田中河内介・その130
外史氏曰
【出島物語ー42】
土佐の南学―4
寛文の改替と南学の四散
兼山失脚の政変により、土佐藩政の施政に大変革が加えられました。 いわゆる 寛文の改替(かいたい) と呼ばれるもので、土佐藩政に一時期を画するものです。 民力の休養と 経済活動の制限緩和 が行なわれ、兼山施政前 を基準にして藩政は運営されることになりました。 しかも兼山の施政の成果は刈り取られました。 また 「 南学 」 を藩政の指導理念とし、南学者を保護していた兼山の失脚と死去は、南学者に対する未曾有の迫害を生みました。 南学者は 政治界より一掃せられ、哲人政治は 挫折、学徒は 国外に放逐せられ、南学の空白の三十年 ( 所謂南学一空時代 ) と言われる時代が訪れ、土佐は再び 学問なき闇黒の時代に戻りました。
兼山の失脚と一族の悲劇
野中兼山は、寛文三年( 一六六三 ) に失脚、同年十二月十五日に急死した。
『 改替派の新政権は、まず兼山に謀反の企てがあったと流言して人心を動揺させ、死後三ヵ月後の 翌年三月二日、武力を行使して野中家を取り潰した。 野中家の改易の理由として、同日付の忠豊の書状によると、
一、私欲依怙(えこ) による政治。
一、忠義・忠豊の離間を策したこと。
一、御蔵銀の恣(ほしいまま) な消費。
一、改替に反対して流言を放った事。
一、金銀を貪(むさぼ) り他国迄商売をやらせたこと。
一、諸法度を厳しく実施しながら自分はこれを守らなかった。
というものである。 また 『 普顕記 』 にはこのほかに、郷士に勝手に知行を与えたこと、江戸上り下りの船などで分を越した奢(おご) りがあったと付け加えている。 改替派としては、何とかして兼山に悪名を負わせて、その政権の安泰を図りたいと考えた結果と思われる。
兼山の長男 清七は 厳戒のうちに 山内( 安東 )左衛門佐の邸で、深尾帯刀(たてわき) ・山内彦作 ・山内左衛門佐 ( いずれも野中家姻戚 )、この三人から野中家改易後の処置を申し渡された。 』 ( 「 野中兼山 」 横川末吉著より )
兼山の妾 四人、兼山の子 八人 【 米(よね)・十八歳( 一説に十九歳 )、 一明(かずあき)( 清七 )・十六歳、 明継(あきつぐ)( 欽六 )・十五歳、 継業(つぐなり)( 希四郎 )・八歳、 寛(かん)・七歳、 婉(えん)・四歳、 将(しょう)・三歳、 行継(ゆきつぐ)( 貞四郎 )・二歳 】 と、譜代の家来達を加えた二十二人は、船二艘に分乗して宿毛に遷された。 なお 兼山の長女 米 は 高木四郎左衛門 に嫁し、一女をあげていましたが、親の罪により、離婚させられ宿毛に送られている。
彼ら兼山の遺子たちの宿毛における生活は それは悲惨なものでした。 罪人として山内左衛門佐 の厳重な監視下に監禁。 しかも、監禁したばかりでなく、子女の結婚を禁止して子孫の絶滅をはかり、監禁実に四十年、四人の男子が全て死に絶えたのは、元禄十六年( 一七〇三 )でした。 男子が死に絶えた後、牢屋は、婉女ら三人の姉妹だけが淋しく生き残るだけとなった。 この姉妹に赦免のお触れが突然届いたのは、この年の九月であった。
野中婉女
野中婉女 (えんじょ) は、兼山の子五人姉妹のうちの 第四女として 寛文元年( 一六六一 ) に高知に生れた。 婉女三歳の時に 中野に幽閉中の父が病死、その翌年三月、彼女は その母 及び 七人の兄弟姉妹と共に幡多(はた) の宿毛に 追いやられて 蟄居の身となりました。 一族同胞婚家を禁ぜられ、生きながら葬られるという世にも残酷な処刑の人となったのです。 宿毛の北方、人里離れた山峡の一軒屋に 昼夜獄吏に見張られて、四十年間幽囚の裡に彼女は暮しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/d7/9099292b80169cdddfff4d5409ac744b.jpg)
