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 外史氏曰

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ものすごい先生たちー132   ( 土佐の南学-5 ・山崎闇斎と会津士魂 )

2009-08-01 01:09:42 | 幕末維新
田中河内介・その131 


外史氏曰

【出島物語ー43】

 土佐の南学―5

 山崎闇斎は、土佐で野中兼山らと共に研学、遂に僧門を脱して還俗、京都に帰り学塾を開きました。 そして その門弟 六千といわれる天下第一の学者となりましたが、その学風の特徴は、大義名分を明かにするという点と、その厳然たるその子弟道にあります。 闇斎の高弟である浅見絅斎(けいさい)、佐藤直方らも、その学風の激しさに度々嘆いています。
 土佐と京都に離れても、闇斎と 兼山両者の交友は深かったが、その共通の特色である激しい性格の故に、遂に学問上の見解の相異から、最後は生涯の絶交ということになりました。

          
          山崎闇斎の肖像

山崎闇斎( 一六一八~一六八二、没年六十五歳 )

 元和四年( 一六一八 )十二月九日、京都に生まれる。 名は嘉、字は敬義(もりよし)、通称は嘉右衛門、号は闇斎(あんさい)、又後に垂加(すいか) ともいう。
 その祖先は播州の人で、祖父は淨泉と号し、播州宍粟郡山崎村に生れた。 淨泉は二十四歳の時から、姫路の城主、木下肥後守家定に仕えた。 父は泉州岸和田に生れ、淨因と号した。 十一歳の時から木下家に仕え、後に辞して京都に住んだ。 闇斎は兄弟四人、長男は夭折し、他の二人は女子、闇斎は季男であった。

 寛永二年、闇斎八歳の時には、すでに 『 四書 』 及び 『 法華八部 』 を暗誦して人々を驚かせたといいます。 その少年時代は、性質 不羈(ふき) で、人を人とも思わない猛々しい子供であったそうです。 町の長老達が、この子だけは手が付けられないと言い出し、謙虚な性格の父は、思い余って闇斎を比叡山に預けた。 それは、闇斎十二歳の時であった。

妙心寺に

 妙心寺に、土佐の山内一豊の義子である湘南和尚( 山内康豊、大通院 ) がいて、この湘南との偶然の出会いが、闇斎の運命を大きく変えることになります。
 寛永七年、闇斎十三歳の時、湘南が 比叡山に遊んだ時、闇斎の才能の尋常ではないことを感じ 妙心寺に連れ帰ったところ、たまたまそこに野中兼山が居合わせ、これまた闇斎の才能に驚き、闇斎に儒教の書物を読むように 勧めましたが、驕慢(きょうまん) の気の強い闇斎は、兼山の言葉にはまったく耳を貸さなかった。 闇斎は、誰かに師事したり、誰かに指示されることが、性分としてとても気に入らなかったようです。
闇斎は、十五歳の時、妙心寺で薙髪(ちはつ) して正式に僧となり絶蔵主(ぜつぞうす) と名乗りました。
 負けん気の強さは相変わらずでしたが、寺主から借りた書物なども、すぐに読み終わり、どの箇所を尋ねられても、一字として誤ることが無かったというほどで、その常人の及ばない憑り付かれたような徹底した読書ぶりと、読んだ内容をそのまま暗記してしまう能力は、闇斎の学問を支えていくことになります。


土佐の吸江寺に

 寛永十三年( 一六三六 )、十九歳の時、闇斎は土佐高知の禅寺 吸江寺に伴われて移り行きました。 この土佐の地は、闇斎の一生に極めて大きな影響を与えました。 それは、この地で闇斎は、あらためて野中兼山( 二十二歳 )・小倉三省( 三十三歳 ) と出会い、これらの人々の勧めで、土佐の地に根付いていた独特の朱子学( 南学 ) に触れることになったからです。 この時、南学の泰斗の谷 時中は 三十九歳でした。


