田中河内介・その94
外史氏曰
【出島物語ー6】
アステカ、インカ帝国 が消滅し、人口も激減
一四九二年に コロンブスが到着してから わずか数十年で、アメリカ大陸の歴史は激変してしまった。 それを象徴するのが、アステカ王国やインカ帝国の滅亡である。
『 スペインの中・南米大陸の制圧は、世界史上空前の信じ難い出来事だった。 スペイン人 エルナン・コルテスは、わずか四〇〇人の手兵と五〇頭の馬でアステカ王国を征服し、支配を確立し、 同じくフランシスコ・ピサロは、さらに少ない兵士でインカ帝国を滅ぼしてしまった。
これによりメキシコとペルーのインディアスは、絶滅こそしなかったが、隷属と悲嘆の中に細々と生き残ることになった。』 (「 侵略の世界史 」)
アステカ王国
テスココ瑚上の小島 テノチティトラン ( 現メキシコ市 ) を首都とし、メキシコ中央部の大半を治めていた アステカ王国は、そのころ最盛期を迎えつつあった。
元来、北方の狩猟民族であったアステカ族は、メキシコ盆地に腰を据えてから発展を重ね、水浸しの寒村に過ぎなかったテノチティトランも、約二〇万人の人口を数える都市に変貌していたのである。
だが一五一九年、スペイン人コルテスが わずか六〇〇余名の兵を率い、突然侵入してきた。 一度は追い返したが、二年後に再襲してきたときに敗れ、アステカの歴史は幕を閉じ、スペインの植民地となった。 ( やりなおしの世界史 謝 世輝著 )
コルテスの 「 アステカ王国 」 征服
『 コルテスが 一五一九年にベラクルスに上陸するや、インディアスに手厚く迎えられた。 アステカ皇帝の モクテスマは 黄金製の宝物を車一杯に積んで歓迎した。
黄金、これこそスペイン人が探し求めていたものだった。 それがあふれるばかりここにあった。 コルテスは自分はついに宝の山に突き当たった。 この宝を略奪し帰国すれば、大金持ちの英雄になれると直観した。
コルテスは部族同士の争いをうまく利用して漁夫の利を得たり、アステカ皇帝に反抗する部族を手なずけ活用するという常套手段を使って、アステカ帝国を滅亡させたのである。
当時、先住民たちには鉄鋼製の剣、銃、軽砲もなかった。 また馬も、人が馬に乗る姿も見たこともなかった。 その上、スペイン勢は訓練された歴戦の兵士たちだった。
コルテスは、全土にわたって反乱士族を扇動し、近代武器で首都を攻撃、皇帝を捕虜とし衆人の前で殺害した。 あっという間に、コルテスはアステカの支配者になった。
一握りともいえる軍隊で一つの帝国を転覆させることができたのは、武装騎馬隊の優位と、マスケット銃といった近代兵器、および謀略にたけたヨーロッパ人の奸計によるものであった。
コルテスのアステカ帝国の征服はヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人の武器と勇気と技術の勝利と賞賛され、これが動機となり、ヨーロッパ人の新大陸侵略、略奪の夢を駆り立てることになった。』 (「 侵略の世界史 」)
インカ帝国の滅亡
同様の経過を、現在のペルーやチリ辺りで栄えていたインカ帝国も辿らされた。 こちらのコルテス役はスペイン人 ピサロである。
バルボア ( スペイン人 ) の探検隊に加わっていたピサロは、「 黄金の国インカ 」 の噂を聞き、征服欲に駆られた。 そこで 南アメリカ大陸を目指したのである。
だが黄金国への門は狭かった。 第一回目の試みは挫折し、二回目の企ても水泡に帰した。 一五〇人ほどの私兵部隊のうち、生き残れたのは五〇人弱であった。
ピサロは スペイン国王の認可まで得て三度目の正直を狙った。 一八〇余人の部下を乗せた三隻の船隊を率いて、一五三一年一月に、パナマを出帆したのである。
そうして 一万人以上の先住民 ( インディオ ) を殺害しながら進み続け、カハマルカの戦いで、とうとうインカ帝国の皇帝を捕らえた。
