日本国家の歩み 


 外史氏曰

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ものすごい先生たちー129   (土佐の南学-2  ・南村梅軒と その道義学風 )

2009-07-12 15:21:46 | 幕末維新
田中河内介・その128 


外史氏曰

【出島物語ー40】

 土佐の南学―2

梅軒の道義学風

 『 城主 吉良宣経は この遠来の儒者 梅軒 を城中に迎え 、第一に 儒学とは何ぞやという質問をしました。  一切の物の道理を知る学問だ と梅軒は答えました。 而して 梅軒は  儒学を 小人儒、 腐儒(ふじゅ)、 曲儒、 君主儒、 達儒、 真儒 の六段階に分類し、諄々(じゅんじゅん) として 説明を与えています。
 小人儒 とは、真理の根源を突き止めず、うわべばかりに物を覚え、それを以て名を求め、利を漁(あさ) る方便に使うものだ と申しました。 今日でも人格修養という事は等閑(とうかん) に附して、只管 立身出世するの途が 学問だと考えて、本末を取違えた人が 随分と多くいます。 これは梅軒の所謂 小人儒 の部類に入ります。
 次に 訓詁(くんこ) の学ともいうべきものを 腐儒 と称(とな) えまして、徒に字句の詮議(せんぎ) に捕われ 文字の末に泥(なず) んで 当世に役立たない学問だと申しました。
 曲儒 というのは、学問をする目的を 自己の修養に置かずして、好んで世を罵(ののし) り、人を嘲(あざけ) るという方面に 悪用するものだと説いております。 
かかる三様の 似非(えせ) 儒学を挙げて、先ず学問の輪郭(りんかく) を明かにして 次第に儒学の真諦(しんたい) に説き進んで参ります。

 先ず学問の本体を 忠孝仁義の 道徳実践に置き 五倫五常の価値を認識し、之を研究し 之を体得するものが 君主儒 であり、それが 機(き) に臨(のぞ) み 変に応じて 自由自在に活用出来て 矩(のり) に違わぬ境地に至るものを 達儒 と呼んでおります。 この 君主儒 と 達儒 とは、同じものを 違った方面から観察したもので、一は原理の修得であり、他はその実践応用であります。 畢竟(ひっきょう)、体と用との相違である。
 この 体用 を打って一丸とした総合的の境地を 真儒 と称えて  「 大道を自得し 言行一致して いつわりなく、心貌(ぼう) 一向(いっこう) して雑(ざつ) ならず、君父に事(つか) えるも この道を以てし、臣妾(しんしょう) を使うも この道を以てし、家を齋(ととの) え、国を治めるも この道なり。 天下を平かにし 四海九州を弘(ひろ) め行うも この道にして 聊(いささ) かも他術を雑(まじ) うることなきものなり。」  と説明を与えています。

