日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー51 ( 生麦事件ー7  ・賠償金の問題 )

2008-07-08 20:44:11 | 幕末維新
すごい先生たち-51

田中河内介・その50 (寺田屋事件ー39)


外史氏曰

【 生麦事件ー7 】

 事件の翌日の八月二十二日、久光一行は、出発準備が整うと、新番 国分市十郎を使者として神奈川奉行所に遣わし、生麦事件に関する届書を提出した。 これが届書の第一号で、これ以後、何度か届書を出すが、このときの届書の内容は、浪人らが行列に割り込んで来て、外人を斬って逃げた。 薩摩藩には無関係という内容である。
 この届書を提出後、さすがに気が引けたのか、第二の届書を同日、江戸留守居役西筑右衛門の名で老中水野和泉守忠精に宛てて提出した。 しかし、これも偽装された内容である。
 昨日、神奈川と川崎との間でこう言う事件が起きて、岡野新助と言う足軽が異人を斬って逃げているので捕まり次第、幕府に差し出すと言う内容であった。 こんな調子のものがこの後も続く。 あくまでも真相は明かさない。


 幕府当局が生麦事件のことを知ったのは、事件当日の八月二十一日の夜のことである。  幕府は薩摩藩に犯人を差し出させようとしたが、薩摩は命令に従わなかった。 時代はすでに幕府の力では薩摩のような雄藩を押さえることが不可能になりつつあった。 幕府は横浜にいる英国代理公使ニールのもとに 若年寄 遠山信濃守を遣わして陳謝した。

 事件が落ち着くまで保土ヶ谷に滞留するように という神奈川奉行からの求めに対しても、薩摩藩側はイギリス側から談判がある場合は、藩の責任において、これに応じるつもりであり、幕府に迷惑をかけるつもりはない として奉行の要求に応じなかった。
 久光は何ら事件の跡始末もせず、一行は 二十二日の午前七時には 保土ヶ谷を発って、すたすたと京都を目指した。 久光にとっては、列を乱した無礼者を斬り捨てたまでで、それがたまたま外国人だったというだけのことになる。

 八月二十六日に一行が駿府に達した時、幕府から急使が来て、イギリス艦が鹿児島へ向かうかもしれない旨の連絡があったので、藩では松方助左衛門を直ちに本国へ遣わした。 

 閏八月七日に 行列は京都に入った。 九日に久光は参内。 天皇はわざわざ出御して久光の勅使随従の労を賞した。 無位無官の者に対しては異例の待遇であった。
 しかし京都の情況は、尊攘急進派に牛耳られており、到底久光の耐えられるものではなかった。 久光は 「 匹夫之激論 」 に朝議が左右されてはならぬと言い捨てて、閏八月二十三日、京都を後に鹿児島に向けて帰国の途についた。

 鹿児島に帰った四百人の久光随従の薩摩藩士に対しては 閑口令がしかれ、鹿児島には 生麦の一件の関連資料は殆ど残っていない。



十四代将軍・家茂上洛

 年が明けて 翌文久三年三月四日、将軍家茂が上洛して二条城に入った。 将軍上洛は、寛永十一年、家光以来二百二十余年ぶりである。

有志大名達も京に招かれた。 松平容保・徳川慶喜・松平慶永そして伊達宗城・山内豊信はすでに京にあった。  容保は、新設の京都守護職に任ぜられ、着任したのである。
 島津久光は文久三年三月四日、従兵七〇〇を率いて、長崎で買い入れたばかりの汽船白鳳(はくほう)丸で海路出発、将軍よりやや遅れて、三月十四日、京都に入り知恩院を宿舎とした。 久光の二回目の上洛である。
 今回の久光の上京は第一回目と違い、招かれての上京であったが、久光の上京は、あまりにも遅すぎた。 すでに松平慶永の画策した公武合体派連合策は破綻していた。
 朝廷は尊攘激派の少壮公家達に牛耳られ 圧倒されていた。 その背景として京都に荒れ狂う 天誅という名の尊攘の嵐があり、京都は無政府状態に近かった。 だから久光がいくら建言しても、それに対して一人として積極的な発言は出来なかったのである。  こうなっては久光一人がいくら力んでみても始まらない。 やがては英国艦隊も鹿児島へやって来るであろう。 国政の責任者でもない自分は、むしろ差し迫った藩政の課題解決に当たるべき と久光は考えたのだろう。  京都滞在は わずかの三日間、十八日には京都を発ち、日向細島を経由して、四月十一日に鹿児島に帰り着いた。