すなわち、アタワルパ皇帝の拘束・幽閉である。 一五三二年一一月の話である。
皇帝は翌年八月処刑された。 アステカ王国 同様、インカ帝国も滅亡に至らされたわけである。
こうして始まったスペインの植民活動は、過酷をきわめた。 土地や物の収奪、キリスト教への強制改宗はもちろんのこと、インカの人口自体、たった一〇〇年(一六世紀)で、三五〇〇万人から二五〇万人に激減したという。 奴隷的酷使や疫病のためである。 ( やりなおしの世界史 謝 世輝著 )
一八〇人で 「 インカ帝国 」を制圧したピサロ
『 コルテスの奸計を真似て、続いて登場したのがピサロである。 わずかの手兵で一帝国を占領、莫大な黄金を得たコルテスのニュースは、カリブ海を探検中のピサロにも届いていた。 一五二三年、計り知れない黄金に恵まれたアンデス山中のインカ帝国についてのニュースを耳にしたピサロは、さっそく インカの地を求めて、太平洋岸を南下する遠征隊を組織した。
一五三一年、その三回目の航海に、ピサロは一八〇人の手兵と二七頭の馬と共に出港した。 エクアドルからボリビアまで延びる高地に沿って建設されたインカ帝国は、建国してまだ一〇〇年足らずであったが、山々を縫う道路、貯蔵庫、農業台地、雲の中に建設された高山都市と、驚くべき偉業が遂げられていた。 インカ帝国は、他にも多くの部族を制圧していた。
ピサロはトウンベスという港に上陸した。 ピサロは幸先のよい時にきたものだ。
一五二七年、インカの王 ワイナ・カパックはすでに死んでいた。 死の床で彼はその王国を息子のアタワルパとワスカルに与えた。 二人は主権を争っていた。 兄のアタワルパは弟のワスカルを捕え、インカの首都クスコを占領し皇帝の座についていた。
一五三一年、ピサロとその軍隊は、沿岸地帯を離れて、インカの建設した道路を通って、インカ王を求めて山岳地帯へ進軍した。
アタワルパはピサロの進軍を知っていたが、途中で攻撃するような卑怯なことをしなかった。 ピサロが町に着いてみると、町は空っぽでアタワルパは近くの温泉地に陣取っていた。 ピサロは、町の中心の広場を占拠して防御を固めてから、アタワルパに使者を送って、この広場に来るよう招待した。 皇帝は同意し、彼とその従者たちは丸腰でゆくと宣言し、ピサロを安心させた。 ところがピサロはコルテスと同じように、初めから皇帝を捕虜にしようと心に決めていた。
皇帝が数千人の家臣を従えて 森閑とした広場に入ると、ピサロの従軍司祭の神父は 皇帝に近づき、通訳を通して、キリスト教への改宗を求めた。
王がそれを無礼な行為として退けると、司祭はピサロに駆け寄り、王を攻撃するように強く促した。 またピサロとその兵士たちに、これからの流血の事態に対するいかなる責めからも、神の名において免ぜられると告げた。
ピサロの合図で、歩兵に支援された騎乗兵が隠れ場所から躍り出て、非武装のインディアスに襲いかかり、多数の貴族を含む数千人をあっという間に殺害してしまった。
王の従者の数人は王を守ろうとしたが、たちまちスペイン人の剣客によって切り捨てられた。 王は人質にされ、ピサロは帝国の支配権を握ってしまった。 すべて半時間の出来事であった。 インディアスの相手を疑わない寛容な善意の対応を裏切った騙し討ちであった。
このような白人の残虐非情な手は、五世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段である。』 (「 侵略の世界史 」)
最後のインカ王、トゥパク・アマルの最後
『 ピサロの奸計は さらに続くのである。 捕えられた王は、スペイン人が何よりも欲しがっているのが黄金であることを知っていたので、もし釈放してくれたら部屋一杯の黄金を差し上げると申し出た。 ピサロは同意した。
