日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー23 ( 真木和泉守 上坂 )

2008-05-14 23:17:34 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】

すごい先生たち-23

田中河内介・その22 (寺田屋事件ー11)


外史氏曰

志士達を裏切る久光

 久光は志士たちに、大坂出発に際し「 京師に赴いて近衛公によって強いて朝旨を乞い、しかる後に諸君と事を共にする。 それまで静かに待つように 」 と言っておきながら、朝廷に対する建議では、「 叡慮の趣を浪人たちに洩らさないこと 」 とか、「 浪士たちの意見を取り上げにならないように 」 とか、「 浪士たちの取締りを自分にやらせてほしい 」などと要望し、ついに 「・・・・当地に滞在して浪士の鎮静に努力するように 」 という勅旨を得ている。
 久光は恐懼して奉命書を奉り、翌十七日には錦小路の薩摩藩邸に入り、直ちに浪士鎮定の任務についた。 見方を換えれば、久光は自分の確固たる立場を確立するために、わざわざ仕組んで浪士たちを利用したともとられそうな行動をとった。 浪士たちを完全に裏切ったのである。


挙兵決行日、遷延に次ぐ遷延

 久光の建議と勅旨の内容は、在京同志から 即日 大坂の魚太組や 二十八番長屋の志士団に伝えられた。 久光公からの吉報を首を長くして待っていた浪士や薩摩藩過激派の面々は、久光公に頼ろうとしていた事の愚かさに気付き始めた。

 特に精忠組過激派の有馬新七、田中謙助や魚太組の柴山愛次郎、橋口壮助などは、田中河内介や小河一敏らを二十八番長屋に訪ねて協議の結果。 もう我慢が出来ない。 我々の先行蹶起以外に無いという事で、十八日夜に挙兵決行と決めた。
 だが、決行予定前日の十七日に、京都の側役の堀次郎から、「 久光公の十六日の建議の結果は上々であったので、今しばらく静かに待つように 」 との手紙が、柴山、橋口に届いた。 彼らは再び騙されて十八日の決起を思い止まった。

 十八日、京都から奈良原喜左衛門、海江田武次が大坂に派遣されて来た。 彼らは河内介らと面談し、決起を思い留まるように慰撫した。
 然しながら、志士団は密かに有馬新七ら造士舘激派と会議し、「 久光公の朝廷工作は上首尾というが、我々の目指すところとは大違いであり、また此の上何時までも猶予していては、二十八番長屋を出て行った清河八郎の一党が義挙の先鞭を付けるかも知れない 。我々は既定の計画通り、先行して蹶起しよう 」 と。 二十一日に京へ馳せ上り、同夜に討入りと日時まで決定していた。
 ところが、奈良原と海江田の説得では不安に思ったのか、京都から側役大久保が後を追って直々に大坂に来て、「 志士達を御所の守衛にとり立ててもらうように、朝廷側に頼んでいる最中なので、今しばらく時機を待つように 」 といったが、志士たちは今度は騙されなかった。

 一方、大坂の長州藩邸に屯集していた長州過激派の久坂ら二〇人は、二十一日決起と決まった段階で、その準備のために大坂藩邸を出て上洛、長州藩京都藩邸で出撃に備えていたが、決起予定の日の二十一日の夕、大坂から連絡役の土佐脱藩・宮地宜蔵( 翌年八月に七卿落ちを護衛中急病死 ) が京都の長州藩邸に到着し、当夜の挙兵を延期したいという大坂側の意向を通報して来た。 長州側は予定通り、寺田屋集合の志士団の九条関白邸襲撃と同時に、京都所司代屋敷へ突入する準備を完了していたので、大変心外に思った。
 これに対し、長州側は、「 これ以上遷延させたのでは士気が低下する 」 と、二十二日強行を主張し、宮路を再び大坂へ連絡に向かわせた。 だが、宮地が大坂へ着いたのは翌朝九時で、どう考えても時間的にその夜の決起は無理であった。 大坂側は即座に明二十三日に決行と定め、今度は海賀宮門(かいがみやと) を使者として、早駕籠で京都へ急行させた。