 梅軒が理想とする学問は、この数行の文字の中に盛られています。 即ち 訓詁(くんこ) の学に非ず、功利の術に非ず、浮文(ふぶん)詞章(ししょう) に非ずして、ただ一向きに道義道徳の学問であります。 即ち 修身も 齋家も 政治も 経済も、否、宇宙人生の一切を 道義に依って貫(つらぬ) かんとする学風であります。
 一体、戦国時代というものは 道義も道徳も全く顧みられなかった時代です。 こういう時代に 道義道徳などを説いた所で 採用されるものでないことは 春秋戦国に 孔子、孟子が志を得なかったことによっても明かであります。
 商鞅 (しょうおう) という人が、秦の 孝公 に遊説して 初め帝道を説いた所が、孝公は眠って聴かぬ。 次に王道を申上げた所が 同様である。 第三日に至って 覇道(はどう) を進言した所が、大いに喜んで 之を用いたという話があり、また 范睢 (はんしょ) という人も、秦の 襄王 (じょうおう) に 遠交近攻(えんこうきんこう) の策を献策(けんさく) して用いられ、蘇秦張儀 (そしんちょうぎ) は 合従連衡(がっしょうれんこう) の策を以て 六国(りっこく) の宰相となっているという塩梅(あんばい) に、戦国の世の説客(ぜいかく) というものは、何れも 仁義忠孝の王道を措(お) き、権謀術数(けんぼうじゅっすう) の覇道(はどう) を進言して成功しています。
 然るに これ等 群儒の顰(ひん) に 傚(なら) わずして 一切の功利を斥(しりぞ) け、方便を排し 直に純粋の道義道徳を以て 戦国武将の 宣経 に進言した 梅軒 こそ、ただちに 孔子の志を継ぐ人とも称すべきでないでしょうか。 而して この梅軒の進言を受け入れて道義学の研究に没頭した宣経も亦 稀世(きせい) の明主と謂うべきではないでしょうか。 ここに土佐南学の基礎が定まったのです。 儒学の他の学派と違った南学独特の道義的学風が定まった訳です。 これが生長発展して、或は 吉良落城史 を彩る 忠臣 ・節婦の事績 となり、強靭不撓(きょうじんふとう) の 長宗我部(ちょうそがべ) 武士道 となり、爾来(じらい) 四百年間、土佐人の教育精神となり生活綱領(こうりょう) となって 明治維新史上の土佐勤王の志士達にその規範(きはん) 精神を 垂(た) れております。
 想えば梅軒こそは 土佐学の進むべき指導精神を作った最初の偉大なる教育者というべきです。 かくて 宣経、梅軒 は 劉備(りゅうび)、孔明(こうめい) の如き 水魚の交わりを訂して、吉良御殿に 幾年か講学を続けて、吉良一門子弟の人格を陶冶(とうや) し、彼の理想とする王道政治をして 土佐七郡の間に燦然(さんぜん) たる光を放つに至らしめたのであります。 』  ( 南学読本 中島鹿吉著 )

 なお 上記文中における、「 吉良落城史を彩る忠臣・節婦の事績 」。 「 強靭不撓(きょうじんふとう) の長宗我部(ちょうそがべ) 武士道 」。  これらに関する説明は、紙面の都合上 ここでは省略いたします。 機会をとらえて 是非勉強してください。


吉良宣経

 宣経は さすが源家の血脈を引いただけあって、僅か三千貫の田舎領主でありながら 志は常に 天下国家に向っておりました。 常々彼は人に 

      「 願わくば生涯の内に中原(ちゅうげん) に馬を入れ 上方に旗を立て、東国の強敵を引承けて勇を争い
       智を闘(たたか) わし 花々しく軍して、 誠は義朝の末葉なりと 天下の侍に言わるれば、希義 以来
        かかる夷(えびす) に埋もれて人知れず朽ち果てし その神霊も喜び玉いなん 」 

と語り、着々とその為の軍略を運(めぐ) らしていました。  しかし、壮図(そうと) 空(むな) しくして 陣中に病を得て没しました。 三十八歳でした。 人々は大変にこれを惜しみ 

      「 豫州(よしゅう)( 宣経 ) 十年死せずんば旌旗(せいき) 中州(ちゅうしゅう) を蔽(おお) わん。 
       況(いわん) や四国討平のこと 何ぞ 元親(もとちか)  を待たんや 」
 
