日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー130   ( 土佐の南学-3 ・谷 時中と 野中兼山 )

2009-07-17 18:31:48 | 幕末維新
田中河内介・その129 

外史氏曰

【出島物語ー41】

 土佐の南学―3

 梅軒以来、南学は徐々に土佐に強く浸透して、その流れの中から多数の知名の士を出した。 忍性 ・如淵 ・天質 が現われ、天質(てんしつ) の門から 慈沖 (還俗して谷 時中 ) が出た。 そしてこの 谷 時中 の門から 野中兼山 ・小倉三省 ・山崎闇斎 らが輩出、また、兼山失脚により 一時途絶えた土佐の南学を 再興したのが、闇斎門下の 谷 秦山(じんざん) である。 その後、統を伝えて 幕末に至り 坂本竜馬、中岡慎太郎 ら土佐勤王党の志士たちの多くは いずれもこの流れより出ている。 極端に言えば 維新における土佐の功業は、南学伝統のいたす所である。 その系統は概略以下のようになる。

 南村梅軒  ―谷 時中 (たにじちゅう)  ―野中兼山 (のなかけんざん)  ―山崎闇斎 (やまさきあんさい)  ―谷 秦山 (たにじんざん)  ―鹿持雅澄 (かもちまさずみ)  ―武市瑞山

谷時中

 土佐では、慶長五年、長宗我部 が滅び、遠州掛川から 山内一豊 が乗り込んできた。 戦国が治まり 徳川政権下での封建体制が始まった。 これまで戦国武士を対象としてきた南学は、ここにおいて 平和時代に対応した新しい内容を具えた 学風へと転回する。 長浜 雪蹊寺(せつけいじ) の僧 天質 の高弟 谷時中 がその重要な役割を演じます。
 もともと南学は 仁義忠孝 という精神的道義の学であり、経済とか 産業とかいったような 物質的方面は全くなおざりにされていた。 寧ろこうした方面の事は南学の内容としては 取り扱われていなかったのである。 しかし 時中の考えでは、平和時代の学問というものは 単なる精神主義だけではいけない、在来の道義的学風に 物質的経済主義を織込み 利用 ・厚生 ・殖産 ・興業 という方面に発展して、物心両面を併せ持つ学問に進展しなければならないということであった。 彼 自らも 僧侶でありながら、海岸の埋立工事を行い、数十町歩の新田を造成して 数百石の 大地主になっています。 これは その学問上の主義主張を 実際に移して実現したのに ほかなりません。 学行不二 ・対用一源 ということが 南学の重要な一特色であったからです。 この時中の 経済主義学風の感化を最も多く受け、その事業の跡を継いだのが 門人 野中兼山 で、土佐藩政史上 空前の経世事業家として 偉大なる事業を成し遂げました。
 時中の業績としては 次に師道の確立があります。 当時、人々は君父の尊ぶべきは知っていましたが、教師を重んずることは知りませんでした。 無位無禄の 田舎寺の 僧侶の分際で、多数の官吏の上座に坐って学を講ずるのは、無礼極まりない というので、抜刀して時中に斬りかかって来たものがあった程、師道に関しては無知な時代でした。 このような時代に生まれてきた時中は、学問の権威、師道の尊厳を確立する為に、時には 暴徒の白刃を潜り、時には 藩主の権威に抗し、時には 一藩の要人を呼捨てにして 時人を覚醒させました。 時中の講席は極めて厳重で  「 師弟の間 さながら君臣の如し 」  と言われているのは、一に師道を厳にして 威武も屈する能わざる学問上の 精神王国を建設せんとする意図に 外ならなかったのであります。 この厳格なる師道は、その門弟の 山崎闇斎によって継承せられ 南学の師道として 広く天下に範を垂れました。 闇斎の弟子は 六千人と称せられます。 その一人々々に 闇斎の魂が分かち与えられたのです。 かくて熾烈(しれつ) なる時中精神は、闇斎によって広く天下の教風を興し、我が国師風の骨格を作り上げました。 この点からしても、 時中は、日本教育史に 特筆されるべき存在です。

 谷 時中 の門からは 野中兼山 ・小倉三省 ・山崎闇斎 らが輩出しましたが、そのうち 代表的人物で、時中門下の双生児とも言われるのは、先に挙げた 学問の山崎闇斎、為政者としての野中兼山 の二人です。 両者は単に有名というだけでなく、南学の特徴、風土的性格をよく代表する人物なので、以後、この二人に関しての話をしましょう。

