日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー52 ( イギリスの東洋侵略(上)  ・フエートン号事件、 佐賀藩の幕末 )

2008-07-14 14:16:54 | 幕末維新
すごい先生たち-52

田中河内介・その51 (寺田屋事件ー40)


外史氏曰

【薩英戦争ー1】


イギリスの東洋侵略(上)

 以下、『 異国船撃攘秘史 茂野幽考著 』 から、イギリスの東洋侵略に関して簡単に述べた部分を引用する。  これは太平洋戦争中に出版された書物であるため、その文章の表現に於ては、少し過激な面もあるかも知れない。 しかし、その述べている歴史的事実は かえって 現代の書物よりも 的確に伝えている面がある。

 【 英国は 昔から世界通商路の劫掠(ごうりゃく) 独占と、他国の貿易破壊を国策として、その強力な海軍力をもって、人道を無視したあらゆる悪虐非道を行って、弱小国を侵略し、他国の国政干渉をもって終始していることは、その被害国である東亜諸国の歴史が証明しているところで、英国の支那侵略史また然りである。

 英国は 天正十六年( 一五八八 )にスペインの無敵艦隊を全滅させ大西洋の海上権を掌中に収めるや、 インドに侵略の爪牙(そうが) を向け、慶長五年( 一六〇〇 )エリザベス女王の時代に、ロンドンに東インド商会を設立してインドを侵略し、 寛永十二年( 一六三五 )の七月に、英国はさらに支那大陸に侵略の爪牙(そうが) を向けて来た。

 英将ウエッデルは 軍艦四隻を率いて、支那に通商貿易強要のために、南支那の要港澳門(まかお) に現われたが、当時支那貿易は、ポルトガル人に独占されていたので、澳門(まかお) のポルトガル人の妨害にあって、その目的を達成することが出来ず、広東から虎門( 珠江河口にある。アヘン戦争の勃発地 ) に向ったが、却って支那官憲の反感を買い、珠江を航行中 虎門の砲台から砲撃を受けたので、ウエッデルはこれを好機として、陸戦隊百人を上陸させ、海上と陸上から相呼応して、虎門(こもん) 要塞を攻撃して、遂に虎門を占領して、支那の広東総督に抗議を提出したので、強力な火砲と武器を有する英国艦隊に恐れをなした広東総督はウエッデルに通商を許した。

 英国はこのような 悪虐非道な海賊行為をもって、支那に通商貿易を強要したのであって、英国の支那貿易は、大砲と銃剣によって、開拓された。


日本に迫るイギリス

 寛政八年( 一七九六 ) から九年にかけて、支那貿易に巨利を得、支那全土にその勢力を扶植して、支那を英国の植民地化したが、 これになお飽き足らず、我が日本にその魔手を伸ばし、オランダの長崎貿易を潰滅させ、その商権を奪わんと、英国の軍艦は遂に、我が南西諸島から、本土太平洋海岸に進出し、海岸や水深の測量を行い、傍若無人にも、我が遠海灘から陸奥にかけて出没しています。

 享和三年( 一八〇二 )に、英国商船フレデリック号が、印度カルカッタから貨物を満載して、長崎に来航したが、長崎の奉行所では、和蘭人の進言によってフレデリック号をイギリスの大海賊船なりとして、その入港を拒絶して追い帰した。


フェートン号事件

 その後、英国ではフレデリック号の報復に 提督ドルリー麾下の軍艦フエートン号を、文化五年( 一八〇八 )七月( 八月十五日 )に長崎に派し、英国海軍の伝統たる海賊の本性を現わして、フエートン号は長崎で暴行掠奪(りゃくだつ) を働いた。
 フエートン号は長崎に入港するとき、オランダ国旗を掲げて、長崎守備の奉行所役人の目を欺いて長崎湾内に侵入し、出島の和蘭館長ドゥフ等の臨検を阻止した。
 それからオランダ人二人を捕えて人質とし、長崎奉行所に薪水食糧を強要して掠奪暴行の限りをつくし、その上 出島の和蘭館を占領しょうと砲門を開いて砲撃の態度を示したので、長崎奉行松平泰英は、僅か百余人の守備隊の兵をもって、三十八門の大砲を有する英国軍艦フエートン号の暴力を阻止することが出来ず、松平泰英は蛮賊英海軍に長崎を蹂躙された責めを負って、その年の七月九日( 八月十八日 )に切腹して相果てた。  また、このとき、長崎防衛の責任を怠った佐賀藩主( 鍋島斉直 )は、幕府から処罰された( 一〇〇日間の逼塞 )。

 フェートン号事件後、爪哇(じゃわ) の英国総督サー・スタンフオード・ラッフルスはオランダが、ナポレオンのために、フランス本国に合併されたのを好機として、長崎の出島のオランダ商館を英国の手に掠奪せんと、文化十年( 一八一三 )に二隻の商船を長崎に派遣した。

 英国船は 和蘭(オランダ) 館長ドゥフに対し、出島の引き渡しの命令書を渡したが、ドゥフは、英国船に対し、 「 日本は直ちにフエートン号の復讐を行うべし。 即刻退去せよ、出島は爪哇(じゃわ) の属に非ず 」 と英国船を脅かしたので、英船は退去した。 このようにして長崎出島は、英国の侵略の魔手から救われた。 】