賠償金の支払い

 イギリスは 当時 オルコック公使が たまたま休暇でイギリスに帰っていた。 温厚な第二公使 ニールとその下に強硬派の ハードが居て、ハードはイギリスの軍隊を率いて保土ヶ谷に攻めようとしたが、ニールは留めた。 当時イギリス軍隊は港の見える丘公園当たりにテントを張り駐留していたが、保土ヶ谷に争う事は避けられた。


英軍キャンプ( サウス・キャンプ )の光景。
遠方に建築中の兵舎が見える( 甦る幕末より )



ジョン・ニール英代理大使( 1864年、ベアト撮影 )




 英国代理公使ニールは幕府に対し犯人の捕縛と外国人保護を求めた。
 また、八月末には 本国政府に軍艦派遣の要請と訓令を仰ぐ手紙を送り、翌文久三年一月二十五日に ラッセル外務大臣からその手紙に対する返事が届いた。
 その返事には幕府から十万ポンド( 四十万ドル )、薩摩から二万五千ポンドの賠償金と下手人をイギリス人の前に引き出して処刑させよとあった。
 ニールは本国政府からのこの訓令を受けとると、即座に 幕府に謝罪と 八日以内の賠償金支払を迫った。 しかし、当時国内では攘夷論が燃え盛っていたことから、交渉は難航を極めた。

 この時、将軍は京都にあった。 幕府は期日になっても理由を付け、回答を何回も延ばしたが、しまいに理由が付けがなくなり、老中格の小笠原長行(ながみち) の独断ということにして、四月二十八日、十万ポンド ( 東禅寺イギリス公使館の歩哨二名の殺害事件とリチャードソン事件への賠償金 ) を分割して支払うことを約束した。

 このお金は 当時貿易の決済はメキシコのドルで支払っているが、木箱にして八百八十箱、大八車十四台半分もあり、これを幕府は面子があるので、昼間は運べず、夜中に相撲取りに運ばしている。 
 さて分割して払われたこのお金を どう受け取るか、ニールの居る領事館に預けようと思ったが、それだけの金を置く所がないと言う事で、当時横浜に停泊していたイギリス軍艦十一隻のうち、ユ―リアラス号、エンカウンター号、パール号の三艦に搬入した。 次いでニールはキューパー提督にこれを香港へ運び、兵站総監に保管を依頼するよう要請した。 此れで幕府に対しての要求分に関しては一応の決着をみた。


リチャードソンの賠償金を勘定する図
( 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1864.2.20.付 )



賠償金をイギリス艦パール号に運搬する図
( 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1863.9.12付 )



 しかし、薩摩は謝罪と賠償金の支払を承知しなかった。 外様大藩を押えることが出来ない幕府は、その力の衰退をまざまざと見せ付けたことになる。

 謝罪要求を撥ね付けた薩摩藩に対して、英国代理公使ニールは薩摩との直接交渉を選択し、キューパー提督率いる七隻のイギリス艦隊を鹿児島に回航させることにした。 勿論 ニール代理大使も乗り込み鹿児島に向かう。


イギリス海軍提督A・L・キューパー
( 甦る幕末より )


 文久三年六月二十二日、イギリスの七隻の軍艦は横浜を出発して鹿児島に向かった。

                 つづく 次回


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