野中一族幽居の跡 ( 宿毛市萩原西明寺谷 )
( 土佐 その風土と史話 平尾道雄監修 より )
この間、三男 継業(つぐなり) の才を愛した谷秦山 (じんざん) は、貞享四年( 一六八七 )、二十五歳の時に、幡多郡 (はたぐん) の旅に出て、誰訪れることない獄舎に、哀れな兼山の遺児を訪ねましたが、家は青竹を以て囲い、獄吏の警固物々しく 秦山 を近づけません。 余りの痛わしさに 秦山 は慟哭(どうこく) 嗚咽(おえつ) して 空しく謫居(たっきょ) の門を去り、継業(つぐなり) に懇篤な手紙を送って 之を慰諭激励しています。 それが縁となって 継業は 獄舎の中より遥かに書を寄せて 秦山 に師事し、婉女(えんじょ) また師父の如く 秦山 を慕い、兄妹相励まして 只管(ひたすら) 経学(けいがく) の研究に幽囚の悶(もん) を遣(や) っておりました。 藩政府を恐れて、誰一人訪れることない宿毛の獄舎を訪れ、また励ました 秦山 の行為は、大変に勇気のいることです。 このように、世の中の大勢に流されることなく、正しい人を正しいと認め、正しい人を見舞い、その心をなぐさめるというところに、本当の勇気があります。 これこそ 正をふんで恐れぬ土佐人根性の典型と申せましょう。
秦山は、後に彼らの幽囚生活を 「 一室に東西を失う 」 といっています。 彼ら兼山遺児たちは、その生い立ちからして、このような 残酷・苛酷 な環境に耐えることは難しいでしょう。 先ず 米(よね) が寛文七年( 一六六七 ) に二十一歳で、 ついで 延宝七年( 一六七九 ) に長兄 清七一明(かずあき) が三十一歳で死に、 それから四年目の天和三年( 一六八三 ) には 次兄 欽六(きんろく) 明継(あきつぐ) が 三十四歳で悶死、 継いで元禄十一年( 一六九八 )、叔兄 希四郎継業(つぐなり) が 四十二歳でその後を追い、 そして元禄十六年( 一七〇三 ) には、末弟 貞四郎行継(ゆきつぐ) が 四十一歳で亡くなり、 これで男の兄弟は皆死に絶え、 牢屋は、寛 (かん) ・婉 (えん) ・将 (しょう) ら三人の姉妹だけが淋しく生き残るだけとなりました。 そしてこの年の九月に残った三人の姉妹は思いかけず赦免されました。
女子の中で 婉 (えん) 女は 学問、徳操、容貌ともにすぐれた稀代の才媛でありました。 生き残った他の女子は 宿毛に永住しましたが、彼女は 八十歳に餘った老母と乳母とをつれて高知に帰り、旧臣 井口家 をたよって 城西朝倉の多寳院(たほういん)( 地名 ) にわび住いを定めました。 四つの時に囚われた婉女は、帰った時は四十三歳にもなっていました。 彼女はそれから世を終るまでの二十余年間を、兼山の娘たる誇りを失わず、兼山の功績を顕(あらわ) し、野中家 の祭りを絶やさないための努力に費やしました。
高知に帰っても、藩府を憚(はばか) って旧臣縁者これを扶(たす) ける者もなく、忽(たちま) ち 生活の資(し) に窮(きゅう) しました。 時たま訪ね来る人があっても、障子の破れ穴から顔差出して応答するのが常だったと云われています。 みすぼらしい今の身形を恥じねばならなかった婉女だったのです。 三度の食事もままならず、乳母が密かに家伝の手斧(ておの) を売って米に代えたという哀話も伝わっています。 それを聞いて婉女は、手斧もたべられるものかと乳母にからかったと言います。 そこで婉女は俄かに 医術や薬物の書を読んで医者となり、越鞠丸という売薬を拵(こしら) え、旧臣の 伊藤益右衛門 に売らせてかぼそい生計を立てました。 患者が来ても彼女は直々対面せず、患者の手首に吊るした糸によって 襖越に見脈して病を見たそうです。 それがよく的中して後世までも 「 野中の糸脈 」 として伝えられています。 刑餘の身を憚(はばか) ってか、姿態のみすぼらしさを恥じてか、それとも 前奉行兼山の娘だという誇りを持った婉女の気節故か。