 
 以上は、『 異国船撃攘秘史 茂野幽考著 高山書院 昭和十八年 』 からの引用である。 ( なお、文中カッコ内は、外史氏による補足・訂正部分である )

 フエートン号事件の責任をとって切腹し果てた松平図書頭の墓所は 長崎市の大音寺にある。 また、松平図書頭は長崎総町の発議によって、諏訪神社境内に康平社としても祠られている。

 長崎御番は 一年交代で佐賀藩と福岡藩で担当していた。  そして フエートン号事件のときの長崎御番は佐賀藩であった。 長崎に配置されていた藩士の人数も 経費節約のため 決まりよりずっと少なかった。

 関連担当者の処分があった。 しかし藩主鍋島斉直はその時江戸にいて留守であった。 このフェートン号事件は佐賀藩にとって計り知れない屈辱となり、以後の佐賀藩の方向を決めた事件でもあった。


   フェートン号



ヘンドリック・ドゥフ肖像



【 備考 】

佐賀藩の藩政改革と幕末

 鍋島直正が襲封して初めての襲藩( 国元に帰る ) のため、江戸から国元へ向けて行列が出発、品川駅まで来た時、行列は品川を出る事が出来なかった。 それは藩士たちにお金を貸していた商人たちが その返済を求めて押しかけてきたからである。  それを知った直正は、藩の財政状態がそこまで悪化しているとは 知らなかったと涙を流したということである。 直正が財政改革の重要さを痛切に感じた一齣であったと考えられる。

 また、フエートン号事件は、佐賀藩にとっては大きな屈辱となり、藩財政の破綻と並んで、藩主直正の藩政改革の大きな要因となった。

 やがて直正の藩政改革は大成功を収め、財政改革に成功すると共に、佐賀藩の軍備の西欧化・近代化が成し遂げられることになる。


有志大名にはならず

 直正の藩政改革により、財政の改革は大成功をおさめ、軍備の近代化もなった。 朝廷や幕府からは 幕末の全国的な課題解決へ 佐賀藩も参画する事への要望が高まった。 しかし、直正は動かなかった。
 直正は 幕末、 我が国が未曽有の国難に直面していても、決して有志大名になることはなかった。 その関心は あくまでも 佐賀一国内に最後まで終始した。
財政再建が出来ても、佐賀一国の為以外にはお金を遣わない。 他人の為にはお金を遣わない。 お金に苦労したことが、骨身に沁みていたのであろうか。 それとも 何よりも 佐賀藩大事の 葉隠の精神に貫かれていた為であろうか。

 直正は 幕末の動乱期、公武合体運動に終始し、井伊直弼に接近した。 しかし、安政の公武合体派大名による幕政改革大連合にも参画しなかった。  期待されても、元治元年の参与会議にも出席しなかった。
 閑叟( 直正 ) がやっと重い腰を上げたのは 慶応三年六月になってからであった。  薩長土の各藩士らによって討幕運動が計画された翌月である。 彼はオランダから購入した電流丸で上洛した。 幼帝に拝謁したり慶喜とも会談したりしたが、政局に何ほどの影響を与えるような動きもなく、上洛するも、たった二十九日間の京都での滞在で佐賀に帰ってしまった。

 しかし、十月の大政奉還では 佐賀藩も大きく揺れた。 十一月九日、藩は家老の鍋島孫六郎を京都にやり、情勢を見てから藩主の直大を上洛させることに決めた。  孫六郎が準備中の十二月九日、王政復古の大号令が下った。 朝廷から佐賀藩に 「 来辰正月より三月迄、京都三カ月詰御警衛上京被仰付 」 ということだった。 藩主の直大が上洛しなければならなくなったので、鍋島孫六郎は先発として急遽、十二月二十一日に出発した。

 孫六郎の大坂着は一月十四日、京都に入ったのが一月二十八日である。
 しかも 正月から朝廷警護の任につくようにと朝命を受けながら、藩主の直大が京都入りしたのは、二月になってからのことであった。 この間に 鳥羽伏見戦争が勃発し、そして終わり、新政府は新しい方向へと自信に満ちた歩みを始めた。

 佐賀藩は大政奉還後の 中央の激しい政局の動きを、判断しかねた。 決断力も欠いた。 軍を率いての上洛途中で、動きを止めたり引き返したりの連続で、評定議論が多すぎた。

 鳥羽伏見戦争直後に、佐賀藩に対する非難が起った。 「 雄藩にして首鼠両端に持し、王事に勤めず幕府を佐けんとするは佐賀藩なり 」 ということで、薩摩藩が急先鋒であり、薩摩が佐賀を攻めるというのだ。

 藩命で上洛していた 佐賀藩の江藤新平は 木戸孝允や後藤象二郎の世話で 岩倉具視に会い、直々に進言するところがあった。  その結果、岩倉は 木戸や後藤らと謀り、直ちに佐賀討伐を中止させた。

 藩主直大は、二月二日に入京、翌三日に参内を許された。 四日、外国事務局輔に任ぜられ、八日には、勅命により北陸道先鋒を命ぜられた。 ここにおいて、ようやく、名実ともに官軍の一員となり得たのだ。

 優柔不断の物語を終わります。

                 つづく 次回

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