 このように、決行の期日は、二十一日は蔵屋敷の警戒が厳重になったために中止。 二十二日も京都の長州藩側との連絡がうまく行かず、更に一日延期され、漸く二十三日に決行と決定された。


真木和泉守上坂

 伊牟田・平野も薩邸を出立、清河一派も出た。 その後、決起の日時の遷延が度々生じて、薩邸二十八番長屋の志士たちの士気がやや鈍り始めていた四月二十一日、待ちに待った真木和泉守が、次男の菊四郎、門弟の吉武助左衛門、淵上謙三を引連れて姿を現した。 長屋の一同は狂喜してこれを出迎えた。
 鹿児島をまわってから上坂の予定とは、先着の門下生たちから聞かされてはいたが、決起の期日が近づいても来着しないので皆いらいらしていた。 真木和泉守一行は、薩摩藩の策略で鹿児島に三月末まで抑留され、上坂の途中でもいろいろと妨害を受けて、この日に漸く到着出来た。 そして、田中河内介ともこの時に初めて会うことになった。

 早速、翌二十二日の朝、二十八番長屋にて和泉守を囲んで会議が開かれ、諸国参集の志士四十余名が会した。 まず、河内介が現況を説明し、次のような全体挙兵計画を発表した。

挙兵の全体計画

① 大坂逗留の薩摩藩の同志( 魚太組、佐土原藩士を含む ) 三十六人、及び久留米藩・真木派の十人、京都田中派六人 の合計五十二人からなる前軍は、明二十三日朝から順次川船で淀川を遡り、夕刻までに伏見の船宿・寺田屋に集合しそこで武装を整える。 そして夜十時に寺田屋を出発、午前零時を期して九条関白邸を襲撃し九条尚忠(ひさただ) 卿を斃す。
【 寺田屋から伏見街道を北上して京都御所の堺町門に到る進軍の道のりは約十キロである。 九条関白邸は堺町門内すぐ西側にある。 九条尚忠は宮中佐幕派の巨頭で孝明天皇皇后夙子=英照皇太后の父君である 】

② 京都の長州藩邸に集結した久坂玄瑞ら長州藩激派と 他藩の脱藩志士のおよそ五十人からなる別軍は、前軍の九条関白邸襲撃と同時に所司代屋敷を襲撃、所司代酒井忠義( 若狭小浜藩主 )を討つ。 後詰の家老・浦靫負隊の三百人は、臨時に各所を応援する。
【 所司代屋敷は、長州藩邸から西へ一・五キロにある 】

③ 竹田藩・小河派二十二人は、後軍となって昼過ぎに大坂を出発し、夜半に伏見到着の後、そのまま京都へ急行して前軍の関白邸襲撃組を応援する。

  真木和泉守はかねてから、浪士のみの決起を一番の下策として、絶対にやるべきでないという信念を持っていた。
真木は文久元年十二月十二日に草した 『 義挙三策 』 の中で、義挙には三策ある。 大名を説いて決起させることを上策とし、大名より兵を借りて事を起すことを中策とし、浪士のみで事を挙げる事を下策とし、「 下策は勿論危うくして用ふべからず 」 とし、中策によれば八、九割まで成功、上策では完全に成功すること間違いなし。 としているが、事がここまで進行していては すでに手遅れである 「 人材と時機の宜を得 」 ることを期し、下策でも踏み切らざるを得なかった。
真木は全体計画を了承して前軍の総督についた。 真木の到着がもう少し早ければ、真木は自身のいうところの下策に近いこの計画内容には反対したに違いない。

 初めての討幕挙兵である今回の京都義挙に参加する志士たちは、明朝の出発に備えて、成功を祈りつつその夜は早目に寝についた。

               つづく 次回

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