日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー24 ( 上洛する志士達 )

2008-05-17 13:00:11 | 幕末維新
  大坂蔵屋敷の例 旧鍋島藩蔵屋敷、(明治後期) 川から船がそのまま入れる入船口をもつ

吉田松陰、 田中河内介、 真木和泉守

すごい先生たち-24

田中河内介・その23 (寺田屋事件ー12)


外史氏曰

上洛する志士達


 いよいよ運命の長い一日が始まる。 文久二年( 一八六二 )四月二十三日である。 大坂逗留の志士たちは計画に従ってそれぞれに上洛を開始した。

  先ず、久留米の真木一党の十人である。 真夜中から一人、二人とばらばらに二十八番長屋を抜け出し、その最後は真木父子であった。 天満八軒家の船着場に全員が集合後、朝の一番船で伏見へと上っていった。
 一方、魚太組では佐土原脱藩の富田と池上が午前四時頃から、旅館内に隠し置いた武器類を運び出し、長州屋敷で斡旋し邸前の河岸に繋いでおいた四隻の川船に積み込んだ。 準備完了の合図と共に、魚太組と蔵屋敷で待機していた薩摩藩士ら合計三十六人がこれら四隻に別れて乗り込み、直ちに出発して行った。
 蔵屋敷の藩士たちは、朝風呂に行くとかの口実で藩邸を抜け出して来た。 一行は淀川を遡り始めてまもなく、京都藩邸から志士らの情勢を探りに来た奈良原と海江田にすれ違うことになるが、その事は後にゆずることにする。
  千葉郁太郎(いくたろう) と中村主税(ちから) の両人も、河内介の命令により、京都の西村敬蔵ら運動後援の同志達へ決起の情報連絡のため、未明に こちらは徒歩で出立して行った。
 そして朝の七時過ぎごろには、二十八番長屋には田中河内介父子と竹田藩・小河派の二十二人が残るのみとなる。 後軍の小河らは正午に出発の予定だが、河内介父子は残務整理の終わり次第、遅くとも八時頃には出立を予定していた。

 ところがである。その時、志士団の動きを監視するため京都藩邸から派遣されてきた奈良原喜左衛門と海江田武次が長屋にやって来た。 彼らは 「 京都の宿舎の用意が整ったので、志士団を漸次入京させるため、昨夜京都を発ち 夜船で急ぎ大坂に下り、今朝着いたところである。 なお、貴殿方にご注文があれば遠慮なく申されよ。 私どもから、久光公へお取次ぎしょう 」 と、見え透いた いい加減なことを言った。 
 【 後に小河は自著 『 義挙録 』 のなかで、両士のこの時の言葉を 「 後に思ひ合すれは これ等のことは 大に心ありてのことなるらめ 」 と述べている。】

 そして、なおも雑談に移ってなかなか立とうとしない。 河内介父子の出発予定は過ぎている。 遂に小河が気を利かし、河内介に 「 河内介殿はご遠慮なく医師に出かけられたし 」 といった。 河内介は 「 不快で今朝医師に診察を予約してあり、すでにその時刻になったので 」 と、一敏の機転で窮地を脱した河内介は、両士に挨拶して単独で伏見へと遡上して行った。
 それから半刻も過ぎたとき、両士は急に、「 本邸に用事があるから 」 と言って席を立って本邸に戻って行った。

  小河は側にいた左馬介と広瀬健吉へ相談を持ちかけた。 「 両士には何かと世話になっているし、もうそろそろ、両士に計画を打ち明けても良い頃と思うが、どう思うか。 もし両士が不賛成なら、その時は刺し殺そう 」 と。 二人はその事に賛同した。

 昼前、奈良原らが再びやって来ると、小河一敏は 二人に改まって義挙の計画を告げ、今夜伏見の寺田屋に集合して決起し、長州藩も同時挙兵の約束をしている旨を伝えた。
 これを聞くと、両人は表面では 「 それは大変に良い事だ。 我々も協力せねば 」 と褒め称えながらも、これは一大事と、裏でこっそりと急使を京都藩邸へ走らせた。 薩摩藩の大坂蔵屋敷からは 超特急の早駕籠が仕立てられ、藤井良節と高崎佐太郎が別々に京都へと急行したのである。