彼女が生き延びた二十年間は、殆ど一室に閉居(へいきょ) して他出せず、たまたま外出すれば 夜間覆面して行ったものです。 どんな場合にも 伝家の一刀を腰に佩(お) びることを忘れませんでした。 一日急用があって昼間駕輿(かご) で高知へやってくる途中、今を時めく家老 山内監物 の長子 舎人(とねり) の騎馬に出会いました。 駕夫(かふ) が懼(おそ) れて 途を避けようとすると、駕輿の中から 「 前奉行 兼山の娘であるぞ、道を避けるには及ばぬ 」 と凛乎(りんこ) たる婉女の聲です。 婉は兼山の娘であることを誇りとして、胸を張って生き抜いたが、その生活は貧しく、母と乳母を養う為に医を業としたが、それだけでは生活はむつかしかった。 彼女が藩の扶持米を受けたのはそのためという。
また彼女を 旧臣 某 に嫁せしめよとの藩主の内命のあった時、 「 妾不幸にして零落(れいらく) すと雖も 苟(いやし) くも兼山の娘である。 飽食(ほうしょく) 暖衣(だんい) を欲して 志を屈し、身を下して旧臣の妻たらんや 」 と 一言の下に斥(しりぞ) けて 生涯處女の操を立て通しています。 当時封建の世に在っては身分格式の違った結婚は家門の恥だというのが一般の通念だったのです。
こうした貧しいなかで、赦免第六年の 宝永五年( 一七〇八 )、婉女は 香美郡(かがみぐん) 野地村( 土佐山田町 ) の 古槙重矩 (こまきしげのり) の隣りに地を求め、祠堂(しどう) を建て、死に絶えた野中氏一門にあわせて 兼山 に殉死した 古槙次郎八 などの旧忠臣をも祭りました。 彼女が獄中で、 「 天 我に生を与ふれば、必ず赦を得べし。 然れば 他所に移りて其時を期して祖廟を造らん 」 ( 『 野中氏祠堂記 』 ) という決心が、旧臣古槙氏らの援助によって実を結んだものです。 これが今に有名な 「 お婉堂 」 です。
『 祠堂記 』 で彼女は、祠堂建立の由来を述べているが、配所生活四十年の間につぎつぎに肉親を失った悲しみと、野中家廃絶による祖先の祭祀の失われることに対する悲しみとが溢れています。
また罪人の墓というので 参る者もなく荒廃していた潮江山の墓地を修理し、父母兄弟のために立派な墓石を建てました。 生母 池氏は 赦免の翌冬八十二歳で病死しました。 赦免になっても、日短くして母を葬った婉女の心中は如何ばかりであったでしょうか。 「 哀女婉泣植焉 」 という文字を読んで たれか愴然(そうぜん) たらざる者がありましょう。 また 忠実な乳母と 古槙の墓石も建てて その忠誠を表彰しました。
かくて 宝永五年九月二十二日、野地の祠堂で 世にも悲しき祖廟の祭典が営まれました。 「 謹奉告配所四十年 」 と血涙を絞(しぼ) って婉女は祭文を読みました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/ca/377428ca1677e22f9457f4babfdf8773.jpg)
お婉堂 ( 土佐山田町 )
( 土佐 その風土と史話 平尾道雄監修 より )
今は世に思い残すことなく 書を以て 秦山に師事し、深く経学に参入して詩歌に幽懐を述べ、享保十年( 一説に十三年 )、独身のままで その数奇な一生を朝倉で没しました。 六十五歳でした。 ( 『 南学読本 』 中島鹿吉著より )
野中家は、享保十四年( 一七二九 )、寛 (かん) の死を最後に完全に絶えました。 なお 兼山の死後、その遺徳を慕う民衆は 兼山にゆかりのある各地に祠堂を建ててこれを祭りました。 高知市五台山公園の登山口の近くにある 兼山神社 は もと県社として建てられたものです。
谷 時中の門では、為政者としての野中兼山と共に、学問の 山崎闇斎 が有名です。 闇斎の 崎門学派 は 幕末維新に 絶大なる影響を与えました。 次回はこの 山崎闇斎 に関しての話です。
つづく 次回
外史氏曰
【出島物語ー42】
