日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー27 ( 京坂間の往来-2  ・三十石船の面影 )

2008-05-24 02:35:34 | 幕末維新
                 三十石船と くらわんか舟 (広重版画)

吉田松陰、 田中河内介、 真木和泉守

すごい先生たち-27

田中河内介・その26 (寺田屋事件ー15)


外史氏曰

京坂往来ー2

三十石船の面影

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   三十石船は上りに一日、下りに半日を要した。 上りは早朝に八軒家を出て、約十二時間で伏見に着く。 下りは夜半に伏見を出て早朝八軒家に着いた。 多い時には、一六二艘が淀川を往来し、一昼夜で約九千人の旅客を運んだという。
   上り船は流れに逆行するから倍の時間がかかる上に、九ヶ所ほど綱で曳きのぼらねばならない場所があって、幾人もの綱引人足が堤から綱を曳いて船を進めた。 その点、下り舟は流れにまかせての運行であるから、速い上に楽であった。  だから運賃の方も、下り船は上り船より格段に安い。 享和二年( 一八〇二 )板  『 大坂より京都迄登船独(のぼりぶねひとり) 案内(あんない) 』 によれば、船賃は上り一四四文、下り七二文と船賃も上りは下りの倍になっている。 当時、蕎麦(そば) 一杯が一六文であった。 また時には、下り船の運賃が上りの四分の一であった時もあったそうである。

   三十石船は長さ約十七メートル、幅は二・五メートル、かなり細長い船である。 定員は二十八名、 五、六人の船頭がついた。 船には、屋形はなく、苫(とま)【 茅(かや)などの覆い 】 によって雨露をしのぐ簡素なもので、トイレも付いていなかったが、有料の貸布団もあり、船宿からは火鉢の貸し出しもなされていた。
   酒食は乗りながらにして入手できた。 京・大坂の中間に位置する枚方(ひらかた) では、「 酒、くらわんかー、餅くらわんかー、芋くらわんかー、ゴンボ(牛蒡)汁どうじゃい! 」  などの掛け声とともに小舟で三十石船に近づき、酒食を販売する業者の 「 くらわんか船 」 が有名で、強引かつ言葉の荒っぽい商法で知られていた。 これは徳川幕府から与えられた特権でもあったと言われている。 毛馬にも有名な煮売船(にうりぶね) があり、名物田楽餅(でんがくもち)  などを商った。
   また淀川の船旅は、両岸の名所を見る楽しみもあった。 桜宮(さくらのみや)・木村堤の桜、 柴島(くにじま) の晒堤(さらしつつみ)、 佐太(さた)の天神、 淀の水車など、一杯飲みながらの船旅もおつなものであった。

                   つづく 次回

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