王の指令で インカの全国から黄金が運び込まれた。 その量はヨーロッパの半世紀分の生産量に相当するものだった。 部屋一杯の黄金が供出させられた途端に、ピサロは約束を破って、王を裁判にかけ、ロープで絞め殺した。
ピサロは 王の腹違いの弟にインカの王位を継がせ、それから首都クスコへ進軍した。 どこまでも王を人質にして利用するためであった。
この新王も、スペイン人と一年間も戦ったが勝てず、山中に逃れて新しいインカの国を建てた。
その最後のインカ王トゥパク・アマルも捕えられ、クスコに連行されて、中央広場で斬首された。
一九九六年末の、ペルーの日本大使公邸人質事件で、ゲリラ集団がトゥパク・アマルを名のったのも、故なしとしない。』 (「 侵略の世界史 」)
大量殺戮と恐怖政治
『 あまりにも あっけない 先住民の制圧に 勝利したスペインの征服者たちは、強制労働と 貢ぎ物の強要を意味する エンコミエンダ制を、メキシコからペルーにひろめた。
インディアスは 唯一入手できる労働力として 新植民地の経済的前進に 不可欠のものだった。 征服者たちは農業を全く知らなかった。 インディアスなしでは征服した土地は ほとんど無価値に等しかったからだ。
これは コロンブスが以前書いたとおりであった。 そこにはこのように書かれていた。
「 エスパニョーラのインディアスこそ 富そのものである。 なぜなら、彼らは地を掘り、われらキリスト教徒のパンや その他の糧食をつくり、鉱山から黄金を取り出し、人間と荷役動物の 労役のすべてをするのが彼らだからだ 」
メキシコとペルーの スペイン政権が 栄える唯一の道は、インディアスに労役を要求し、その土地を取り上げることで 彼らをスペイン人の支配下に保ちつづけることであった。
そのため 大量殺戮と 恐怖政治が続けられた。 インディアスは、征服者たちに 何の罪悪感もなく殺された。 殺された者の身元など、だれも気にしなかった。』 (「 侵略の世界史 」)
つづく 次回
外史氏曰
【出島物語ー6】
アステカ、インカ帝国 が消滅し、人口も激減
一四九二年に コロンブスが到着してから わずか数十年で、アメリカ大陸の歴史は激変してしまった。 それを象徴するのが、アステカ王国やインカ帝国の滅亡である。
『 スペインの中・南米大陸の制圧は、世界史上空前の信じ難い出来事だった。 スペイン人 エルナン・コルテスは、わずか四〇〇人の手兵と五〇頭の馬でアステカ王国を征服し、支配を確立し、 同じくフランシスコ・ピサロは、さらに少ない兵士でインカ帝国を滅ぼしてしまった。
これによりメキシコとペルーのインディアスは、絶滅こそしなかったが、隷属と悲嘆の中に細々と生き残ることになった。』 (「 侵略の世界史 」)
アステカ王国
テスココ瑚上の小島 テノチティトラン ( 現メキシコ市 ) を首都とし、メキシコ中央部の大半を治めていた アステカ王国は、そのころ最盛期を迎えつつあった。
元来、北方の狩猟民族であったアステカ族は、メキシコ盆地に腰を据えてから発展を重ね、水浸しの寒村に過ぎなかったテノチティトランも、約二〇万人の人口を数える都市に変貌していたのである。
だが一五一九年、スペイン人コルテスが わずか六〇〇余名の兵を率い、突然侵入してきた。 一度は追い返したが、二年後に再襲してきたときに敗れ、アステカの歴史は幕を閉じ、スペインの植民地となった。 ( やりなおしの世界史 謝 世輝著 )
コルテスの 「 アステカ王国 」 征服
『 コルテスが 一五一九年にベラクルスに上陸するや、インディアスに手厚く迎えられた。 アステカ皇帝の モクテスマは 黄金製の宝物を車一杯に積んで歓迎した。
黄金、これこそスペイン人が探し求めていたものだった。 それがあふれるばかりここにあった。 コルテスは自分はついに宝の山に突き当たった。 この宝を略奪し帰国すれば、大金持ちの英雄になれると直観した。