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寛文の改替と南学の四散
兼山失脚の政変により、土佐藩政の施政に大変革が加えられました。 いわゆる 寛文の改替(かいたい) と呼ばれるもので、土佐藩政に一時期を画するものです。 民力の休養と 経済活動の制限緩和 が行なわれ、兼山施政前 を基準にして藩政は運営されることになりました。 しかも兼山の施政の成果は刈り取られました。 また 「 南学 」 を藩政の指導理念とし、南学者を保護していた兼山の失脚と死去は、南学者に対する未曾有の迫害を生みました。 南学者は 政治界より一掃せられ、哲人政治は 挫折、学徒は 国外に放逐せられ、南学の空白の三十年 ( 所謂南学一空時代 ) と言われる時代が訪れ、土佐は再び 学問なき闇黒の時代に戻りました。
兼山の失脚と一族の悲劇
野中兼山は、寛文三年( 一六六三 ) に失脚、同年十二月十五日に急死した。
『 改替派の新政権は、まず兼山に謀反の企てがあったと流言して人心を動揺させ、死後三ヵ月後の 翌年三月二日、武力を行使して野中家を取り潰した。 野中家の改易の理由として、同日付の忠豊の書状によると、
一、私欲依怙(えこ) による政治。
一、忠義・忠豊の離間を策したこと。
一、御蔵銀の恣(ほしいまま) な消費。
一、改替に反対して流言を放った事。
一、金銀を貪(むさぼ) り他国迄商売をやらせたこと。
一、諸法度を厳しく実施しながら自分はこれを守らなかった。
というものである。 また 『 普顕記 』 にはこのほかに、郷士に勝手に知行を与えたこと、江戸上り下りの船などで分を越した奢(おご) りがあったと付け加えている。 改替派としては、何とかして兼山に悪名を負わせて、その政権の安泰を図りたいと考えた結果と思われる。
兼山の長男 清七は 厳戒のうちに 山内( 安東 )左衛門佐の邸で、深尾帯刀(たてわき) ・山内彦作 ・山内左衛門佐 ( いずれも野中家姻戚 )、この三人から野中家改易後の処置を申し渡された。 』 ( 「 野中兼山 」 横川末吉著より )
兼山の妾 四人、兼山の子 八人 【 米(よね)・十八歳( 一説に十九歳 )、 一明(かずあき)( 清七 )・十六歳、 明継(あきつぐ)( 欽六 )・十五歳、 継業(つぐなり)( 希四郎 )・八歳、 寛(かん)・七歳、 婉(えん)・四歳、 将(しょう)・三歳、 行継(ゆきつぐ)( 貞四郎 )・二歳 】 と、譜代の家来達を加えた二十二人は、船二艘に分乗して宿毛に遷された。 なお 兼山の長女 米 は 高木四郎左衛門 に嫁し、一女をあげていましたが、親の罪により、離婚させられ宿毛に送られている。
彼ら兼山の遺子たちの宿毛における生活は それは悲惨なものでした。 罪人として山内左衛門佐 の厳重な監視下に監禁。 しかも、監禁したばかりでなく、子女の結婚を禁止して子孫の絶滅をはかり、監禁実に四十年、四人の男子が全て死に絶えたのは、元禄十六年( 一七〇三 )でした。 男子が死に絶えた後、牢屋は、婉女ら三人の姉妹だけが淋しく生き残るだけとなった。 この姉妹に赦免のお触れが突然届いたのは、この年の九月であった。
野中婉女
野中婉女 (えんじょ) は、兼山の子五人姉妹のうちの 第四女として 寛文元年( 一六六一 ) に高知に生れた。 婉女三歳の時に 中野に幽閉中の父が病死、その翌年三月、彼女は その母 及び 七人の兄弟姉妹と共に幡多(はた) の宿毛に 追いやられて 蟄居の身となりました。 一族同胞婚家を禁ぜられ、生きながら葬られるという世にも残酷な処刑の人となったのです。 宿毛の北方、人里離れた山峡の一軒屋に 昼夜獄吏に見張られて、四十年間幽囚の裡に彼女は暮しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/d7/9099292b80169cdddfff4d5409ac744b.jpg)
