日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー16 ( 西郷 再び処分 )

2008-05-03 23:51:53 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】

すごい先生たち-16

田中河内介・その15 (寺田屋事件ー4)


外史氏曰

  文久二年三月十六日、鹿児島を出発した久光一行は、二十八日に下関に着き、そこからは海路をとる。 久光は四月一日に天祐丸に乗船、三日に室津(むろつ)( 兵庫県 )に上陸、後続船を待ってそこに二日間滞在して六日に姫路に上陸した。 姫路からは陸路をとることになる。
 久光はその室津(むろつ) 滞在中に漢詩を作った。

  自出家郷已二旬   家郷を出でてより、已(すでに) 二旬
  轎舟過得幾関津   轎舟(きょうしゅう) 過ぐるを得、幾関津(いくかんしん)(関所と港)
  此行何意人知否   此の行何の意ぞ、人知るや否(いな) や
  欲掃扶桑国裏塵   掃(はら) わんと欲す、扶桑国裏(ふそうこくり) の塵(ちり)

 久光は、とめどなく湧いてくる不安を打ち消すかのように、今回の上洛目的は、国家の塵(ちり) のような幕府の奸臣をきれいに掃除する事だ。 頑張らねばならぬと、自分に言って聞かせる。 ここに扶桑とは中国での日本の異称である。

 一方、西郷と別れ、伏見を発った大久保は八日夕刻、山陽道の大蔵谷駅に到着、久光に報告のため面会を申し入れたが、全く取り合ってもらえない。
 その原因はこういう事にあった。

堀・海江田の西郷中傷

 四月六日に姫路の本陣に入った久光は、上方探索から戻って来た堀次郎から、西郷が浪士たちを煽動して討幕を企てているという報告を受けた。 堀は先日伏見藩邸で、西郷から殺されそうになるほどの剣幕で叱責されたことを根に持ち、西郷の事を悪しざまに言ったのである。

 海江田武次( 有村俊斎 ) は 久光から上方の情報収集を命ぜられ、上洛の途中から上方へ急行した。 上方探索中に、旧知の平野と川船の中で会ったとき、平野は、下関で西郷が平野に話した内容を自分なりに解釈してしゃべった。 つまり、西郷さんは私の主張する討幕方策に賛同して決起し、いよいよの時には私と一緒に死のうと言ったと。
 【 平野はあの西郷さんも我々の意見に賛成で、すでに我々の大の味方だという事を強調したかったのであろう。 事を起そうとする少数者側としては、まず流れを大きくすることが最重要になる。 有利になりそうな事は、小さな事でも都合の良いように解釈して針小棒大に表現するのは、ごく普通のことである 】

 その海江田が、五日ほどの上方探索の任務を終えて姫路の本陣に戻って来て、堀に続いて久光に報告した。 その時、無思慮にも平野の話した内容を、そのまま正直に報告してしまった。

 この二人の報告に久光は烈火の如く激怒、直ちに目付役・喜入嘉次郎ら捕吏数名に西郷らの捕縛を命じ伏見に派遣した。

 それとは知らぬ大久保は、八日夕刻、大蔵谷駅で久光の行列を出迎え、報告のため久光への面会を申し入れたが、全く取り合ってもらえない。 大久保は仕方なく宿に帰った。 そこへすぐに海江田と奈良原喜左衛門が訪ねてきた。 海江田は報告中に久光が突然怒り出したので、びっくりして奈良原を誘ってやって来たと言う。 大久保もやっと事態を把握出来た。 堀次郎も呼んで事情を聞き、精忠組仲間の二人の軽率な言動で首領の西郷が窮地に陥ったことが分かった。
 西郷を信じている大久保は、すぐに側役の小松帯刀の宿舎に取り成しを頼みに行った。 小松は久光公のお怒りすさまじく、西郷は死罪になるかも知れないと告げた。 しかしそれでも努力してみると約束してくれた。