コルテスは部族同士の争いをうまく利用して漁夫の利を得たり、アステカ皇帝に反抗する部族を手なずけ活用するという常套手段を使って、アステカ帝国を滅亡させたのである。
当時、先住民たちには鉄鋼製の剣、銃、軽砲もなかった。 また馬も、人が馬に乗る姿も見たこともなかった。 その上、スペイン勢は訓練された歴戦の兵士たちだった。
コルテスは、全土にわたって反乱士族を扇動し、近代武器で首都を攻撃、皇帝を捕虜とし衆人の前で殺害した。 あっという間に、コルテスはアステカの支配者になった。
一握りともいえる軍隊で一つの帝国を転覆させることができたのは、武装騎馬隊の優位と、マスケット銃といった近代兵器、および謀略にたけたヨーロッパ人の奸計によるものであった。
コルテスのアステカ帝国の征服はヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人の武器と勇気と技術の勝利と賞賛され、これが動機となり、ヨーロッパ人の新大陸侵略、略奪の夢を駆り立てることになった。』 (「 侵略の世界史 」)
インカ帝国の滅亡
同様の経過を、現在のペルーやチリ辺りで栄えていたインカ帝国も辿らされた。 こちらのコルテス役はスペイン人 ピサロである。
バルボア ( スペイン人 ) の探検隊に加わっていたピサロは、「 黄金の国インカ 」 の噂を聞き、征服欲に駆られた。 そこで 南アメリカ大陸を目指したのである。
だが黄金国への門は狭かった。 第一回目の試みは挫折し、二回目の企ても水泡に帰した。 一五〇人ほどの私兵部隊のうち、生き残れたのは五〇人弱であった。
ピサロは スペイン国王の認可まで得て三度目の正直を狙った。 一八〇余人の部下を乗せた三隻の船隊を率いて、一五三一年一月に、パナマを出帆したのである。
そうして 一万人以上の先住民 ( インディオ ) を殺害しながら進み続け、カハマルカの戦いで、とうとうインカ帝国の皇帝を捕らえた。
すなわち、アタワルパ皇帝の拘束・幽閉である。 一五三二年一一月の話である。
皇帝は翌年八月処刑された。 アステカ王国 同様、インカ帝国も滅亡に至らされたわけである。
こうして始まったスペインの植民活動は、過酷をきわめた。 土地や物の収奪、キリスト教への強制改宗はもちろんのこと、インカの人口自体、たった一〇〇年(一六世紀)で、三五〇〇万人から二五〇万人に激減したという。 奴隷的酷使や疫病のためである。 ( やりなおしの世界史 謝 世輝著 )
一八〇人で 「 インカ帝国 」を制圧したピサロ
『 コルテスの奸計を真似て、続いて登場したのがピサロである。 わずかの手兵で一帝国を占領、莫大な黄金を得たコルテスのニュースは、カリブ海を探検中のピサロにも届いていた。 一五二三年、計り知れない黄金に恵まれたアンデス山中のインカ帝国についてのニュースを耳にしたピサロは、さっそく インカの地を求めて、太平洋岸を南下する遠征隊を組織した。
一五三一年、その三回目の航海に、ピサロは一八〇人の手兵と二七頭の馬と共に出港した。 エクアドルからボリビアまで延びる高地に沿って建設されたインカ帝国は、建国してまだ一〇〇年足らずであったが、山々を縫う道路、貯蔵庫、農業台地、雲の中に建設された高山都市と、驚くべき偉業が遂げられていた。 インカ帝国は、他にも多くの部族を制圧していた。
ピサロはトウンベスという港に上陸した。 ピサロは幸先のよい時にきたものだ。
一五二七年、インカの王 ワイナ・カパックはすでに死んでいた。 死の床で彼はその王国を息子のアタワルパとワスカルに与えた。 二人は主権を争っていた。 兄のアタワルパは弟のワスカルを捕え、インカの首都クスコを占領し皇帝の座についていた。
一五三一年、ピサロとその軍隊は、沿岸地帯を離れて、インカの建設した道路を通って、インカ王を求めて山岳地帯へ進軍した。