 【 この間の事を、小河が自著 『 義挙録 』 で述べていることに従うと、以下のようになる。 小河の 義挙に遅れまいとする その時のあせる心境からすれば、こちらの方が真実に近いと思われるが 】

 今日は朝早くから薩邸より有馬新七の列、魚太よりは柴山愛次郎の列の同志が出て行ったので、薩邸では弥々怪しんで厳重に守衛していた。 河内介だけは策略して出立させたが、我列は人数多いので出立がとても叶いそうにない。 奈良原も海江田も我等の様子をすでに悟っている。 このままでは我々は出発出来そうもない。 しかし、約束もあり一挙に遅れることは残念である。
 最早一挙の事を明かして謀ろうと、両士に向かって、篤(とく) と話があると言ったが、両士は屋敷に急ぐ用事があるのでそれを片付けて後に再び来ると言って屋敷に帰ってしまった。
 その時、田中左馬介と広瀬友之允の二人が自分の側にいたので、友之允に 「 最早計画の全てを正直に両士に打ち明けてしまおうと思う、もし両士が不賛成なら、そのときは刺し殺そうと思うが どう思うか 」 とたずねた。 二人とも賛同した。 そうなれば一刻も早く両士に再会して伝えた方が良いと上屋敷に人をやり、両士を呼びにやったが、使いは両士を尋ねだせなかった。

 程なくして両士が戻って来た。 「 後に之を考ふれば永田の屠腹に付 高崎を急報に馳せ登らする等のことを謀り終て来られたるならん 」

 それから両士に改まって義挙の計画を告げ、今夜伏見の寺田屋に集合して決起し、長州藩も同時挙兵の盟約の旨を言明した。

 【 この時の両士とのやりとりを、小河は 「 義挙録 」 で以下のように詳しく述べている。 原文である。】

 『 一敏、瑳磨助( 左馬介・田中河内介の長男、十八歳 )、友之允と三人 両士の膝下にすりより 己云ひけるは、この期に至り何をか包むべきや、実は云々の事なりと 一挙の事を打明して具に語り 長州も邸を挙て応ずるの勢なりと伸べければ、両士快く引受て申されけるは 能くも々々御心底の程 打明られ事のさま残し置れず仰聞らるゝこそ恭なけれ 如何にも御尤の事にて実に所司代は可悪の甚き 此儘に見過すは 我々も心の外の事なり、 いざさらば 各急に馳せ登られよ、我々も急ぎ帰京して 其事をば図るべし、此地に残し置れたる守衛の人数も 悉く繰上ぐべし。
 然かはあれども殿下 ( 関白九条尚忠卿 ) は暫くさし置き 所司代に打入られてこそ宜かるべけれ。
 急ぎ登伏せられて屋敷守本田弥右衛門に引合申されよ と云ひて両士は帰りける。
 夫より急ぎ出立の用意をなし 其旨を急報せん為め 瑳磨助を早籠にて京に上せ 我々は船の都合を急ぎ 未の刻頃二艘の舟に乗り 勇みかゝつて上りける。 薩邸よりも 守衛頭北郷作左衛門を始め皆々急ぎ馳せ登りける。』

 しかし、小河は奈良原と海江田の二人に騙されていた。 薩邸からは急使が京都に発せられた。  結果的に、小河の打ち明けは義挙の失敗にもつながることになった。

【備考】
久光随従藩士団の中で、大坂残留を命ぜられた隊士の中に永田佐一郎という組長がいた。 彼は精忠組の同志として当初は過激派に属していたが、大坂で久光の訓令を受けた頃から次第に転向し、決起について反対の意見を述べ始めていた。
この日、払暁に脱出した激派藩士の中に、永田の部下 ( 吉田清右衛門、柴山竜五郎ら ) 数人がいたので、永田は彼らに行かないように説得したが聞き入れられなかったのみか、逆にひどく罵(ののし) られた。 彼は憤慨、且つ責任感から藩邸内の一室で自刃し果てた。

                   つづく 次回

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