仏教から儒教に転ず

 土佐での南学の勉強が進み、闇斎は、寛永十九年( 一六四二 )、二十五歳の時、遂に従来学んで来た仏教を捨てて 儒学に転向し 還俗しました。 彼は思索的で瞑想的の仏教よりも 実践的で活動的の儒教の方に、より多くの魅力を感じたのでしょう。 そのために 土佐侯の不興を買い、吸江寺から追放され京都に帰って来ました。
 京都で塾を開こうとした闇斎を財政的に援助したのは、野中兼山でした。 それだけでなく、兼山は、何人かの若者を弟子として送って、闇斎の塾が軌道に乗るように取り計らったようです。 その為 闇斎は、慶安四年( 一六五一 )、兼山の実母が亡くなったときに、土佐に往き 兼山の母の喪を弔い、その喪事を助け、「 帰全山記 」 を作り、また 「 秋田夫人壙誌 」 「 婦人秋田氏墓表銘 」 を著して、兼山の交情に応えています。
 闇斎は、正保三年( 一六四六 )三月、二十九歳の時、嘉右衛門と称し、闇斎(あんさい) と号し、字を敬義(もりよし) としています。


京都で開講

 明暦元年( 一六五五 ) 春、世間一般的には、少し遅いようですが、三十八歳の時、始めて京都で開講して儒学の講義をしました。 講義の書は 小学・近思録・四書・周易の順で為され、同二年十二月に、これらの講義を終了しました。 講義終了の翌月、同三年正月に、「 倭鑑 」( 国史 ) の筆を起こそうとして、京都深草の藤森神社に詣で、詩を作ってその志を表しました。

      親王強識出群倫 端拝廟前感慨頻
      渺遠難知神代巻 心誠求去豈無因

 この社には日本書紀の編者の舎人(とねり) 親王( 天武天皇の皇子 ) が学問の祖神として合祀されています。 日本書紀の神代巻は、神道では最も尊重する篇です。 この時、闇斎は既に神道に対して深い考えを抱いていたのでしょう。


江戸へ

 四十一歳の万治元年( 一六五八 ) 二月、初めて江戸に行き、八月まで、凡そ半年間滞在して京都に帰っています。 闇斎の学者として世間的な活動は、この時より始まると言ってよいでしょう。 江戸に於ては、井上河内守正利( 笠間侯六万石・社寺奉行 ) の招聘を受けました。 井上正利は、当時賢明にして学を好む人で知られていました。 初め闇斎が江戸に出た時は、書肆(しょし) 村上勘兵衛の家に寓居していた。 正利は闇斎を招こうとして勘兵衛に意を通ぜしめましたが、闇斎は 「 侯 もし学に志があるならば来り学べ 」 と言ったので、正利は即日来り見え、弟子の礼を執ったと言います。 同年に加藤美作守泰義( 大洲侯五万石 ) もまた来って闇斎に師事しました。
 その後は、殆ど毎年 京都から江戸に下って、井上河内守や加藤美作守などと交流を深め、そうした大名の蔵書に跋文を著したり、「 家譜 」 を製作したりしました。 特に加藤美作守の求めで、和文の教訓書である 『 大和小学 』 を編集しています。
 また、その京と江戸との往来の途中、伊勢神宮に参宮すること二回、又近江の多賀宮にも参詣しています。 尚その間に両親を伴って 伊勢参宮及び男山八幡宮にも参詣しています。
 なお、闇斎、四十六歳の寛文三年( 一六六三 ) 十二月十五日には、土佐の野中兼山が死去しています。


会津侯保科正之に招聘

 四十八歳の寛文五年( 一六六五 )三月に江戸に遊んだ時、闇斎は、四月八日に会津初代藩主( 第二代将軍 秀忠の四男 )、保科正之(ほしなまさゆき) 公に賓師として招聘(しょうへい) されました。 京都に於て、始めて講席を開いて門弟を教授してから十一年目、江戸に出て、始めて笠間侯井上正利に招聘を受けてから八年目である。 則ち朱子学者として闇斎の学名既に世々に高い頃でした。
 一方、招聘した正之は、この時五十五歳で、朱子学を講究するようになってから、これ又十余年を経て、学徳共に円熟した時代でした。
 なお、寛文元年には、卜部神道五十四傳の吉川惟足(きっかわこれたり) が保科正之に招かれてその賓師となっていましたので、闇斎は、侯と共に吉川惟足から神道の講義を聴くことになりました。 この時より闇斎は、博く神道を渉猟(しょうりょう) し、寛文十一年( 一六七一 )、五十四歳の時には、吉川惟足より吉田神道の伝を受け、垂加霊社の号を与えられることになります。