野中一族幽居の跡 ( 宿毛市萩原西明寺谷 )
( 土佐 その風土と史話 平尾道雄監修 より )
この間、三男 継業(つぐなり) の才を愛した谷秦山 (じんざん) は、貞享四年( 一六八七 )、二十五歳の時に、幡多郡 (はたぐん) の旅に出て、誰訪れることない獄舎に、哀れな兼山の遺児を訪ねましたが、家は青竹を以て囲い、獄吏の警固物々しく 秦山 を近づけません。 余りの痛わしさに 秦山 は慟哭(どうこく) 嗚咽(おえつ) して 空しく謫居(たっきょ) の門を去り、継業(つぐなり) に懇篤な手紙を送って 之を慰諭激励しています。 それが縁となって 継業は 獄舎の中より遥かに書を寄せて 秦山 に師事し、婉女(えんじょ) また師父の如く 秦山 を慕い、兄妹相励まして 只管(ひたすら) 経学(けいがく) の研究に幽囚の悶(もん) を遣(や) っておりました。 藩政府を恐れて、誰一人訪れることない宿毛の獄舎を訪れ、また励ました 秦山 の行為は、大変に勇気のいることです。 このように、世の中の大勢に流されることなく、正しい人を正しいと認め、正しい人を見舞い、その心をなぐさめるというところに、本当の勇気があります。 これこそ 正をふんで恐れぬ土佐人根性の典型と申せましょう。
秦山は、後に彼らの幽囚生活を 「 一室に東西を失う 」 といっています。 彼ら兼山遺児たちは、その生い立ちからして、このような 残酷・苛酷 な環境に耐えることは難しいでしょう。 先ず 米(よね) が寛文七年( 一六六七 ) に二十一歳で、 ついで 延宝七年( 一六七九 ) に長兄 清七一明(かずあき) が三十一歳で死に、 それから四年目の天和三年( 一六八三 ) には 次兄 欽六(きんろく) 明継(あきつぐ) が 三十四歳で悶死、 継いで元禄十一年( 一六九八 )、叔兄 希四郎継業(つぐなり) が 四十二歳でその後を追い、 そして元禄十六年( 一七〇三 ) には、末弟 貞四郎行継(ゆきつぐ) が 四十一歳で亡くなり、 これで男の兄弟は皆死に絶え、 牢屋は、寛 (かん) ・婉 (えん) ・将 (しょう) ら三人の姉妹だけが淋しく生き残るだけとなりました。 そしてこの年の九月に残った三人の姉妹は思いかけず赦免されました。
女子の中で 婉 (えん) 女は 学問、徳操、容貌ともにすぐれた稀代の才媛でありました。 生き残った他の女子は 宿毛に永住しましたが、彼女は 八十歳に餘った老母と乳母とをつれて高知に帰り、旧臣 井口家 をたよって 城西朝倉の多寳院(たほういん)( 地名 ) にわび住いを定めました。 四つの時に囚われた婉女は、帰った時は四十三歳にもなっていました。 彼女はそれから世を終るまでの二十余年間を、兼山の娘たる誇りを失わず、兼山の功績を顕(あらわ) し、野中家 の祭りを絶やさないための努力に費やしました。
高知に帰っても、藩府を憚(はばか) って旧臣縁者これを扶(たす) ける者もなく、忽(たちま) ち 生活の資(し) に窮(きゅう) しました。 時たま訪ね来る人があっても、障子の破れ穴から顔差出して応答するのが常だったと云われています。 みすぼらしい今の身形を恥じねばならなかった婉女だったのです。 三度の食事もままならず、乳母が密かに家伝の手斧(ておの) を売って米に代えたという哀話も伝わっています。 それを聞いて婉女は、手斧もたべられるものかと乳母にからかったと言います。 そこで婉女は俄かに 医術や薬物の書を読んで医者となり、越鞠丸という売薬を拵(こしら) え、旧臣の 伊藤益右衛門 に売らせてかぼそい生計を立てました。 患者が来ても彼女は直々対面せず、患者の手首に吊るした糸によって 襖越に見脈して病を見たそうです。 それがよく的中して後世までも 「 野中の糸脈 」 として伝えられています。 刑餘の身を憚(はばか) ってか、姿態のみすぼらしさを恥じてか、それとも 前奉行兼山の娘だという誇りを持った婉女の気節故か。