 野中兼山は 山内一門の門閥に生れ、二十二歳で奉行になり、爾来二十八年間、土佐藩政を独宰して 空前絶後の経世的大手腕を振った 土佐藩政確立期の 有名な政治家であります。  一方、兼山より三歳年少の 山崎闇斎は、兼山就職の年に 京都妙心寺から 土佐の吸江寺へ転住、そこで偶然 兼山と相識るようになり 相携えて 時中の門下に参じ、その教育を受けることになりました。 かくて 兼山と一緒に学を講ずること八年、学なって後、京都に帰って私塾を開きました。 このように 闇斎の学問というものは 実は土佐の学問で、その 闇斎学派 といい 崎門学派 と呼ばれたものは、土佐南学 の一分派なのです。 殊に 感激多い青年期に 土佐に留学していた為に、学問のみならず その性格気質まで 土佐人の感化を受けています。  その深遠なる学殖と 卓抜の識見、厳粛なる師道 とを以て 声名は 群儒を圧し、前後六千人の子弟を教育して、多くの天下の俊材が その門下に育ちました。 殊に 晩年 垂加神道 を編み出し、滔々(とうとう) たる支那崇拝の儒学者中にあって、卓然として 日本主義的な新学風を樹立するや、その影響の及ぶ所、或は水戸尊王論の淵源となり、会津武士道の母胎となり、更に王政維新の志士の魂に入り込み その思想的背景となりました。 ここに到って南学は 最早一藩一郷の学問ではなく、天下を掩(おお) う大学風となり 明治維新の大風雲を捲起す元となったのです。


野中兼山

 野中兼山は 山内一門の 門閥に生れ、二十二歳で奉行になり、爾来二十八年間、土佐藩政を独宰し 空前絶後の経世的大手腕を振った 土佐藩政の確立期における有名な大政治家です。 しかも その企画性に富んでいたこと、その意志の強かったこと、実行力にすぐれていたことなどから 稀代の政治家、および経世家、同時に、学者、徳教家でもあった。 このような兼山は  「 南学 」  を藩政の指導理念としていました。

 土佐路を歩けば、 物部川、仁淀川 などの下流の水田地帯、土佐の大部分を占める山林、波の荒い土佐湾の船着場、風の強い海辺の松並木など、いたるところ 兼山の遺業をしのぶことが出来ます。 しかも、兼山の仕事はその場限りの仕事ではなく、どれを見ても 一つ一つ永遠性をもっています。 彼の事業のお蔭で 土佐の後進性が克服されました。 幕末の土佐藩の活動は、兼山の業績の賜物である といっても過言ではありません。

 兼山の 祖父 良平は 天正七年( 一五七九 )、三十一歳で早死にしています。 良平は 山内一豊の妹 慈仙院 (じせんいん) 合姫 (ごうひめ) を妻にしていました。 彼女は 良平より四歳若く、彼との間に 兼山の父 良明 及び 通女 を生みましたが、二十七歳で 夫 良平と死別。 彼女はその後 良平の弟 益継 に再嫁し、兼山の養父 直継 (なおつぐ) のほか二男一女を生みました。 兼山にとって 合姫は 実の祖母であり、また 養家の祖母でもあった。 このように 初代藩主の妹を祖母に持った事は、後の兼山の活動に 大きな影響を与えることになります。

 このような兼山の人生を決定付けたものには、つぎの二つの事が考えられます。
 その一つは 賢母 秋田氏( 名は萬 (まん) ) の庭訓(ていきん) のたまものだということです。
 父 野中良明 (よしあき) は故あって 浪々のまま 京都の客舎で病に罹り、元和四年( 一六一八 )、三十三歳の夫人と 四歳の一子 兼山 ( 他に二女・二男があったというが、育っていない ) を残し、四十六歳で 薄命の生涯を終りました。
 おちぶれて 残された親子は、やがて父の縁をたよって 土佐へやってくる。 当時、兼山の祖母 慈仙院も、祖父の弟 益継 も健在で、益継 が分家創立した 野中家 は栄えていました。 益継は 元和九年、六十二歳で亡くなりましたが 相当な人物でした。 慈仙院 との間には、兼山の養父 直継 のほかに、別に二男二女がありました。 兼山の養父 直継は 玄蕃 と呼ばれ、元和八年、三十六歳で奉行職に任ぜられています。 なお 直継の妻は 宿毛(すくも) の安東氏から出ており、一男二女がありましたが、長男が早世したので 兼山は 直継 の養子となっています。