アタワルパはピサロの進軍を知っていたが、途中で攻撃するような卑怯なことをしなかった。 ピサロが町に着いてみると、町は空っぽでアタワルパは近くの温泉地に陣取っていた。 ピサロは、町の中心の広場を占拠して防御を固めてから、アタワルパに使者を送って、この広場に来るよう招待した。 皇帝は同意し、彼とその従者たちは丸腰でゆくと宣言し、ピサロを安心させた。 ところがピサロはコルテスと同じように、初めから皇帝を捕虜にしようと心に決めていた。
皇帝が数千人の家臣を従えて 森閑とした広場に入ると、ピサロの従軍司祭の神父は 皇帝に近づき、通訳を通して、キリスト教への改宗を求めた。
王がそれを無礼な行為として退けると、司祭はピサロに駆け寄り、王を攻撃するように強く促した。 またピサロとその兵士たちに、これからの流血の事態に対するいかなる責めからも、神の名において免ぜられると告げた。
ピサロの合図で、歩兵に支援された騎乗兵が隠れ場所から躍り出て、非武装のインディアスに襲いかかり、多数の貴族を含む数千人をあっという間に殺害してしまった。
王の従者の数人は王を守ろうとしたが、たちまちスペイン人の剣客によって切り捨てられた。 王は人質にされ、ピサロは帝国の支配権を握ってしまった。 すべて半時間の出来事であった。 インディアスの相手を疑わない寛容な善意の対応を裏切った騙し討ちであった。
このような白人の残虐非情な手は、五世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段である。』 (「 侵略の世界史 」)
最後のインカ王、トゥパク・アマルの最後
『 ピサロの奸計は さらに続くのである。 捕えられた王は、スペイン人が何よりも欲しがっているのが黄金であることを知っていたので、もし釈放してくれたら部屋一杯の黄金を差し上げると申し出た。 ピサロは同意した。
王の指令で インカの全国から黄金が運び込まれた。 その量はヨーロッパの半世紀分の生産量に相当するものだった。 部屋一杯の黄金が供出させられた途端に、ピサロは約束を破って、王を裁判にかけ、ロープで絞め殺した。
ピサロは 王の腹違いの弟にインカの王位を継がせ、それから首都クスコへ進軍した。 どこまでも王を人質にして利用するためであった。
この新王も、スペイン人と一年間も戦ったが勝てず、山中に逃れて新しいインカの国を建てた。
その最後のインカ王トゥパク・アマルも捕えられ、クスコに連行されて、中央広場で斬首された。
一九九六年末の、ペルーの日本大使公邸人質事件で、ゲリラ集団がトゥパク・アマルを名のったのも、故なしとしない。』 (「 侵略の世界史 」)
大量殺戮と恐怖政治
『 あまりにも あっけない 先住民の制圧に 勝利したスペインの征服者たちは、強制労働と 貢ぎ物の強要を意味する エンコミエンダ制を、メキシコからペルーにひろめた。
インディアスは 唯一入手できる労働力として 新植民地の経済的前進に 不可欠のものだった。 征服者たちは農業を全く知らなかった。 インディアスなしでは征服した土地は ほとんど無価値に等しかったからだ。
これは コロンブスが以前書いたとおりであった。 そこにはこのように書かれていた。
「 エスパニョーラのインディアスこそ 富そのものである。 なぜなら、彼らは地を掘り、われらキリスト教徒のパンや その他の糧食をつくり、鉱山から黄金を取り出し、人間と荷役動物の 労役のすべてをするのが彼らだからだ 」
メキシコとペルーの スペイン政権が 栄える唯一の道は、インディアスに労役を要求し、その土地を取り上げることで 彼らをスペイン人の支配下に保ちつづけることであった。
そのため 大量殺戮と 恐怖政治が続けられた。 インディアスは、征服者たちに 何の罪悪感もなく殺された。 殺された者の身元など、だれも気にしなかった。』 (「 侵略の世界史 」)
つづく 次回