みる歌ではないか。 しかも何という気高い境地であろうか!
平野の獄中にある間、京では天誅の嵐が吹き荒れ、時勢は尊攘派の天下の様相を帯びてくる。 このような情況下で、翌文久三年三月二十九日、幸いにも平野は朝旨を以って釈放され獄を出ることが出来た。
しかし、同じ年の十月の生野の乱で再び捉われ、翌元治元年七月二十日、禁門の変に際し、京都・六角の獄中で幕吏により斬殺された。
その辞世の詩にいう
憂国十年 東走西駆 憂国十年、東走西駆(とうそうせいく)
成敗在天 魂魄帰地 成敗は天に在れども、魂魄(こんぱく) は地に帰す
二つ目に志士団に起きた事件は、路線の違いから生れた志士団の仲間割れ事件である。
つづく 次回
すごい先生たち-18
田中河内介・その17 (寺田屋事件ー6)
外史氏曰
その後の二十八番長屋
薩摩藩・小納戸役の大久保一蔵から、島津久光公の申し付けとして 「 指示するまで大坂で静かに待つように 」 と諭された志士団は、久光への随従上洛が出来ないことに不満を持ちながらも、その時まで二十八番長屋で待機せざるを得なかった。
此の時点で、大坂薩摩藩蔵屋敷二十八番長屋には、その数およそ五十名の志士たちが集結していた。 具体的には、
【 京都派 】 では田中河内介と左馬介父子、千葉、中村、青水ら五人。
【 豊後竹田藩 】 では当初の脱藩組十六人と、先発の加藤、渡辺に後発組の
広瀬友之丞( 健吉 )、高野直右衛門、高崎善右衛門、矢野勘三郎、野溝甚四 郎に下僕らを加えた小河派の合計三十人。
【 久留米党 】 では首領・真木和泉守ら四人が薩摩藩の妨害で遅れて未着のた め、別途脱藩した酒井、鶴田、原、荒巻、中垣、古賀簡二( 寺田屋騒動の 後、藩内禁錮中に病死 ) の六人。
【 諸国の志士 】 では、福岡・黒田藩の平野次郎、秋月・黒田分藩の海賀宮 門、庄内の清河八郎、岡山の藤本鉄石、京都の飯居簡平、武州産の安積五郎 に、肥後の松村大成が派遣した内田弥三郎、竹志田熊雄、緒方栄八( 寺田屋 騒動直前に麻疹(はしか) を患い参加できず、失意の内に三人とも空しく帰 国 )
たちである。
二つの事件が発生
挙兵の機会を首を長くして待つ間に、志士団に二つの事件が発生した。
一つは、久光の大叔父にあたる福岡藩主黒田斉溥(なりひろ) が、久光の卒兵上洛を無謀な事として、止めさせる為、参勤の期日を早めて国元を出発。 久光一行を追って山陽道を東上、すでに播州路まで来ているという噂が入った事である。
【 福岡藩主斉清(なりきよ) には後嗣がなく、文政五年( 一八二二 )鹿児島藩第二十五代藩主 島津重豪(しげひで) の九男 長溥(ながひろ) 十二歳が養嗣子として迎えられ、天保五年( 一八三四 )、斉清の隠居によって二十三歳で襲封、十一代藩主となり、明治二年( 一八六九 )、致仕するまで、幕末激動の三十五年間の藩政を担当した。 福岡藩の幕末維新は藩主長溥を中心に展開したのである。
実父 島津重豪は天保四年八十九歳で亡くなるまで、八十年もの長い期間、薩摩藩の政治を思うまま陰で動かした人物であった。 長溥は重豪七十一歳の時の子供である。 藩主長溥は聡明のきこえのある人物であったが、その政治的立場は常に幕府中心で、公武合体的傾向が強かった。 それに福岡藩は外様大名でありながら、むかしから准親藩として扱われていた 】
志士たちはこの噂を聞いて動揺した。 ここで久光が大叔父長溥に説得され、今回の目的を中止でもすれば、志士たちは何のために命を捨てる決心までして故郷を出たか分らなくなる。
その時、平野國臣は、「 私が行って 斉溥公の行列を止めて見せましょう 」 といった。 平野は黒田藩の脱藩浪士である。 すると、伊牟田尚平が私も一緒に行くと言い出した。 伊牟田は薩摩藩の脱藩浪士である。 清河八郎は二人とも脱藩士であるので拘束される恐れがあり大変に危険だ、止めた方が良いと言ったが、それでも行くと、二人は四月十一日急ぎ出発した。 此の二人は、前述のように薩摩潜入の時も一緒であった。 危険なことでもあえて挑戦する名コンビである。
二人は十三日大蔵谷(おおくらだに) に藩主長溥公の東觀を要して書を奉った。前もって用意していた建白書を伊牟田に持参させ、薩摩藩の機密文書と偽り、まんまと斉溥公の手元まで届けた。 勿論、文章は平野が書いたものである。 そこには、当今の情勢を説明した上で、多少脅迫気味に、京坂には多くの志士たちが集合しています。 もし殿が行かれれば桜田門の二の舞になるでしょうというような文言が連ねられてあった。
斉溥は驚いて、急病と称してただちに国元に引き返した。 これは 大蔵谷回駕事件 と呼ばれている。 この時 平野は 扈従(こじゅう) 帰国を命じられ、行列に加わって下関に到り、下関を離れた博多までの船内で、脱藩の罪で逮捕され、福岡の郊外・荒津の海浜にあった桝木屋(ますきや) の獄に投獄された。 その勤皇運動が忌諱に触れたのである。 別途、伊牟田の方は薩摩藩の捕吏に捉えられて、国元送還後に喜界ガ島( 三島村の硫黄島 ) に流された。
平野は 桝木屋の獄中では 捻紙(こより)を以って筆の代わりとし、「 神武必勝論 」、など多くの書を著した。 その根気と情熱にはただ驚かされるばかりである。
しかも彼は獄中では、退屈しのぎに弁当箱の底に自分の髪の毛を張り、これを絲として須磨琴をつくり、即興の歌とともに弾唱していた。
ひとやのうちの日長さは 千とせの秋の心地せり
ここはことなる神の世か さらに命も延びぬべし
もとより獄屋に住まふ身の 侘しといふもおろかなり
悲しといふもあまりあり 楽しといふて止みなまし
実に身に沁みる歌ではないか。 しかも何という気高い境地であろうか!
平野の獄中にある間、京では天誅の嵐が吹き荒れ、時勢は尊攘派の天下の様相を帯びてくる。 このような情況下で、翌文久三年三月二十九日、幸いにも平野は朝旨を以って釈放され獄を出ることが出来た。
しかし、同じ年の十月の生野の乱で再び捉われ、翌元治元年七月二十日、禁門の変に際し、京都・六角の獄中で幕吏により斬殺された。
その辞世の詩にいう
憂国十年 東走西駆 憂国十年、東走西駆(とうそうせいく)
成敗在天 魂魄帰地 成敗は天に在れども、魂魄(こんぱく) は地に帰す
二つ目に志士団に起きた事件は、路線の違いから生れた志士団の仲間割れ事件である。
つづく 次回