 親類縁者は 執拗に 萬夫人 に再嫁を勧めましたが、夫人は一握の髫を断って墓前に供え、五首の歌を仏前に手向けて 二夫に見(まみ) えぬを誓い、その節操をまっとうしたのです。 彼女の前途の希望の光は 愛児 兼山 の生長です。 兼山を 亡夫の鬱憤(うっぷん) を晴らすだけの器量(きりょう) 人に育て上げる事が 彼女の唯一の念願で、彼女の後半生は、 このことに捧げられました。 夫人は 人並優れて内気な ものやさしい母親であり、柔順貞淑な妻でありましたが、 兼山を教育するにあたっては 最早甘い やさしい母親ではありませんでした。 彼女は先ず、理想的な男子の型をきめてその型へ兼山を鋳込もうという 規範的な教育方針をとりました。 その理想的な男子とは、亡夫 良明であったのです。 「 汝 先人の如く厳なれ 」  とも戒め、人に狎(な) れるは悪なり と迄訓えております。  兼山の人生を決定付けたもう一つのことは、学問 (いわゆる南学) でありました。 彼は父 良明の影響を受け、初め禅を修めたが、小倉三省(さんせい) の勧めで儒学に傾倒するようになり、南学の碩学(せきがく) 谷 時中(じちゅう) について学んだ。 小倉三省 ・山崎闇斎 たちの研究者グループと 研鑚に努め、藩政の要路にたってからは 南学者を保護し、名分論を中心とした 南学の理念を 政治や実生活の面に応用していきました。

 兼山は 祖母が山内一豊の妹であったことなども幸して、長年月 奉行職として土佐藩政を委任された。 二代藩主 忠義 の信頼によって、存分に その手腕 ・力量を発揮、特に南学より得た識見は高く、土佐藩政の上に多くの創見を残した。 山内氏入国以来の土佐藩政は 兼山により 最後の仕上げがなされたといってよい。
 南学による学問精神と 封建道徳の確立 ・郷士の取立て ・新田開発 ・土木工事の実施など を通じて、その施政前半は、後世に実り豊かなものを残す 大きな実績をあげたが、藩体制確立のための その徹底したやり方は、逆に領民を疲弊させ、また専売制への反発も強まり、施政後半にいたって ようやく破綻を迎えることになり、反兼山派 の抬頭をまねくことになった。 寛文三年( 一六六三 )七月、 反兼山派の重臣たちは、三代藩主 忠豊 のもとに結集、兼山の権力の座は十日足らずで崩壊した。 クーデターである。 このようにして兼山は、四十九歳の年、二十七年間すわっていた権力の座から 追い落とされた。 
 一世を聳動(しょうどう) した権力者も、権力の座を失えば孤影(こえい) 悄然(しょうぜん) として消えいくのみ。 兼山は隠居願いを出し、その中で、長男 清七 もようやく生長したから、清七 に家督を相続させてもらいたいと訴え、この願いは、九月十四日になって聞き届けられた。 隠居を許された兼山は、中野 ( 今の土佐山田町 ) にあった私領の屋敷に隠居して, 病身の身を 古槙(こまき) 次郎八 ら 僅かの家臣に守られながら、読書に親しんでいたが、その間 わずか四カ月足らずの 寛文三年( 一六六三 )十二月十五日に 急死し、同月十七日、潮江山に葬られた。 なお、兼山の葬儀の折、家臣 古槙次郎八 が殉死している。  十八歳であった。

          
          野中兼山肖像 原画は後年公文菊僊画伯が作成したものと伝えられる
          ( 「 土佐 その風土と史話 」 平尾道雄執筆・監修 より )


 兼山の死後 反対派の新政権がとった処置は、非人道極まる 世にも陰湿なものでした。 新政権は 兼山を責めて 翌年三月二日、野中家 を改易し、その遺族全部を 宿毛 (すくも) に流して監禁したばかりでなく、子女の結婚を禁止して 子孫の絶滅をはかり、監禁実に四十年、四人の男子全部を幽囚の中に死なせました。 当然 野中家の血脈は断絶したわけで、兼山一族の罪が解かれたのは、それから百八十三年後の 嘉永元年( 一八四八年 )七月二十七日のことでした。

 次回は 野中兼山一族 の悲劇をとり上げます。

                  つづく 次回

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