と言ったそうです。 彼が 聖雄(せいゆう) と呼ばれるのは この気魄(きはく) があったからです。
 なお ここで 元親とは 長宗我部元親のことです。 

 不幸にして 天文二十年( 一五五一 )九月、吉良宣経が 長宗我部氏討伐の陣中にて病を得て没すると、梅軒は

      「 旻天(びんてん) 不憫(あわれ) 奪元勲、恰若妖星阨蜀軍、満目潛然明未滅、丹心願染素絲君。」

という挽詩(ばんし) 一篇を残して 人知れずどこかへ消えて行きました。 後嗣(こうし) の 宣直 の暗愚に 愛想をつかして土佐を離れたとも言われています。 また、同じ天文二十年九月一日には、旧主 大内義隆が 家臣の 陶(すえ) 隆房( 晴賢(はるかた) ) に襲われ、長門 深川(ふかわ) の 大寧(たいねい)寺 ( 長門市湯本温泉 ) で 自害に追い込まれていますので、この事も梅軒に 何らかの影響を与えたのかも知れません。 歴史は彼の終焉を語らず、その墓さえ分りません。 しかし、梅軒はその後 周防に帰り、大内義長 ( 豊後の大友宗麟の弟、晴英。 大内義隆の甥。 陶隆房によって大内氏三十二代として擁立される ) の御伽衆の一員となったが、弘治三年( 一五五七 )四月三日、毛利元就 に攻められて 義長 が 長府の長福寺( 現在の功山寺 ) で自刃して 大内氏が名実共に滅びると、彼は周防国吉敷郡上宇野郷白石 ( 山口市 ) に隠棲し、この地で没したとも言われています。


大内氏のこと

 ここで、前述の 薩摩に朱子学を伝えた 桂庵玄樹 の場合も、雪舟 の場合も、土佐に朱子学を伝えた 南村梅軒 の場合も、周防の大内氏との関係が 深い事に もう お気付きでは ありませんか。 これは、応仁の乱によって 京都が焼野原となった時、山口は 対朝・対明貿易 によって繁栄しており、また、二十九代 大内正弘 が文化に理解を示して保護奨励したので、京都から四散した文化人が、大内氏の保護を求めて 多く来たことにもよります。 そして 三十一代の 大内義隆 の時代に 大内文化は 隆盛の全盛期を迎えています。 大内氏が防長に根をおろした期間は、彼らが主張する 琳聖太子 から数えれば 約千年、 実質的には、十六代 盛房 が源平合戦を機に登場したころから数えても およそ四百年、さらに十四世紀後半、二十四代 弘世 が山口に本拠を築いたときから 約二百年、 対朝・対明貿易によって経済的に繁栄し、政治的にも中央に大きな影響力を及ぼし、独特の文化を発展させてきた大内氏も、弘治三年( 一五五七 )四月三日、毛利元就 に攻められて 義長 が 長府の 長福寺( 現在の功山寺 ) で自刃して ここに名実共に完全に滅亡しました。 それは 尾張の小大名 織田信長が、桶狭間で東海の太守 今川義元を破る 三年前のことです。

 梅軒が わずかの期間ながら 土佐でまいた儒学の種は、やがて芽生えて 好学の気風をかもし、その流れの中から 多数の知名の士を出す事になりました。 その学統から 忍性 ・如淵 ・天質 が現われ、天質の門から 慈沖( 還俗して谷時中 ) が出ました。 そしてこの 谷時中 の門から 野中兼山 ・小倉三省 ・山崎闇斎 らが輩出し、海南学派 として 近世儒学の重要な一翼をなしたことは、周知のとおりです。

 次回は、谷時中 以後の 南学の歩み を話します。

                つづく 次回





日新公 「 いろは歌 」 ②

      はかなくも 明日の命を頼むかな 
                今日も今日もと 学びをばせで

 今日こそはと 心に決していても、つい怠けの心が出てきて 学ぶことをせず、また明日があるからと思う 人間の弱さを戒めたものである。 今日の学生に取ってもまことに大事な教訓である。 人間の命は 明日をはかることはできない。 今日という日に、時をつくって学問の道にいそしまねばならない。

      明日ありと思う心のあだ桜 
                夜半に嵐の吹かぬものかは

といわれている。 学ぶということは一生のわざである。 日々少しの時間でも、真理の道を学ぶようにつとめなければならない。
 西郷隆盛が、南の島に流されていた時も、時を空費することなく、読書に励んだことは あまりにも有名である。 明日の命が全くわからない時でも、黙々と書を読み瞑想する姿は、まさに聖者に似たものというべきであろう。  ( 解説 満江 巌 )

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