日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー17 ( 久光 大坂到着、上洛 )

2008-05-06 13:52:22 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】

すごい先生たち-17

田中河内介・その16 (寺田屋事件ー5)


外史氏曰

 なぜ西郷を厳しく罰したか!

 久光は西郷は浪士たちを煽動して、彼らと共に立ち上がると思っていたことが一番の原因であるが、それ以外にもある。

 西郷は安政の大獄以来の幕府のお尋ね者である。 藩では西郷は死亡したとして届けてある。 藩は奄美に流していたその西郷を、活用するために秘かに鹿児島に帰したのである。 藩の目付から反対もあったが、九州の中ならよかろうと とにかく久光一行より先発させた。 しかし、命に反して下関にはいなかった。 何の理由があろうと、大勢の中に混じって行くのならともかく、少人数での上洛は、幕府に察知される恐れが高い。

 久光の立場からすれば、今回の上洛は、表向き参勤延期の謝礼と藩邸新築の指揮という名目で出府しようとしているが、江戸薩摩藩邸の焼失は、参勤時期を送らせるために仕組まれた自焼であり。 本当の出府理由は、幕府の人事を含む幕政改革という幕藩制の根幹を揺るがすような事を実行しようとしている。 それも無位無官の、しかも藩主でもない人間がである。
 そこで、不可能と思われることを可能にするために、勅命を得て動こうとしているが、その周旋を頼んだ近衛家はいざとなれば弱気になり周旋に反対している。 しかも兵を率いての行動は絶対に困ると上京にさえ反対している。
 当時の久光の心境は如何ばかりのものか想像できるであろう。

 そこに既に幕府に対して死亡届けの出ている西郷が、公然と尊攘の志士たちを煽動して討幕を画策しているなどとして、幕府に探知されたら それこそ一大事。 久光自身は京都に入れるどころか国元に追い返されるのが関の山、悪くすれば藩の存亡にもかかわることになる。


久光大坂到着・上洛

 久光一行は、姫路からは陸路をとり、四日後の四月十日に漸く大坂に着いた。 大坂の情勢が不穏なため、ゆっくりとした行程であった。 大坂に着くとさっそく、同日、三度目の諭書を出し、自分が上京周旋する趣旨を述べて激派を執拗なまでにいましめた。 また久光は、藩内保守派の反対論にも直面したが、久光はどれもとりあげなかった。 久光のいる本邸と志士たちのいる二十八番長屋とは100メートルと離れていなかったが、勿論志士たちとは顔を合わせていない。

 そして四月十三日、警備のための兵を残し、兵三百名のみを率い淀川を舟で伏見に上っていった。 在坂の志士たちは皆この久光の上洛に従おうとしたが、久光は大久保を介して 「 京師に赴いて近衛公によって強いて朝旨を乞い、しかる後に諸君と事を共にする 」 という口実の下に志士たちの軽挙を戒めた。

 久光はその日に伏見藩邸に入り、十六日に京都の薩摩藩邸に着いた。


近衛邸におもむく

 八日、兵庫に着いた時と伏見到着の翌日の十四日、最近の情勢に不安を覚え弱気になった近衛忠房から、久光に次々に面談を求める書状が届いた。
 それにこたえて、四月十六日、非公式に近衛邸におもむき、忠房や議奏中山忠能・正親町(おうぎまち) 三条実愛(さねなる) ( 岩倉具視も来たという ) らの公家たちと対面し、上洛の趣旨を詳しく説明した。

 「 今回の上洛の目的は、朝廷の威をあげ、かつ幕政の改革・公武合体を周旋するという先君斉昭の遺志を継いだものであり、具体的な建言は次のような内容である。  粟田口宮( 青蓮院宮 )・近衛忠熙・鷹司正道父子・一橋慶喜・松平慶永などの謹慎を説く。  忠熙を関白、慶永を大老に任命し、後見職 徳川慶頼( 田安家当主 ) および老中 安藤信正をやめさせ、久世広周に上京を命じられたい。そして以上の実行を仰せ付けられたい。  そしてみだりに浪人の説を取り上げず、慶喜を将軍後見職に任命し、外交については公論をもって定められたい 」

 安政の大獄の総決算とも言うべき内容で、新しい幕府人事の提案であり、幕府の権力政策に真っ向から挑戦するものである。 それを自らの武力の誇示と朝廷の権威の合体により達成しようとしたものである。

 長州藩の長井雅楽の提案 「 航海遠略策 」 が、幕府の体制には手を付けず専ら朝廷側の対外政策を開国に変更させる事で、公武合体を達成しようとしたのとは大きな違いである。
 また外交問題は複雑なので、今回は公論によるとして 此の場は簡単に流している。
 今後も久光が常に問題にする 「 浪人の意見 」 とは、藩などの組織に属しない個々人の意見で、責任の所在がはっきりしないという理由からと、身分制の上に成り立っている主君の立場からして、これらの下級武士である尊攘派の意見を取り上げることは、身分制の崩壊につながるものとして、それを取り上げることを問題にした。 これは概ね公武合体派の有志大名に共通した考えでもある。

 久光の趣旨に同意した中山・正親町三条がただちに朝廷におもむいた。 そして久光に京都に滞在して浪士鎮撫にあたれという勅命が下され、ここに久光の京都滞在が始めて合法化された。 ともかくも第一の難題が解決できた久光は翌十七日、正式に京都錦小路の藩邸にはいった。
 こうして、田舎から初めて上京した無位無官の陪臣が、勅命で京都の治安維持にあたるという未曽有のことが起ったのである。


前代未聞の久光の上洛

 久光の今回の上洛は、何事も前代未聞のことばかり、千人もの兵を率いての上洛、しかも野戦砲四門、小銃100挺という武器を携えての上洛である。
 京都に寄って、公卿と会うことは堅く禁じられているのに上洛を決行、しかも無位無官の陪臣が、天皇の命令で京都の治安維持にあたるという未曽有のことが起った。

 坂下門外の変以降、幕府は弱気になりこれらを阻止することが出来ない。 また京都所司代酒井忠義もこれらを制止出来ない。 しかも尊攘の浪士達の鎮圧を久光に任さざるを得なかった。

 混迷の時、前代未聞の思考と行動のなかに一つの突破口がある。 そのような意味でも久光公はたいしたもんや!

   
何だと! 浪士たちを鎮圧する役目を命ぜられたと!
それにしても、大坂の薩摩藩邸二十八番長屋などに取り残された志士たちはどうなるのだ!

               つづく 次回





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