彼女が生き延びた二十年間は、殆ど一室に閉居(へいきょ) して他出せず、たまたま外出すれば 夜間覆面して行ったものです。 どんな場合にも 伝家の一刀を腰に佩(お) びることを忘れませんでした。 一日急用があって昼間駕輿(かご) で高知へやってくる途中、今を時めく家老 山内監物 の長子 舎人(とねり) の騎馬に出会いました。 駕夫(かふ) が懼(おそ) れて 途を避けようとすると、駕輿の中から 「 前奉行 兼山の娘であるぞ、道を避けるには及ばぬ 」 と凛乎(りんこ) たる婉女の聲です。 婉は兼山の娘であることを誇りとして、胸を張って生き抜いたが、その生活は貧しく、母と乳母を養う為に医を業としたが、それだけでは生活はむつかしかった。 彼女が藩の扶持米を受けたのはそのためという。
また彼女を 旧臣 某 に嫁せしめよとの藩主の内命のあった時、 「 妾不幸にして零落(れいらく) すと雖も 苟(いやし) くも兼山の娘である。 飽食(ほうしょく) 暖衣(だんい) を欲して 志を屈し、身を下して旧臣の妻たらんや 」 と 一言の下に斥(しりぞ) けて 生涯處女の操を立て通しています。 当時封建の世に在っては身分格式の違った結婚は家門の恥だというのが一般の通念だったのです。
こうした貧しいなかで、赦免第六年の 宝永五年( 一七〇八 )、婉女は 香美郡(かがみぐん) 野地村( 土佐山田町 ) の 古槙重矩 (こまきしげのり) の隣りに地を求め、祠堂(しどう) を建て、死に絶えた野中氏一門にあわせて 兼山 に殉死した 古槙次郎八 などの旧忠臣をも祭りました。 彼女が獄中で、 「 天 我に生を与ふれば、必ず赦を得べし。 然れば 他所に移りて其時を期して祖廟を造らん 」 ( 『 野中氏祠堂記 』 ) という決心が、旧臣古槙氏らの援助によって実を結んだものです。 これが今に有名な 「 お婉堂 」 です。
『 祠堂記 』 で彼女は、祠堂建立の由来を述べているが、配所生活四十年の間につぎつぎに肉親を失った悲しみと、野中家廃絶による祖先の祭祀の失われることに対する悲しみとが溢れています。
また罪人の墓というので 参る者もなく荒廃していた潮江山の墓地を修理し、父母兄弟のために立派な墓石を建てました。 生母 池氏は 赦免の翌冬八十二歳で病死しました。 赦免になっても、日短くして母を葬った婉女の心中は如何ばかりであったでしょうか。 「 哀女婉泣植焉 」 という文字を読んで たれか愴然(そうぜん) たらざる者がありましょう。 また 忠実な乳母と 古槙の墓石も建てて その忠誠を表彰しました。
かくて 宝永五年九月二十二日、野地の祠堂で 世にも悲しき祖廟の祭典が営まれました。 「 謹奉告配所四十年 」 と血涙を絞(しぼ) って婉女は祭文を読みました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/ca/377428ca1677e22f9457f4babfdf8773.jpg)
お婉堂 ( 土佐山田町 )
( 土佐 その風土と史話 平尾道雄監修 より )
今は世に思い残すことなく 書を以て 秦山に師事し、深く経学に参入して詩歌に幽懐を述べ、享保十年( 一説に十三年 )、独身のままで その数奇な一生を朝倉で没しました。 六十五歳でした。 ( 『 南学読本 』 中島鹿吉著より )
野中家は、享保十四年( 一七二九 )、寛 (かん) の死を最後に完全に絶えました。 なお 兼山の死後、その遺徳を慕う民衆は 兼山にゆかりのある各地に祠堂を建ててこれを祭りました。 高知市五台山公園の登山口の近くにある 兼山神社 は もと県社として建てられたものです。
谷 時中の門では、為政者としての野中兼山と共に、学問の 山崎闇斎 が有名です。 闇斎の 崎門学派 は 幕末維新に 絶大なる影響を与えました。 次回はこの 山崎闇斎 に関しての話です。
つづく 次回