日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー70 ( 頼三樹三郎  ・ 『 絶命詩 』  余録ー2 )

2008-08-24 02:01:29 | 幕末維新
田中河内介・その69 (寺田屋事件ー58)


外史氏曰

 清河八郎

          
          頼三樹 銅像 ( 秦蔵六氏 制作。 京都、頼新氏 所蔵 )


頼三樹三郎 『 絶命詩 』 余録

 頼三樹三郎は 安政六年( 一八五九 ) 十月七日の 寅の一天( 午前四時 ) 頃、いよいよ呼び出しがあり、辰ノ口の評定所  ( 和田倉門前、現・銀行会館付近 )  において、次の宣告文を読み聞かされた。

               宣告文
                                   河原町三条上ル夷(えびす)町入ル借家
                                                儒者  頼 三樹三郎
      「 右のもの儀、外夷外防筋の儀に付、猥(みだり) に 浪人儒者・梁川星巖、又 梅田源次郎と、  
      御政事に拘(かかわ) り候国家の重事を議論に及び、容易ならざる儀を申し唱へ、堂上方への
      入説の儀、星巖と種々申し合せ候より、人心惑乱(わくらん) いたし、天下の擾乱(じょうらん)を
      醸(かも) し候姿に至り、公儀を恐れざる致し方、右の始末、不届きに付、死罪。 」

 この宣告文は、同じく極刑をうけた橋本佐内や、あい前後して刑場の露と消えた安島帯刀、吉田松陰などの宣告文と較べて、あまりにも簡単である。 ただ  「 公儀を恐れざる致し方 」  の一句で片付けている。 この暴断は、けだし三樹が、梁川星巖と結んで、 「 悪謀の四天王 」 と目指されたためで、その事実の有無にかかわらず、当初から重罪に処せられる運命にあったのであろう。 其の上、三樹が評定所において、日頃の昂然たる態度を失わず、堂々と所信を表明し、無遠慮に発言したことが、いっそう幕吏の反感を買い、心証を害したようである。


 『 補修 殉難録稿 宮内省藏版 』  には、次のように記されている。

 『 ・・・江戸なる評定所にて有司ども、  「 汝、処士の身にして、国政を謗議する事、いかなる子細にか 」  など、さまざま鞫問 (きくもん) せしに、答へていふやう、

      「 某(それがし) 尊皇攘夷の議を唱へ、朝廷の旨を奉戴し、同志の士をかたらひしは、父祖相伝の家訓なり。
      抑事の利害はさて置き、朝旨に背(そむ) くものは これを 賊臣といふ。 某(それがし)、不肖なりと雖も、
      家訓を忘れ賊臣となるものにはさむらはず 」

といふ。  「 されば一橋刑部卿(きょうぶきょう) ( 慶喜 ) をもて、幕府の世継にしまゐらせんとの企ては、いかに 」  と問ふに、

      「 某(それがし) は 朝旨を奉ずるの外、他事を辧(わきま) へず。 幕府の世継なんぞ、いかであづかり
      知り候ふべき 」

と申しゝかば、  「 猶(なお) 又 尋問ふべき事あるべし 」  とて、高橋、伊丹、山田のともがらと、福山藩邸に預けらる。
囚中に唱和せし詩歌、これを集めて  「 骨董(こっとう) 集 」  といふ。 既(すで) にして罪科定まり、つひに斬らる。 時に年 三十五.其 辞世の詩かくなん 。 

       獄中作
      排雲欲手掃妖蛍    雲を排して 手ずから妖蛍(ようけい)を掃わんと欲し
      失脚墜来江戸城    失脚 墜ち来る 江戸の城
      井底痴蛙過憂慮    井底(せいてい)の痴蛙(ちあ) 憂慮に過ぎ
      天辺大月欠高明    天辺の大月(だいげつ) 高明を欠く
      身臨鼎鑊家無信    身は 鼎鑊(ていかく)に臨んで 家に信無く
      夢斬鯨鯢剣有声    夢に 鯨鯢(げいげい)を斬って 剣に声あり
      風雨他年苔石面    風雨 他年 苔石(たいせき)の面
      誰題日本古狂生    誰か題せん 日本の古狂生 

遺骸は法によりて、小塚原に捨てられ、誰葬る者無し。 大橋正順之を聞き、山陽は海内の名儒なり。 三樹其子にして、無頼の悪徒と骨を混ずる事 惻(いた)ましき限りなりとて、・・・・・ 』           

 この有名な辞世の詩は、  『 四英 獄窓 骨董(こっとう) 集 』  の掉尾(とうび) を飾るもので、三樹の絶命詩として、大橋訥庵(とつあん)  ( 名は正順、字は曲洲、通称は順蔵 ) が、小塚原 回向院 の境内、三樹の墓碑裏面に 刻したものである。 ここで  「 古狂生 」  というのは、 『 論語 』  に  「 古の狂や肆(し)、今の狂や蕩(とう) 」 ( 陽貨篇 )  とあり、  「 昔の狂者は、思うがままに行動し、勝手に放言しても、そこには小節にかかわらぬ美点があった。 しかし今の狂者は同じ狂でもでたらめで、とりとめたところがない 」 という意味であるから、要するに三樹は、 「 狂 」 は 「 狂 」 でも、ただの無軌道ではない。 古の狂生をもって、任じていたものである。