 同じ探索でも、西郷の行動に関する見解は、大久保と堀・海江田とでは全く正反対のものになった。 久光は感情のあまり、堀・海江田の情報を鵜呑みにしてしまい、さらに奥深い情報をつかんでいる可能性のある大久保の報告の方は聞かなかった。 探索役にとっては真の正しい情報をつかむことは絶対条件になる。 でなければその資格に欠ける。 報告を受ける側にも注意深い思慮が要求される。 西郷自身は後に それは讒言(ざんげん) であると言っていたそうだが、一方、久光からみれば、それはそれなりの理由があったのであろう。 とかく物事は行き違いから大事に到る場合も多い。

 大久保は翌朝、本陣へ出仕したが久光は大久保を無視した。 その夜、兵庫の宿に旅支度の西郷が独りで大久保を訪ねてきた。 西郷は長井雅楽の新たな建白書の写しを久光公にお見せしたいので、久光への謁見を取り次いでくれと言った。

 大久保は 「 えらいこっちゃ西郷どん。 外へ出もそ 」 と 近くの海岸に西郷を誘い出し、事の顛末を事細かに話した。 そして今回ばかりは久光公の怒りが激しく、もうどうにもならないと言い。 西郷に 「 一緒に死にもっそ 」 と言った。 西郷は 「 二人とも死んでしまったら、此の国はどうなるのだ、死ぬのは私だけで良い、大久保さんは私の分まで、国のために尽してくれ 」 といった。 大久保は、「 分った、私の考えが間違っていた 」 と言った。 二人は手を取り合って共に泣いたそうである。
【 かごんま弁でしゃべったと 】


 翌日の朝、大久保は本陣へ伺候、どうしても会わせてほしいと懇願し、久光公にやっと拝謁が許された。 そこで大久保は、西郷らが宿元で謹慎していると申し上げた。 久光は 「 西郷・村田・森山の三人をその方らに預けるから、海江田・奈良原と三人で、船で大坂へ護送せよ。 ただし上陸は許さない。 船中で次の指示を待て 」 と厳命した。
 西郷を尊敬する薩摩兵兒(へこ) らの激高に配慮して、船中に禁錮したまま情況を見定めた後、十一日に出航予定の藩船で、三人を秘かに帰国させるように下命した。
 こうして西郷らは、その行動が久光の意に反したとして怒りにふれ、久光が大坂に着いた翌日の十一日、大坂から船で薩摩に向け送られた。 西郷らは、二カ月間薩摩の山川港の鰹(かつお) 船のなかで上陸を許されずに拘留され、最終処分を待つ事になる。

 大久保も、その後 多分、西郷の行動に関する調査結果の情報を久光に伝えているはずだ。 そして久光も西郷は考えている程のことは無さそうだと思っていたとも思われるが、西郷らの処分を取り消すようなことはしなかった。 久光の立場からして、単に互に大きな感情の行き違いがあったのみでは片付けられない別の理由があったものと考えられるが、それは次回に譲ることにする。

 その後、久光は京都での首尾が事の外うまく運んだので、気分を良くして、大原重富(しげとみ) に随従して関東に下向するに先立ち西郷らの処分を軽減した。死一等を減ぜられたということであろう。

 西郷は山川港にいる間、薩摩の精忠組の同志から種々の情報を逐一得ていた。 久光が京都にて寺田屋事件を起こし薩摩藩の激派を処分した事 。田中河内介一派の斬殺。 勅使大原重富に随従して江戸に行き幕政改革を提言。 成果を挙げての帰途、生麦事件を起こした事など。 
 その中でも特に河内介の一件には西郷は失望落胆、憤りを感じた。

 やがて西郷は、徳之島( 後に沖永良部島 )、村田新八は喜界島に遠島 という処分が決まる。 当時、沖永良部島への遠島は死罪ではないが、それに近い刑罰である。
 一方、森山新蔵( 四十二歳 ) は、長男 森山新五左衛門( 二十歳 ) が寺田屋での上意打ちで死亡したことを聞き、処分の決まらない前に 船中にて自刃し果てた。 森山父子は武士階層ではなく裕福な商家の出( 豪農とも ) であるが、精忠組に入り国事に尽した。


                  つづく 次回




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