          
          保科正之公肖像 狩野探幽画 ( 土津神社蔵 )

会津藩の学問士風

 当時、学問は未だ草創の時代でしたが、保科正之は 早くから学問の価値を認め、多くの儒者を招いて自ら学問を講究しています。 特に神道に於ては、徳川時代神道興隆の先覚者であり、自らその奥義を極め、為に所謂 会津学 と言う特色のある学風を興すことになりました。 これは 「 神儒一致之正道 」 とも称されています。 実にこの神道儒道一致契合の思想は、後の水戸学に先立つものです。 そして この学風の形成に最も力のあったのは、正之が賓師として招聘した山崎闇斎でした。  
 闇斎は、彼の学問の最も成熟した時代の八年間を会津に送り、その篤く信じる朱子学を講じ、且つまた正之の文教事業にも携わり、正之の為、会津藩の為に大きな貢献を果たしました。  一方、彼が晩年に於て独特の神道、則ち垂加神道を創始し、この神道が、彼の多数の門弟に非常な感化を与え、国体精神の発揮に大きく貢献をしたことはよく知られている。 然るにこの垂加神道の創始大成に就いては、彼の会津藩招聘中に正之から誘導示発を受け、その基礎が築かれたものです。 このように正之と闇斎との間は、一般的な大名と賓師としての単純な関係ではなく、互に学問的、思想的に相通じ、相結ぶものがありました。 このような固い信頼関係があってこそ、会津の特色ある学風が生れたというべきでしょう。
 闇斎は、会津侯に招聘されて以降、正之の亡くなるまでの九年間に八回江戸に下っていますので、ほぼ毎年、正之の許に長期の出張講義をし、同時に政策の諮問に与かり、会津藩政の基本的な枠組みの確立に積極的な役割を果たしました。 会津藩二百年の文教の基礎は、藩祖保科正之によって築かれたものです。 山崎闇斎は、八年に亘って賓師としてその任を尽し、その関係影響する所は広く且つ深く、かの会津学の成立も、闇斎を措(お) いては語ることは出来ません。
 しかも、正之以後の会津藩の学問士風は、幕末維新の戊辰戦争に敗れ、滅藩となるまで、全く藩祖正之の築いた跡を忠実に遵奉(じゅんぽう) することにのみ努められて来ました。 さらに、藩祖正之と闇斎たちによって興された特色ある会津学という学風は、その周囲を山塊に囲まれ、他の地域と隔絶された会津盆地という地形故に かえって純粋に受け継がれ、純化され、時を経て二百年、幕末に 世にいう会津士魂として その成果を発揮するのです。 うがった言い方をすれば、会津士魂は 土佐南学のなせる業と言っても良いかも知れません。 このように 闇斎の会津に及ぼした影響は、彼の会津に於ける事績と共に、学風上、精神上に與うるものが大変大きかったということです。

 闇斎が始めて京都から江戸に出た時に、井上笠間侯や加藤大洲侯が、之に師事し、之を用いましたが、孰れも一時的で永く続きませんでした。 会津藩に於て始めて雄藩と賢君とを得て、彼の学問と思想とを能く伝え得たと言うべきでしょう。 当時官学林家の朱子学に対して、彼が民間の朱子学者として重きを為したのも、一は之に因ると言ってよい。 
 彼は会津藩を辞去して後は、他に聘を求めず、専ら講学と門弟の誘掖指導に従いました。 その為 闇斎が、実世間的に活動したのは、会津に於て最も永く、又会津に於て最も多く 事をなしました。 要するに、闇斎は 土佐に於て学を修め、京都に於て学を伝え、会津に於て学を施したと言えます。

       次回は、山崎闇斎の続きです。   

                   続く 次回




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