 なお 杉浦重剛  ( 明治 大正時代の教育家、昭和天皇の皇太子時代の 師傅(しふ)、 大正十三年病没、七十歳 ) は、この詩が好きで、家塾  「 称好塾 」  では 機会ある毎に、塾生と共に吟じたという。 諸生が集まって、閉会には 大抵、この詩が吟ぜられたため、塾では閉会のことを、 「 排雲 」  といったという。 なお、杉浦は、安政六年二月二十五日、京都から江戸へ護送されて行く 三樹たち罪囚一行  ( 三樹、山田時章、伊丹重賢、高橋清蔭の四人 ) が、膳所 (ぜぜ) 領内を 通過する時、当時 四歳の幼童であったが、一行を見守る沿道の群集のなかに立ち混じって、明らかに 三樹を見たという。 なおこの日は、朝から雪が降っており、寒気は 肌を刺すばかりであったという。

 この際、三樹に次の詠歌がある。

      かへり見よ 比叡の山かげ 曇りける 
                  わが行く先は 白雲の空

 なお 京都から三樹と同囚の 山田時章 ( 号は宜風、青蓮院宮の家士、勘解由(かげゆ) )、  高橋俊璹(としたま)( 号は清蔭(せいいん)、鷹司家諸大夫、大隈守 )、 伊丹重賢( 号は白雨、青蓮院宮の諸大夫、蔵人 ) の三人は、江戸での審問中も、三樹と共に ずっと 福山藩邸の牢舎に預けられていた。 四人は同室ではなかったが、寛大に扱われたので、互に詩歌を応酬したりして、つれづれを慰めた。 その歌稿は 番士が取り次いだので、番士の手に歌稿が遺った。 それが後年、 『 四英 獄窓 骨董集 』  と題して刊本となった。 ちなみに 三樹以外の三士は、裁定では 死罪を免れ、伊丹は 中追放、山田・高橋は 押込めという軽罪であった。 事実において 三士は、それほどの政治活動をしていたとは思われない。

 さて、三樹が宣告文を読み聞かされたときの状況は、依田(よだ) 学海 ( 名は朝宗、字は百川、佐倉藩権小参事 ) の手記  「 頼三樹 」 に、
      「 ・・・予、去る年、八丁堀同心、吉本某に対面せし時、頼三樹の事を問ひしに、死刑の言渡しを
      うくる者、多くは精神昏耗して、其の座を立つこと 能はざるに、三樹は、この言葉を聞くと ひとしく、
      大声に 呵々と打ち笑ひ、従容として其の座を 起ちたりとぞ。 平生の気概、思ひ見るべし  」

と、記されている。  この判決の日、山陽の門生だった江木鰐水(がくすい) は、福山藩邸を出て評定所の門外に至り、裁判の結果を案じて立ち尽くしていた。 江木の考えでは、重刑といっても遠島以上のことはなかろうと、遠島の用意に 衣類などを準備持参していたが、案に相違して死罪となり、直ちに伝馬町の獄へ収監されたのには、茫然自失するばかりであったという。

 なお、世古(せこ) 格太郎 ( 後年の京都府判事、宮内権大丞 ) の著書  『 倡儀(しょうぎ) 見聞録 』  によれば、この日、次のような 一場の佳話が記されている。

      「 ・・・・後聞 (こうぶん) に、死刑の日、伝馬町牢屋敷に送りけるに、年老ひたる一士、跡に付き来り、
      地に倒れ悲泣しけり。 故に幕吏、怪みて吟味ありしに、此の老人の曰く、我等は頼山陽の門人にて、
      三樹八郎は対面を致さず候得共、師匠の子に候へば、今度召捕れ後、苦心致し、もし追放にならば、
      師の恩を報ずる為、路銀を贈り 帰京せしめむと思ひ、私、貧窮の中にて、衣服を売り、漸く金五両を
      得、今日それを懐中にし、跡に付き来りし処、あに計らんや、死刑に処せらるゝを見て、思はず悲泣、
      地に倒れし と申すに付、人々窃に是を感じ、事故なく済みてけり。 是れ御家人の士なりしとぞ。 」

 幕府の御家人の中にも、これほどの者がいたのである。 なお 筆者の格太郎は、松阪の酒造商で、紀州家の御用達を勤め、富豪をもって知られた。 しかし 一介の商人でなく、しばしば入京して 三条実美の左右に密侍し、三樹とも面識があり、安政の大獄では収檻されて、幽囚一ヵ年の後、追放の刑に処せられている。  ( 頼三樹三郎 安藤英男 著 より )


          
          鴨崖 ( 頼三樹三郎 書画賛 )

          
          上記 頼三樹三郎 賛


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