日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー49 ( 生麦事件-5  ・事件の原因 )

2008-07-06 03:34:06 | 幕末維新
吉田松陰、 田中河内介、 真木和泉守

すごい先生たち-49

田中河内介・その48 (寺田屋事件ー37)


外史氏曰

【 生麦事件ー5 】

【 彼ら四人は無礼を平気で行った訳ではなく、大名行列とすれ違う際に慎重に極力左端を通ろうとしたが、道が狭かった故に 図らずも行列の中に馬を誤って進めてしまい、それにより乗馬が興奮して久光の列を乱したという。
 ただし彼らの祖国イギリスでは、貴人が馬車や乗馬姿で通る際、下馬して道を譲り、馬が暴れないよう手綱を締め脱帽して片膝を付いて座り敬意を示した上で見送るというのが礼儀であり、行列を乱さないよう気を使った行動をしたとはいえ、乗馬姿で通るという行為が他民族に対し侮辱的で礼を欠いた振る舞いであったことは事実であり、彼らの行動が事件の原因と非難されても仕方がないとも言える。

 殺害されたリチャードソンは 中国での滞在期間が長く、その経験から 「 東洋人には強い意志で対応しなければならない 」 という差別的な考えを持っており ( 実際中国人を馬上から鞭で打ち付ける様な行為を行っていたといわれている )、日本人に対しても同じ様な考え方を持っていた。 来日してからの期間が短かったとはいえ、日本の習慣や礼節を踏み躙る様な振舞いをした事が事件のきっかけとなったといえる

 実際、事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ領事館書記官のバンリードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さない様に道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。 バンリードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼な事であるか、礼を失すればどういう事になるかを理解しており、後に生麦事件の状況を知ったバンリードは 「 彼らは傲慢にふるまった。 自らまねいた災難である 」 とイギリス人四名を非難する意見を述べている。 】 ( ウィキペディア・フリー百科事典 )

 このような惨劇があったにもかかわらず、久光の行列は何事もなかったようにそのまま進んだ。 ただ当初の予定を変更し、神奈川駅の小憩を取りやめて素通りし、保土ヶ谷に直行した。 【 事件の当事者の一人である有村武次( 海江田信義 )が、『 維新前後 実歴史伝 海江田信義親話 西河 稱編述 明治二十五年 』 のなかで、この日の宿泊地を保土ヶ谷でなく戸塚と述べているが、これは間違いである 】


『 維新前後 実歴史伝 海江田信義親話 』



海江田信義



 保土ヶ谷宿に着いて駕籠がおろされたとき、久光は外人を斬った奈良原を呼び、家老小松帯刀を通じて、異人を斬った理由を問うた。

 奈良原は、行列をさえぎろうとしたから斬りましたと答えると、久光は、行列を乱したということで無礼打ちにするのはもっともなことであるが、未ださえぎってもいないうちに何故斬ったのかと尋ねた。

 この質問に対して、奈良原は昂然として、不断からこのような無礼がないようにするのが御供目付の職掌であると考えており、もし外国人に行列を乱されるようなことになれば、切腹してお詫びするつもりでしたが、幸いさえぎられる前に斬り捨てましたので、職掌上の面目が立ちましたと神妙に答えたので、奈良原の行動は咎められなかった。

 一方、久光の側近は、居留地からの外国人の襲撃を予想して緊張していた。
 しかし、奈良原・海江田などは 神奈川での小休止を取止め保土ヶ谷に直行したことにも反発、また襲撃される前に当方から先制攻撃を行うべきだと強く主張して譲らなかったが、大久保一蔵などは懸命にこれを押し止めた。

 寺田屋事件により、薩摩藩の尊攘激派は粛清された。 しかし、奈良原喜左衛門や海江田武次のような尊攘激派と心情を同じくする志士も多く存在した。 これは時代の風潮にもよるが、寺田屋で死んだ有馬新七らの霊に触発されるかのように、自分達も行動しなければという念にかられていたのかも知れない 。

 特に海江田武次の場合は、二人の弟、有村雄助、有村治左衛門が 萬延元年三月三日に起った 桜田門外の変( 桜田義挙 ) に関係し、すでに共に国に殉じている。 海江田武次は 寺田屋事件の論功行賞の結果、御供目付の地位に就いていた。
 奈良原喜左衛門の場合、寺田屋へ真先に鎮撫使として派遣された奈良原喜八郎( 繁・幸五郎 ) は喜左衛門の弟である。  喜八郎も寺田屋事件の論功行賞の結果、兄と同格の御供目付の地位に就いており、生麦事件のとき兄喜左衛門と同じ久光一行中にいた。

 事件当夜、久光一行は保土ヶ谷で何事もなく一夜を過したが、久光は本陣には泊らず、隠密裏に 「 をもだか屋 」 という宿屋に極々内密に泊ったということである。

                つづく 次回


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